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2020年10月11日 (日)

ヴェネツィア共和国

アクイレイアに住んでいたウェネティ人が、ランゴバルド王国に攻められヴェネツィア潟湖に避難することになり、ビザンツ帝国の傘下にはいることで滅亡を免れていた。

540年代、北アフリカ領有をきっかけにコンスタンティノープルのペストが流行しビザンツ帝国の勢いが減速する。

565年、ユスティアヌス帝が死去すると、ランゴバルド王国がイタリア半島を占拠する。コルシカ島、サルディニア島、シチリア島、ヴェネツィア、ローマはビザンツ帝国の領土内になんとかとどまることができた。

680年、ビザンツ帝国とランゴバルド王国が和平条約。

697年、ラヴェンナ総督(ビザンツ配下)パウリキウスが初代ヴェネツィア公に選出される。商人としては貴族も市民も平等で内紛が全くなかったのだが、緊急時の際、最終決定権の所在が不明瞭なのが最大の欠点であった。

726年、ビザンツ皇帝レオン3世の偶像禁止令に反発し、オルソが第3代元首に就任。ビザンツ帝国にイパート(執政官)を賜る。ヴェネツィア人は他のイタリア人と違って、ビザンツ(東ローマ)帝国の支配下で勢力を拡大したので、正統ローマ人としての自負心が強い。

751年、ビザンツ帝国の唯一の植民地だったラヴェンナ総督領がランゴバルド王国に征服される。危機に陥ったローマ教皇がフランク王国に救援を求める。ローマ教皇は偶像禁止令に反対していたのでビザンツ帝国に救援を求めることができなかった。

756年、フランク王国ピピンが教皇領をローマ教皇に寄進。

774年、フランク王国カール(シャルルマーニュ)がランゴバルド王国を滅ぼし、旧ラヴェンナ総督領をローマ教皇に寄進。イタリア半島は、フランク王国に従属するイタリア王国、旧ランゴバルド王国復興をうかがう公国、自立化が進む旧ビザンツ(東ローマ)帝国領の三つ巴の紛争地となった。

810年、イタリア王国ピピンがヴェネツィア侵攻。ピピン「汝らは我が臣民である。我が領土と支配権に属しているのだから。」ヴェネツィア人「我々はローマ人の皇帝の臣民である。」*ゲルマンは野蛮、ローマこそ真の文明国

814年、ビザンツ帝国とフランク王国の和平条約で、ヴェネツィアはビザンツ帝国の属州であることが確認された。

840年、ロタール条約で、ビザンツ帝国とフランク王国の不可侵が締結。ヴェネツィア共和国が承認された。千年王国の誕生である!

ビザンツを悩ませたハエのような存在、スラヴ海賊、イスラム海賊、ノルマン海賊と海上戦で勝利をおさめ、領土をじわじわと拡大していった。ビザンツから「ギリシャの火」の決定的一打の協力も得たため連戦連勝。まだモンゴル人来襲がなかった平和な時代。モンゴル人によってコテンパンにやられたイラン人、アラブ人、トルコ人、ロシア人、スラヴ人、ポーランド人、ハンガリー人、中国人に比べれば、ここ地中海沿岸はモンゴル略奪を受けず、温存されることになったのだが。いまチンギスカンブームが再来しているようだが、微妙な感じだ。

1082年、金印勅書。ビザンツ帝国全土での自由通商権、帝都コンスタンティノープルに船着き場三か所を含む専用の居留区を与えられた。

1187年、アイユーブ朝サラディンがエルサレム王国を滅ぼす。

1202年、アイユーブ朝エジプト攻撃目的の第4回十字軍を用いて、第41代元首エンリコ・ダンドロがハンガリー王国領のザーラを攻略。ローマ教皇インノセント3世が大激怒しヴェネツィアを破門にする。

1204年、ビザンツ皇帝後継者争いでコンスタンティノープルに招き入れられた十字軍が皇帝を殺害し、ビザンツ帝国を滅ぼしラテン帝国を建国。アイユーブ朝とは交易相手だった(奴隷輸出)ので十字軍の攻撃を阻止した。3/8の領土とアドリア海沿岸植民地とクレタ島をヴェネツィア共和国が奪い取った。ライバルのピサ・ジェノヴァの商業特権を剥奪し市場から駆逐した。旧ビザンツ皇帝はアナトリアのニケーア帝国で捲土重来を臥薪嘗胆。

