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2021年5月 3日 (月)

西ローマ帝国の滅亡、オドアケル王国、東ゴート王国、ランゴバルド王国

ブリタニア・ガリア・ヒスパニアは完全にゲルマン民族によって無秩序に無法支配された。

415年、ブリタニアからの帰還兵を一兵卒コンスタンティウスが統率。西ゴート族が身を休めていたナルボンヌを海上封鎖し、アタウルフが殺害され、新族長ヴァリアと同盟締結。皇妹ガッラ・プラチディアが釈放され、コンスタンティウスと再婚した。

421年、コンスタンティウスが共同皇帝に就任するも急死。ガッラ・プラチディアと息子ヴァレンティニアヌスはコンスタンティノープルに亡命。

423年、ホノリウス帝死去

425年、ヴァレンティアヌス帝、ラヴェンナにて即位。幼帝なのでガッラ・プラチディアが実権を掌握する。

ボニファティウス 宰相・皇帝護衛隊長・アフリカ担当軍司令官

アエティウス ガリア担当軍司令官

アリウス派のボニファティウスが治める北アフリカの上層階級はアタナシウス派、下層市民はドナートゥス派。アフリカ分離独立の嫌疑がかけられて、ガッラ・プラチディアがゴート族に征伐させるが失敗、アリウス派のヴァンダル族ゲンセリックをイベリア半島からアフリカに船で移して、ドナートゥス派と共謀して、ボニファティウスを破らせる。ボニファティウスはラヴェンナに帰国、罪が赦され、アエティウス征討を命ぜられる。

アエティウスはフン族に人質として捕らわれの身でアッティラ大王とも面識があった。432年、リミニの戦いでボニファティウス優勢とみるや、決闘を申し込み、槍を長くして一撃でボニファティウスを倒した。ガッラ・プラチディアを政権から後退させた。

439年、ヴァンダル族が北アフリカを征服。カルタゴ海運力を用い海賊を働いた。

444年、フン族アッティラが東ローマ帝国コンスタンティノープル侵攻。

447年、アッティラを東ローマ帝国同盟者に任ずる。

450年、テオドシウス2世死去。元老院議員マルキアヌスが即位し、アッティラとの同盟破棄。

451年、アッティラがガリア侵攻。カンピ・カタラウニチ(シャンパーニュ)会戦で、アエティウスがアッティラを破る。

アエティウス&西ゴート族テオドリック&アラニ族

vs アッティラ&フランク族&東ゴート族

452年、アッティラが北イタリア侵攻。ローマ司教レオ1世から金銭を受け取り撤退。

453年、アッティラ死去。

454年、ヴァレンティアヌス帝がアエティウス刺殺。

455年、ヴァレンティアヌス帝が殺害。アッティラに仕えていたスヴェビ族出身リキメロス将軍が実権を掌握。

468年、海賊行為を繰り返すヴァンダル王国ゲンセリックに対し、東ローマ皇帝レオ1世と西ローマ皇帝アンテミウスによって東西最後の共闘がおこなわれた。ゲンセリックはシチリア島、サルディニア島、コルシカ島を奪取した。

東ローマ帝国海軍 バジリスコス ボン岬海戦で火の計に敗走

西ローマ帝国海軍 マルケリヌス シチリア島で敗死

東ローマ帝国陸軍 ヘラクリウス ボン岬海戦をみて撤退

470年、アンテミウス帝、ヒスパニアからガリアに領土拡大した西ゴート族エウリックに敗戦。

472年、リキメロスがアンテミウス帝を廃してオリブリウス帝を据える。ローマ内戦によりアンテミウス敗死、リキメロス病死、オリブリウス暗殺。

475年、西ローマ傀儡皇帝ネポスに私怨があるオレステスが息子ロムルスを新皇帝に推薦しローマ元老院が承認した。

476年、西ローマ軍将軍オドアケルが待遇改善を求め、オレステルを殺害、ロムルスを廃位しナポリで幽閉。静寂のうちに西ローマ帝国は滅亡した。東ローマ帝国ゼノ帝は、オドアケルにパトリキウス(貴族)なら承認すると言ってきたが拒否。自らイタリア王を名乗った。オドアケルはラヴェンナに住み、ローマ法をすえて、アタナシウス派キリスト教会とラティフンディウムを温存活用し、元老院階級に銅貨鋳造権を与え減税したので、好評を博した。

489-493年、東ゴート族テオドリックが東ローマ帝国との同盟をバックに、オドアケルに戦勝しラヴェンナで講和締結直後にオドアケルを謀殺。東ゴート王国を建国。

526年、テオドリック死去し、アタラリック即位。母アマラスンタが実権掌握。

534年、アマラスンタがテオダトゥスと再婚し、テオダトゥス即位。東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝に忠誠を誓ったことで退位を迫られた。

536年、ヴィティジス即位。

*学問所の設立

529年 聖ベネディクトゥス モナステリウム(モンテカッシーノ修道院) カッシーノ 校風は絶対服従

536年 カシオドロス ヴィヴァリウム(学園) スキラーチェ 校風は自由

533年、東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝が将軍ベリサリウスを北アフリカに派遣し、ヴァンダル王国を滅ぼす。自動的にサルディニア島は東ローマ帝国領となった。

*アゲマンの妻たち

ユスティニアヌス大帝 テオドラ

ベリサリウス アントニア

ユスティニアヌス大帝

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テオドラ皇后

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ベリサリウス

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535年、ベリサリウスがシチリア島占領。

536年、ベリサリウスがナポリ、ローマを占領。東ゴート軍が地下水道を通って城内侵入してくるのを防ぐため地下水道を破壊した。飲料水不足のため、女こどもの住民を南イタリアへ強制移住させた。ローマ司教シルヴェリウスを東ゴートスパイ容疑でコンスタンティノープルに送還。

