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2021年4月15日 (木)

京都文化博物館「よみがえる承久の乱」をみて

来年のNHK大河は、北条義時です。ブームになると大混雑が予想されましたので、先だって行ってきました。承久の乱は、北条義時と後鳥羽上皇の戦いです。

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今回の一番の目玉は、

承久記絵巻 数巻

これをじっくり観られるチャンスは今だけだろう。

「治天の君」 八条女院領と六条院領の継承者

後白河 → 後鳥羽 → 後高倉 → 後嵯峨

宝塚歌劇カフェブレイクに後鳥羽上皇を招くときの三つのキーワードは、

和歌、蹴鞠、刀

治承4年(1180)に生まれ、寿永2年(1183)に後鳥羽天皇即位。安徳天皇が存命であり、両統迭立(りょうとうてつりつ)。草薙剣が安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、三種の神器がないまま即位した後鳥羽天皇は、俺って正式の天皇じゃないよな、というコンプレックスに苛まれる。刀への思いがますます募っていった。

太刀 菊御作 菊が刻まれている後鳥羽愛用の太刀

建久三年(1192)、後白河法皇が死ぬまで、後鳥羽天皇は和歌や蹴鞠を嗜む。

国宝 大威徳法 木曽義仲調伏を命じた後白河の院宣

黒漆革包太刀 義仲の妻、巴御前の刀!

泉涌寺のお宝が・・・

俊芿(しゅんじょう)律師像 

こっちは複製、原画は京博で展示されている。栄西と俊仍は仲が良く交流があった。俊仍は戒律だけでなく、宋の最先端の文物、絵画、詩文、脈医学など幅広く持ち帰ってきた。

後白河法皇像

高倉天皇像

安徳天皇像

後鳥羽天皇真筆の和歌

「詠六月」「山河水鳥・旅宿埋火」「深山紅葉・海辺冬月」

熊野本地仏曼荼羅

後鳥羽天皇は、熊野権現を崇拝しており、毎年30回も行幸したそうだ。

鴨沓(かもぐつ) 蹴鞠用の靴。

また蹴鞠がとてもうまく、足袋の色で身分が分かるように定めた。当時、蹴鞠の名手は、

藤原雅経(飛鳥井雅経)

後鳥羽上皇に認められて、蹴鞠が縁で新古今和歌集の撰者に加えられた。蹴鞠も免許皆伝を要するようになり、飛鳥井家は歌毬両道の宗匠家となった。

建久九年(1198)子の土御門天皇に譲位し、自ら後鳥羽上皇となって治天の君に昇格、院政を布いた。

建永元年(1206)北面の武士に加え、西面の武士を組織した。

承久元年(1219)源実朝が鶴岡八幡宮で公暁によって暗殺。

運慶 戌神像

北条義時も鶴岡八幡宮にそのとき招かれていたが、辻薬師堂十二神将のうちの戌神が夢枕に立って、八幡宮に行くなと言われ行かなかった。そのために命拾いしたので、運慶に戌神を彫らせた。

承久三年(1221)承久の乱。当初、京での既得権益を犯した義時追討の院宣を出しただけだったのに乱にまで大きくなってしまった。京方と幕府方に武士や公家や寺院が分かれ、岐阜尾張あたりと越後越中あたりで合戦に及んだ。瀬田・宇治川で最終決戦。

延暦寺僧兵は京方につかず、興福寺僧兵は京方についた。戦後、領土を奪われた。

三浦義村は幕府方につき、三浦胤義は京方についた。

後鳥羽上皇は隠岐に流刑。隠岐でも時代不同歌合をしたり、新古今和歌集を編纂した。延応元年(1239)死没。

元仁元年(1224)義時死去。

貞永元年(1232)北条泰時「御成敗式目」制定。

京方についた地頭や御家人の所領が幕府だけでなく悪党に奪われ、とにかく鎌倉・南北朝時代は土地の争いが絶えなかった。治安の悪さに辟易して遠国に転封を願い出る者も多かった。

北条時宗のお裁き状

後醍醐天皇のお裁き状

足利尊氏のお裁き状

足利直義のお裁き状

高師直のお裁き状

 

*文観(もんかん)と賢俊(けんしゅん)

文観は奈良西大寺出身で後醍醐天皇を支持し、怪しげな女人パーティを主催し、醍醐寺や東寺のナンバー1にまで上り詰める。賢俊は持明院統に仕えた日野氏の出身で、北畠顕家に敗れ西国落ちした足利尊氏のもとに光厳上皇の院宣を手渡した。室町幕府の功労者ゆえ、文観が廃せられたのち、東寺のナンバー1になった。

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