1261年、ニケーア皇帝ミカエル8世がジェノヴァ海軍の援助でビザンツ奪回。ヴェネツィア人居留区が破壊され、ジェノヴァ共和国が黒海・エーゲ海沿岸の交易港を独占した。

1261、1294、1351、1377年 ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争。1381年のトリノ講和条約で停戦。

1347-48年 ペスト大流行。アレキサンドリアの熟練工が大量死去し、マムルーク朝の砂糖・織物業が没落した。

1339年 トレヴィーゾを占拠。モンテッロの森から伐採される木材がガレー船の材料となった。

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オスマン帝国従属を嫌った各地域がヴェネツィア共和国保護下に入り、さして労力も要さないまま、海上領土を拡大した。

1453年、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼしローマ皇帝を自負した。オスマン帝国は徐々にヴェネツィア海上領土を奪っていった。

1494年、ルカ・パチョーリ「スムマ」で複式簿記が出版され普及する。のちバイエルンのフッガー家が複式簿記を学び繁栄する。

1494-1559年 イタリア戦争。ナポリ王国、ミラノ公国、シチリア島、サルディニア島がスペイン領になる。メディチ家は神聖ローマ帝国の援助で母国フィレンツェ共和国を滅ぼし、君主制のトスカーナ大公国を建国。コジモ・デ・メディチは秘密警察を設置し恐怖政治をおこなう。フランス国王とハプスブルク家の戦いだったが双方とも戦費拡大のため国土拡大を断念せざるを得なかった。フランスは王権神授説による極端な中央集権化、ドイツはハプスブルク家近親婚、スペインは他の諸国から受けた(アステカ・インカ)コンキスタドール・バッシングによって衰退する運命にあった。

1517年、マムルーク朝がオスマン帝国によって滅ぼされる。インドの香辛料、中国の陶磁器・絹が中継交易できなくなった。

1538年、プレヴェザ海戦。

1570年、キプロス島を死守したブラガディンがオスマン海軍に負け、生きながら皮を剥がれ斬首。

1571年、レパント海戦。オスマン海軍がスペイン・教皇・ヴェネツィア連合軍に負けたが、すぐに回復。

1573年、キプロス島をオスマン帝国に譲渡。

1669年、クレタ島をオスマン帝国に譲渡。

1463、1499、1537、1570、1645、1684、1714年 ヴェネツィア・オスマン戦争。1503年に海上領土のほとんどをオスマン帝国に譲渡した。

1602年、外国籍船を排除する航海法を発布。メディチ家が恐怖政治で統治したトスカーナ大公国が自由港リヴォルノを開設。イギリス・オランダの貿易船はヴェネツィアを捨て、リヴォルノに寄港するようになった。

毛織物輸出はイギリス・オランダに敗れたが、絹織物・ガラス細工輸出で黒字をなんとか保っていた。

*当初、オランダがイギリスを小突き回していたが、江戸時代半ばからイギリスがオランダを小突きまわすようになった。力関係が逆転したのである。しかもオランダは江戸末期ナポレオンによって滅ぼされたし。江戸幕府は詳細なヨーロッパ事情を察知していたのである。

*イタリア四大海洋共和国

アマルフィ 羊皮紙をやめ、アマルフィ紙の海洋図を使用。13世紀末にフラヴィオ・ジョイアが羅針盤航海術をはじめた。1073年、ノルマン人ロベール・ギスカールによって滅ぼされる。

ピサ 1137年にアマルフィからティレニア海制海権を奪う。1406年、フィレンツェ共和国に滅ぼされる。

ジェノヴァ コグ船が発達。1284年メロリア海戦でピサからティレニア海制海権を奪う。1325年にピサからサルディニア島を奪う。

ヴェネツィア ガレー船が発達。漕ぎ手は、罪人や奴隷ではなく、市民を有給で雇用しており、戦時には兵士として即時に動員できた。ガレー商船団は海賊船と一線を画し海賊から防衛するため、国の制度(ムーダ)によって完全管理されていた。

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