539年、ベリサリウスがラヴェンナ占領。ヴィティジス捕囚。王とゴート兵捕虜ともにアタナシウス派に改宗。

540年、東ゴートの新王トティラ即位。清廉と寛容をもって兵士や住民に接し、イタリア失地を回復した。

546年、東ゴートがローマ侵入し、ローマ元老院が廃止され、元老院階級は難民となり雲散霧消。

547年、ベリサリウス、ローマ入城。

552年、ナルセス、ロンゴバルド族を兵に鍛えて、トティラを敗死させる。

553年、ナルセス、クーマにて東ゴート新王テイアを敗死させる。イタリア・シチリア・コルシカ・サルディニアに重税を課した。

活気あるローマを完全に滅ぼしたのも、や・は・り、東ローマ帝国であった。アリウス派支配をアタナシウス派支配に変えたい、ただそれだけのことなのに。

ナルセス

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7世紀になるとイスラムがシチリア島を目指して来襲を繰り返した。原イスラムのアラブ人、そして新イスラムのベルベル人&ムーア人のあいだにも争いが起こっており、ビザンツ帝国との海賊休戦協定が守られたことはなかった。

ビザンツ帝国自体も、サラセン帝国、ウマイヤ朝、アッバース朝といった新手のイスラムに領土を侵略されており、それどころではなかった。ローマ教皇には軍がおらず、偶像崇拝を認めないビザンツ帝国とは相いれない立場となっていた。そこで、680年にアタナシウス派に改宗していたランゴバルド王国に庇護を求めることにした。

ロンバルディアの鉄王冠

イエスが磔にされた鉄釘を使って王冠を作ったとされる聖遺物。ランゴバルド国王が戴冠した。

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568年、ランゴバルド族アルボインがフォルム・ユリイ占領。

569年、アルボインがミラノ占領。

570年、アルボインがパヴィア占領。

570年、ビザンツ傭兵・ランゴバルド族ファロアルドがスポレート公国を建国。アタナシウス派。

570年、ビザンツ傭兵・ランゴバルド族ゾォットがベネヴェント公国を建国。アタナシウス派。

572年、アルボインがランゴバルド王国を建国し、パヴィアを首都とした。異教徒アルボイン王が王妃ロザリンドに暗殺。

574年、クレフ王が暗殺。ランゴバルド王国は諸公時代に突入し、南フランス・プロヴァンスに侵入。ビザンツ帝国とフランク王国が同盟を結んで失地回復すると、一方的にフランク王国とランゴバルド王国が停戦協定締結。

577年、ビザンツ将軍バダリウスがイタリア失地回復に乗り出したが敗死。

584年、新王アウタリウス即位。

585年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。

588年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。

590年、フランク王国がランゴバルド王国に侵攻。新王アギルルフス即位。

593年、アギルルフス王がローマ包囲。

598年、ローマ教皇グレゴリウス1世と講和。

603年、ラヴェンナ総督スマグドゥスと講和。アギルルフス、アタナシウス派に改宗。

616年、新王アダルヴァルド即位。アタナシウス派。

626年、新王アリオアルドゥス即位。アリウス派。

636年、新王ロターリ即位。反ビザンツで、失地回復をなし全盛期を迎えた。

652年、新王ロドアルドゥス即位。

653年、新王アリペリウス即位。

ランゴバルド王国は一気に力を失い、他国に蹂躙された。

662-671年、ベネヴェント公国グリモアルドゥス1世がランゴバルド国王を兼任。

663-668年、ビザンツ皇帝コンスタンス2世、シチリア島で暮らす。

692-695年、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス2世、シチリア・テマ制を敷く。

671年、新王ペクルタリトゥス即位。

680年、ランゴバルド王国、アタナシウス派に改宗。ビザンツ帝国・ランゴバルド王国平和条約。

688年、新王クニペルト即位。

ビザンツ帝国とランゴバルド王国の平和が破れたのは、スポレート公によるラヴェンナ外港クラッセの占領であった。

712年、新王リュートプラント即位。

717-718年、リュートプラント、外港クラッセ占領。ビザンツ帝国・ランゴバルド王国平和条約が破棄された。

727-728年、リュートプラント、オシモ占領。

737年、リュートプラント、ラヴェンナ占領。

740年、リュートプラント、スポレート公国征服。

741-742年、リュートプラント、ベネヴェント公国征服。

*ビザンツとローマの関係悪化

649年、ラテラノ公会議でローマ教皇マルティヌス1世が、単意論を異端と宣言した。これにより、ビザンツ国教とアリウス派などすべて異端となり、ローマ教皇が最初にビザンツに対し喧嘩を売ってきたことになる。

当初は、ラヴェンナ総督がローマ教皇を拉致したりできたが、ランゴバルド王国とローマ教皇の関係回復によってパワーバランスが逆転。リュートプラントは、この不和関係を追い風に領土を拡大していった。

744年、新王ラトキス即位。

749年、新王アイストゥルフ即位。

この二王は、ローマ教皇に貢納を求め、領土拡大の野望を捨てようとしなかったため、ローマ教皇ステファヌス2世は、まずビザンツ帝国コンスタンティヌス5世に応援を求めた。しかし無視されたため、フランク王国ピピンに応援を求め、アイストゥルフ王を敗戦させた。

756年、ピピン、奪い取ったラヴェンナ総督府をローマ教皇に寄進。ビザンツ帝国使節グレゴリウスがラヴェンナをビザンツ帝国に返還するよう求めたが、まったく無視された。

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