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2021年4月29日 (木)

ローマ帝政後期(絶対君主政)

ゲルマンの執拗な侵略によって、防衛線(リメス)がライン川からドナウ川に後退を余儀なくされていた。それはそれで小康状態を生み、短いながら平和な時代を迎えていた。

ディオクレティアヌス帝は国家機構改革を試み、四分統治を決行。

ディオクレティアヌス帝

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マクシミアヌス帝

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コンスタンティウス・クロルス帝

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283年 第一次四頭政治

東方正帝 ディオクレティアヌス (オリエント)

東方副帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)

西方正帝 マクシミアヌス (イタリア・北アフリカ)

西方副帝 コンスタンティウス・クロルス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

305年 第二次四頭政治 (ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝の勇退)

東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 コンスタンティウス・クロルス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

西方副帝 セヴェルス (イタリア・北アフリカ)

オリエントにはササン朝ペルシャの脅威があり、バルカンにはドナウ川に面したダキアにゲルマンの脅威があった。ペルシャ防衛が最大の課題であったので、キリスト教国のアルメニア王国との軍事同盟がとくに重要であった。

イタリア・北アフリカは、小麦・オリーブ油・果実といった食糧宝庫であり、砂漠化や砂漠の民の襲撃から緑化のための手入れと防衛を要した。ブリタニア・ガリア・ヒスパニアはシュヴァルツ・ヴァルト(黒い森Schwarzwald)から現れるサクソンからの防衛を要した。サクソンのせいで、ローマの皇帝はローマでのほほんと待機することはできず、いつでも攻撃準備ができるミラノに待機せざるを得なかった。首都ローマの地位は、ほかの首都並みに低下した。

296年 ササン朝ペルシャ侵略。最年少のガレリウスが活躍、ヴァレリアヌス帝の恥辱を見事に晴らし、和平条約を締結。シリアにストラータ・ディオクレティアーナと呼ばれる要塞を建設。

ガレリウス帝

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25年間従軍すれば、ローマ市民権を獲得できた。しかし、

カラカラ帝勅令で、ローマ市民と属州民の差別が撤廃され、ローマ市民権は、頑張った子に与えられる「取得権」から、みんなが持てる「既得権」に変わっており、受ける恩恵が小さくなっていた。防衛線に住む異民族は風見鶏となり、ローマにもゲルマンにもつくようになった。

ガリエヌス帝勅令で、元老院議員は軍司令官に就任できなくなった。つまり軍のシビリアンコントロールの放棄。この時代、元老院議員になることはキャリアにとって障害になっていた。

ディオクレティアヌス帝は、豪勢な新首都建設のために、膨大に膨れ上がった官僚と軍隊を養うために増税を余儀なくされた。官僚とは、無用の長物の部署に無駄な人を派遣しつづけ、他の部署からの干渉を嫌い、自らの組織の肥大化を望むものである。所属外のインフラ整備には無関心である。身長150cm以上の男子に無試験で兵役が課せられた。

古代税制では、市民皆兵で兵役という血税が課せられた。

アウグストゥス税制では、市民税5%、属州税10%、関税1.5~5%、消費税1%、相続税5%、奴隷解放税5%。国家は税収の範囲内で政治を行う。属州は皇帝ではなく、元老院と市民の所有物であったが、エジプトは例外で、皇帝の私有地となった。ノブレス・オブリージュと呼ばれる社会への還元、つまりテルマエやコロッセウム建設を皇帝自ら行う資金源がここにあった。

カラカラ浴場収容人数 1600

ディオクレティアヌス浴場収容人数 3000

ディオクレティアヌス税制では、国家の必要経費が決められ、すべて納税者に地租税と人頭税を課する。とくに農村の税負担がきつく、都市への人口集中を生じたすべての職業に世襲制を敷き、離農化を防いだコレジウム(職能別組合)を奨励し、ギルド制度を創始した

デナリウス銀貨の銀含有率をアウグストゥスのときの100%に戻したが、インフレはおさまらず。

王冠(ディアデマ)は、最高神ユピテルが与え賜うたもの。ローマの神は頑張った子を助ける神であって、人に命ずる神ではなかった。皇帝が「市民の第一人者(プリンケプス)」である以上、王冠は忌み嫌われていた。

ディオクレティアヌス帝は、ローマ史上はじめて王冠を戴冠した。元首政が終わり、絶対君主政(ドミナートゥス)のはじまりである。ユピテル最高神に従わないキリスト教徒を大弾圧した。トラヤヌス帝のときは確たる証拠がなければ検挙できなかったが、この時代、キリスト教徒らしいという嫌疑だけで拷問にかけられた。

