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2020年11月 4日 (水)

歴史秘話ヒストリア「明智光秀」をみて

何気に番組を見て驚きの連続、光秀のイメージが変わりました。妹の御ツマキ殿が信長の妾になっており、信長とのパイプライン役を務めていたとは初耳。伊呂波太夫でもお駒でもなかった。

1582年 長宗我部元親の四国攻めを決定、讃岐を織田信孝に与えると決した。そこで本能寺の変。光秀家臣だった武士の手記がみつかっており、下々は信長ではなく、京の茶会に手薄で遊びに来ていた松平家康を討つものだと思っていた。

1581年 信長が長宗我部元親を裏切り、三好康長に接近して、阿波返還を迫る。信長の家督を信忠に譲る。そんな折、御ツマキ殿が病死。信長とのパイプラインを失う。信長の変心、身内を大事にし始めた。

1578年 八上城を全周包囲して飢餓攻めにて陥落。

1575年 丹波攻め。丹波・黒井城にいきなり攻めたら、笹山・八上城の波多野秀治に裏切られ背後から一斉射撃を受ける。2か月間、労病に伏せ、京医師・曲直瀬道三に鍼治療を受け全快。所領の坂本城と亀山城を往来。

1571年 光秀(44)が足利義昭を見限って信長(38)の家臣になる。比叡山延暦寺焼き討ち。志賀郡を信長に賜る。比叡山焼き討ちを仏罰を恐れずできたわけ、愛宕神社の勝軍地蔵のご加護があると信じていたから。

1568年 足利義昭側近のケガを治したことが縁で義昭の家臣(足軽!!)になる。三好に襲撃されたとき、義昭を救命した手柄で義昭側近に昇進。近江に義昭の領地を賜り、宇佐山城城主に初めてなる。

1566年 近江高島の田中城下に生きる。武士のケガの止血に長けていた光秀は、産婦人科医まで手掛け、自分の漢方処方を編み出していたとか。*高島は明治維新陽明学の元祖・中江藤樹の里!!

1557年 越前・朝倉義景を頼って称念寺に住まい、光秀は医者として朝倉藩の治療にあたり、寺子屋の先生もやっていた。当然、望月東庵といった医者とのネットワークも伊呂波太夫やお駒なしで直接あったわけだ。

ここから私の感想。斎藤道三の敗死によって明智光秀は一度は完全に歴史舞台から消えてしまっていたんだな。一芸の止血で再びチャンスをつかみ取って天下取り一歩手前まで行ったんだ。呉座勇一氏も、光秀は信長に匹敵する人物と評している。秀吉も身内かわいさのあまり、自分と同等以上の黒田如水を警戒して石田三成を使って遠ざけたように、信長も身内かわいさのあまり、光秀を遠ざけようとしていたとしても不思議ではない。

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