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2021年5月 2日 (日)

ローマ帝政後期(絶対君主政)から末期にかけて

コンスタンティヌス帝は、アレクサンドリア・トロアス(小アジア)、セルディカ(バルカン)も新首都候補にしていたが、ヨーロッパ側のビザンティオンを選んだ。小アジア側にはすでにニコメディアがあったが、四帝統治時代からの決別を知らしめるために決して首都としなかった。そして再び皇帝血統主義に戻した。

軍事・財政・司法で業績を上げた者を、騎士身分に昇格させた。さらに業績を上げた者を、元老院議員に昇格させ、首都ローマと新首都コンスタンティノープルで政務官職の就任に関与させた。ただし、元老院身分だからといって誰でも元老院に登院できるわけではなかった。

337年、コンスタンティヌス帝の死後、二人の副帝(甥のダルマティウスと甥のハンニバリアヌス)が残り三人の副帝によって殺害された。

340年、ブリタニア・ガリア・ヒスパニア担当の長兄コンスタンティヌス2世が北イタリアに侵攻するも、コンスタンス帝の兵によって殺害。

コンスタンティウス2世(トラキア・小アジア・メソポタミア・エジプト)

コンスタンス帝(バルカン・北アフリカ・ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

346年、コンスタンティウス2世、キリスト教会の人頭税を免除。偶像崇拝禁止令、神殿閉鎖令。

350年、野営中のコンスタンス帝が部下マグネンティウスによって殺害。マグネンティウスとヴェトラニオが皇帝を僭称した。

コンスタンティウス2世は、ササン朝ペルシャ・シャプール2世と休戦協定締結し、セルディカでヴェトラニオを雌伏させることに成功。

東方正帝 コンスタンティウス2世(叔父)

東方副帝 ガルス(甥)

西方僭称正帝 マグネンティウス(兄)

西方僭称副帝 デケンティウス(弟)

351年、ムルサの戦いで、コンスタンティウス2世がマグネンティウス兄弟を破る。戦死者が多すぎて、ローマ帝国軍の軍事力が大幅に低下した。勝機を失った敗将マグネンティウスとデケンティウスは353年、ルグドゥヌム(リヨン)で自殺。ガリアの猛兵を粛清してしまった。354年、ポーラでガルスを斬首。

355年、残る血縁男子のユリアヌスが赦され、

正帝 コンスタンティウス2世

副帝 ユリアヌス

356年、コンスタンティウス2世が、サルマティア族とクワディ族を破る。

357年、ユリアヌス帝がランスで募兵し、ストラスブールの戦いでアレマンノ族を破る。

358~359年、ユリアヌス帝がフランク族を破る。出費費用を節約した。富める者にもしっかりと課税した。人頭税を減税した。減税すれば人々の労働意欲を刺激することになり、しばらくすれば税収の増加になって返ってくると考えた。軍船を新造し、海賊からガリアを防衛し、ガリア農産物の生産性を向上させた。

359年、ササン朝ペルシャ・シャプール2世がアミダを奪取。

360年、ユリアヌス帝がササン朝ペルシャ征討戦に勇猛果敢な軍団を供出せよと命じられ拒否、正帝を宣言。

361年、コンスタンティウス2世がユリアヌス征討中に病死。ユリアヌス帝、宦官全員追放し皇宮改革を断行。ミラノ勅令で謳われた宗教の自由を再保証し、キリスト教会に課税し、キリスト教信者の教師を教場から追放した。キリスト教会が独占した救貧法を国家に広げ、国家も貧しい民を救うと表明した。

362~363年 アリウス派信仰のアルメニア王国が参戦説得に応じず、ササン朝ペルシャ征討戦に勝勢ながら、ユリアヌス帝戦死し、講和。キリスト教徒アタナシウス派の護衛隊長ヨヴィアヌスが新帝に就くも、364年急死。

364年、アリウス派のヴァレンティニアヌス帝即位し西方を治め、実弟ヴァレンスを共同皇帝に任じ東方を治めさせた。

375年、フン族来襲をきっかけにゲルマン民族大移動がはじまる。無礼なクヮディ人使節団の暴言に怒りヴァレンティニアヌス帝急死。その息子兄弟グラティアヌスとヴァレンティニアヌス2世、そしてヴァレンス帝で帝国三分統治。すべてアリウス派。