306~325年 六帝会戦

コンスタンティヌス・クロヌス急死。嫡男コンスタンティヌス(のちの大帝)は母親の身分が卑しく、ディオクレティアヌス帝の下でオリエント防衛の軍務に就いていた。皇帝直属軍5万をバックに正帝を僭称したが、ガレリウス帝との交渉で副帝に就任。

306年 第三次四頭政治

東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 セヴェルス (イタリア・北アフリカ)

西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

コンスタンティヌス帝

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ローマで、マクシミアヌス帝の嫡男マクセンティウスが、ローマ市民と元老院の承認を受け、皇位「プリンケプス・インウィクトゥス」を僭称。ガレリウス帝はこれを認めなかった。

マクセンティウス帝

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307年 ガレリウス帝がセヴェルス帝にマクセンティウスを制圧に向かわせるが、息子をかばうマクシミアヌス帝の参戦で旧臣兵士が裏切り返り討ちにあい、セヴェルス帝は護送先のローマで自死を強いられる。マクセンティウスは皇帝を僭称し、マクシミアヌス帝が復位。

ガレリウス帝自らローマ進軍。セヴェルス帝に非協力だった都市を焼き払った。兵糧不足に陥り撤退。

東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 マクシミアヌス (イタリア・北アフリカ)

西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

308年 首脳会談

ガレリウス帝主催で、ディオクレティアヌス帝とマクシミアヌス帝を招いた。マクシミアヌス帝を退位させ、ガレリウス帝の親友リキニウスを就任させた。

リキニウス帝

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第四次四頭政治

東方正帝 ガレリウス (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 リキニウス (イタリア・北アフリカ)

西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

310年 マクシミアヌス帝のクーデタが未遂に終わり、コンスタンティヌス帝によって自死を強いられた。

311年 ガレリウス帝病死し、四頭政治が終焉

東方正帝 リキニウス兼任 (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 リキニウス (イタリア・北アフリカ)

西方副帝 コンスタンティヌス (ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

312年 ミルヴィウス橋の戦いで、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝を敗死させる。市民を殺さなかったのでヴェローナ以外の抵抗はなし。ヴェローナ陥落でリキニウスとマクセンティウスによる挟撃の恐れが消えた。

東方正帝 リキニウス (バルカン・ギリシャ)

東方副帝 マクシミヌス・ダイア (オリエント)

西方正帝 コンスタンティヌス (イタリア・北アフリカ・ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

313年 マクシミヌス・ダイア帝がディオクレティアヌス帝の娘・ガレリウス帝皇后ヴァレリアを追放し小アジア侵入したが、リキニウス帝により敗死。リキニウス帝、ヴァレリアを処刑。ディオクレティアヌス帝もギリシャにて死去。

東方正帝 リキニウス (バルカン・ギリシャ・オリエント)

西方正帝 コンスタンティヌス (イタリア・北アフリカ・ブリタニア・ガリア・ヒスパニア)

313年 ミラノ勅令

リキニウス帝とコンスタンティヌス帝が合同で出した勅令。ローマ領内の信仰の自由が保障された。ローマの神々に対する敬意や崇拝の必要もまったく消え失せた。

315年 キバラエの戦いで、コンスタンティヌス帝(ライン川のガリア兵)がリキニウス帝(ドナウ川のバルカン兵)を破る。コンスタンティヌス帝の妹コンスタンティアの仲介で講和。リキニウス帝はオリエントのみ領有し、バルカン・ギリシャはコンスタンティヌス帝の領有となり、シルミウムを首都とした。

324年 ハドリアノポリスの戦い、ビザンティウム海戦で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝を破り翌年処刑。ビザンティウムを首都とした。

325年 ニケーア公会議にてアリウス派を異端、アタナシウス派を正統とした。

コンスタンティヌス大帝の政治

元老院が法を決定しても、皇帝が拒否できるようになった。

国境警備兵の農民パートタイム化。異民族によって国境は破られても、皇帝直属軍がのちに撃退するというやり方に変わり、帝国内市民の生命の保証はなくなった。

銀本位制から金本位制へ転換。純銀のデナリウス銀貨から純金のソリドゥス金貨へ。金貨で給料がもらえたのは官僚と軍人と軍需品生産者のみ。市民との経済格差は拡大の一途をたどった。

皇妃と嫡男を不義密通の罪で処刑。

皇帝資産をキリスト教会に寄付した。これは宗教の平等を説いたミラノ勅令に違反していた。聖職者の公務を免除し、異教の神々を拝んだり敬意を表しなくて済むようになった。聖職者は納税免除されたので、地方公務員が食べるためにこぞってキリスト教徒に改宗した。

新都コンスタンティノポリス建設。皇帝私有地エジプトの小麦はローマでなくコンスタンティノポリスに輸送されるように変わった。下層市民へ福祉政策として小麦の無料配布をおこなった。

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