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2021年1月28日 (木)

イングランドの社会的事情

ジャンヌダルクによる予想外の百年戦争敗戦をきたしたあたりからの、イングランドの社会問題を考え、それに対し政府はどう対処していったのだろうか?

疫病、地震、天候(日照時間・気温・降水量)、移民、内乱、外敵侵入も社会問題に大きなインパクトをきたすが、なんとか回復をみせる。大きな要素は、経済政策の失敗、後継者争い、為政者の失策であろう。

*フランス大陸の領土を失ったことにより、輸出製品の需要が低下し、羊毛工業を中心とする手工業が不況に陥った。

*祈祷と教育にしか興味がないヘンリー6世「聖なる愚者」の失策。関税収入が減少しているのに、国王寵臣に直轄領を分け与え王室財政が逼迫した。

経済不況にあえぐ貴族と庶民が、ランカスター家に失望しヨーク家を担ぎ上げたことが、薔薇戦争の発端となった。容姿端麗ながら側弯症のリチャード3世がチューダー家のヘンリー7世に敗北してようやく終戦。貴族が強すぎる時代に終わりを告げ、絶対王政の時代となる。貴族の結婚を制限し、貴族の不敬に罰金を科し、自ら会計監査をおこない、判事を買収し裁判を有利に進め、星室評議会(のちの枢密院)と国王護衛兵を設置した。フランスによる貿易妨害を阻止するため、スペイン・ハプスブルク家と同盟を締結した。

ヘンリー8世は離婚問題を発端とした、カトリック離脱&イングランド国教会設立。このころから、スコットランド併合問題と新教vs旧教戦争が大きい。メアリ1世の旧教反動政治と、カレー失地。エリザベス1世は、結婚と宗教を外交に利用。ネーデルランドとフランス・ユグノーに戦争資金を送り、旧教スペインの新大陸財宝船を海賊行為で強奪した。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだまだ弱小国家であった。救貧法を制定したが、凶作と戦費調達で不況がつづいた。

スコットランドから即位したジェームズ1世は、イングランドの体制を尊重保持したが、庶民院と対立。娘婿プファルツ伯救出のための三十年戦争介入も阻止された。チャールズ1世は議会の承認なく外征や徴税を断行。1628年、貴族院と庶民院が「権利の請願」。寵臣トマス・ウェントワースと大主教ウィリアム・ロードがやりたい放題。清教徒が弾圧を受けた。スコットランド内戦に敗れ、独立派庶民院議員クロムウェルにより斬首刑、清教徒革命。クロムウェルは、庶民院一院制による共和制をはじめ、スコットランドとアイルランド北半分を遠征併合し、1653年護国卿に就任。その死後、二院制に戻し、亡命中のチャールズ2世が王政復古。クロムウェル軍政の甘い汁を吸ってきた陸軍を文官統治のため縮小し、これが弱いイギリス陸軍、強いイギリス海軍という伝統の始まりとなった。英国の東インド会社が雇った陸軍(社員さん)は最強であったが。これは余談。英蘭戦争に勝つ。カトリック教徒に改宗したヨーク公・王弟ジェームズを後継させるかどうかで議会が紛糾。シャフツベリー伯爵がホイッグ党結成。対する保守党をトーリ党と呼んだ。即位を果たしたジェームズ2世のカトリック強制が仇となり、1688年、名誉革命。ジェームズ1世長女メアリがオランダ総督ウィリアムに嫁いでいたのだが、ともにメアリ2世、ウィリアム3世として即位。ルイ14世のフランスに亡命したジェームズ2世がアイルランドで巻き返し内戦を起こすが鎮圧された。「権利章典」で、国王の徴税と常備軍は議会の承認を要するとした。ルイ14世の野望を打ち砕く外交方針に転換、スペイン王位継承戦争に積極的に同盟参加。イングランド銀行が戦争国債を買い支えた。1707年、アン女王がイングランドとスコットランドを合邦。

1714年、ハノーヴァー選帝侯ゲオルクがジョージ1世に即位。たくさんの人口と兵力に喜び、大陸進出の野望を抱く。本心はハプスブルク家に肩を並べたかった。トーリ党にはジャコバイト(ジェームズ2世直系を王位に据えたがる議員)が多く、自然にホイッグ党支持になった。スウェーデン戦争参戦を巡って、ホイッグ党のスタナップとウォルポールが対立。負けたウォルポールはトーリ党に下野。スタナップは、敗戦国スペインの南米利権があると宣伝して南海会社の株価を煽って、スペインからの分け前ゼロであることがバレて株価暴落。議員投資家の怒りを買って失脚。ウォルポールがホイッグ党から初代首相に返り咲いた。王室費を増額してジョージ2世を黙らせ、爵位と土地減税特典を与え議員の支持を獲得。戦費調達のための土地増税を極度に嫌い参戦しなかった。However、1733年、消費税導入で不人気になり、1739年、スペインとの戦争、1740年、オーストリア継承戦争に突入。不戦の誓いは吹っ飛んでしまい死去。

庶民院人気 ペラム→大ピット

貴族院人気 ニューカースル

国王人気 グランヴィル→ビュート→グレンヴィル

1745年、チャールズ・スチュアートがスコットランドから南下軍。ペラムとニューカースルの兄弟首相コンビが鎮圧。ジョージ1世も2世も、祖国ハノーヴァー防衛にしか関心がなく、ハノーヴァー防衛はプロイセンに任せて、西インド諸島・北米・インドでフランスと戦争をつづけた。生涯独身フリードリヒ大王を3枚のペチコート包囲網が苦しめ、プロイセン消滅ピンチの七年戦争のさなか、1760年、ジョージ3世が即位してプロイセンへの軍資金を中止した。プロイセンかぶれのロシア皇帝ピョートル3世がプロイセンの味方に付きプロイセンは存続できた。のちピョートル3世は、ポーランド系ドイツ人の嫁・エカテリーナ2世のクーデタで暗殺された。プロイセン支持の大ピット、ニューカースルが相次いで辞任し、ビュート、次いでグレンヴィルを重用したが議会の大反発を受け失脚辞任。ホイッグ党失墜に反比例して、植民地で儲けた大富豪がロビー活動をはじめた。1770年、トーリ党からノース首相。アメリカ側が悪いとしか言いようがないボストン茶会事件が勃発。アメリカは、フランス・オランダ・スペインの救援を受け、独立。産業革命で生じた富裕層にも選挙権が与えられていった。

インド法案 東インド会社をイギリス政府が運営する

ホイッグ嫌いのジョージ3世は、インド法案に賛成する議員を更迭。1783年、24歳の小ピットをトーリ党から首相に据えた。

1786年、英仏通商条約

1787年、英普蘭三国同盟

1793年、第一次対仏大同盟

1798年、第二次対仏大同盟

1799年、所得税導入

1801年、フランスに奪われる前にアイルランド合邦。カトリック教承認問題で小ピピン辞任。

トーリー党アディントン首相就任。

1804年、小ピット首位再任。第三次対仏大同盟

1805年、トラファルガー海戦に勝つ

1806年、アウステルリッツ三帝会戦に敗北。ホイッグ党グレンヴィルがホイッグ党フォックスと挙国人材内閣。

1807年、グレンヴィル、イギリス本国における奴隷貿易を廃止。トーリー党ポートランド首相就任。

1809年、トーリー党パーシヴァル首相就任。1812年暗殺された。

1812年、トーリー党リヴァプール首相就任。

1815年、ワーテルローの戦い。ウェリントンがイギリス・オランダ連合軍を率いて勝利。

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