378年、ヴァレンス帝が、ハドリアノポリスの戦いで西ゴート族に敗死。西ゴートのトラキア征服によってローマ帝国が東西に二分された。

379年、グラティアヌス帝がテオドシウスを招聘。西ゴート族にトラキアを割譲し、東ゴート族にパンノニアを割譲した。彼らは農業でなく兵役を好み、ローマ人農民が彼らの食糧を支えなければならなくなった。自分の土地を耕す人(アグリクルトール)から他人の土地を耕す人(コロヌス)へ。

東方正帝 テオドシウス アタナシウス派に改宗

西方正帝 グラティアヌス アタナシウス派に改宗、383年殺害

イタリア正帝 ヴァレンティニアヌス2世 アリウス派にとどまる、392年殺害

381年、コンスタンティノープル公会議。アリウス派優勢のコンスタンティノープルからアリウス派を追放した。

390年、ミラノの屈辱。破門されたテオドシウス帝がミラノ司教アンブロシウスに対し、公式改悛をおこなった。

392年、キリスト教アタナシウス派を国教に定めた。異教はすべて弾圧対象となり、偶像は破壊された。

393年、ローマ元老院にてユピテル(ゼウス)神有罪可決。オリンピアの古代オリンピックが廃止された。

395年、テオドシウス帝死去。軍総司令官スティリコに息子二人共同統治を託する。

東ローマ帝国 アルカディウス(兄18歳) 宰相ルフィヌス

西ローマ帝国 ホノリウス(弟10歳) 軍総司令官スティリコ

アルカディウス帝

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軍人皇帝から公開祈祷皇帝へ

皇帝は軍の先頭に立って遠征することをやめ、皇帝だけでなく、皇室ファミリーみんなの敬虔なキリスト教信仰のパフォーマンスと、貧しい民を救ってますよというパフォーマンスが、国民の支持を得るために大事になってきた

395年、スティリコがアリウス派、西ゴート族アラリックを破る。アルカディウス帝とルフィヌスが、軍を東西に分け撤退するように命令。スティリコは懐刀のガイナスをコンスタンティノープルに送り、ルフィヌスを殺害。

396年、北アフリカのヒッポ司教に聖アウグスティヌス(354-430)が就任

著書「De civitate Dei(神の国)」で、蛮族に侵された性行為は罪にならないと説いた。

397年、スティリコがアラリックを撃退。アルカディウス皇妃エウドシアと宦官エウトロピウスが、アラリックをイリリクム担当軍司令官に任命。ローマ帝国の東西分裂は、東ローマ帝国のほうが離れていった。

397-398年、ドナートゥス派キリスト教徒、アフリカ担当軍司令官ジルドが西ローマ帝国から東ローマ帝国への帰順を表明。西ローマ帝国への小麦輸出を禁止した。アタナシウス派、ジルド実弟マシェゼルがジルドを破るも凱旋前に溺死。

*ラティフンディウム

自営農民の税金はソリドュス金貨で払わなければならない。農作物と家族の生命が蛮族によって奪われる。農奴になれば、領主が国家に代わって生命の危険から守ってくれるし、税金も払わなくて済んだ。しかし、自由と独立を失った。

*四大金食い虫

軍人と官僚に加え、国教になったキリスト教会、公共心を失い利己主義に走った多くの元老院階級

401年、アリウス派のガイナスが蛮族異端排斥運動で失脚処刑。

*西ローマ帝国への異民族侵攻

401年 スヴェビ族とアラニ族

401-410年 西ゴート族アラリック

405年 東ゴート族ラダガイソ、スヴェビ族、アラニ族、ブルグンド族 40万人

スティリコ、奴隷まで徴兵。

406年 ヴァンダル族、スヴェビ族、アラニ族、サルマティア族、フランク族

407年 スコット族、アングロ族、サクソン族に負けて、ブリタニア派遣ローマ兵コンスタンティヌス3世がガリアに帰国して暴徒化。

408年 スティリコと異端のアラリックが同盟協約。アラリックに法外な金塊を供出し、ローマ元老院紛糾。アルカディウス帝死去。ホノリウス帝、クーデタによりスティリコを斬首刑。ここで西ローマ帝国は実質的に滅亡。ローマはアラリックが恐喝やりたい放題となった。第1回ローマ包囲。

409年 アラリックが第2回ローマ包囲。

410年 アラリックがローマ劫掠。ホノリウス帝妹ガッラ・プラチディア捕囚し、南フランス海岸ナルボンヌで西ゴート族新頭目アタウルフと結婚。多くのローマ市民がローマを捨てた。

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