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2020年8月24日 (月)

「ビザンツ帝国;千年の興亡と皇帝たち」を読んで



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私はビザンツ帝国に魅せられて久しい。野蛮なゲルマン人にないローマ人独特のルネサンス(復興主義)と理性主義に惹かれてやまない。三位一体説だの聖ヨハネ黙示録だの運命予定説だの、狂信的なキリスト教の教義にも1歩引いて、現実を冷静にみつめてイスラムとの外交と商売に生きた姿は逞しい限りだ。青い血をもつ王権神授説だの、赤い共産革命などとまったく無縁の世界であった。貧富差を縮めるには、商品が腐敗するように貨幣の価値を少しずつ腐敗させていくだけでいい。タンス預金はゼロになってしまう。貨幣の循環がよくなれば皆が幸福になる。これ即ち貧富格差の軽減と呼ぶ。革命は不要だという仲間の声を抹殺してロベスピエールとレーニンは大量殺戮に突っ走っていった。私より一つ年上の著者も高三のとき理系から文転し、しかもよりによって地球の裏側にある大阪でビザンツを研究するという変わり者だとご自分で言っておられる。

ヘラクレイオス朝は、ササン朝ペルシア(イラン人)に小アジアを脅かされ、ブルガリア人にバルカン半島を脅かされ、アラブ人のウマイヤ朝と戦闘に明け暮れた。手柄はすべて神の代理人である皇帝に帰したために、宦官など本当の貢献者の資料が乏しいそうだ。屈強な奴隷民族(マムルーク)トルコ人が小アジアに現れるまでの比較的平和なひとときとも言えるのではないか。

イサウリア朝はイコノクラスム(聖像破壊)の時代。聖像は文盲の人には便利なツールなのだが、聖書原理主義者が聖像を破壊したり教会が聖像を復活したりの時代。聖像を崇敬するのはいいだろう、崇拝していないのだから・・・とはなんじゃらほい。イエスは死の間際、父なる神に許しを乞うているので、三位一体説はおかしい。当ブログで掲載したカール大帝のコーナーで登場したレオン3世から始まる。743年ペスト流行。テマ軍団反乱の時代でもあった。コンスタンティヌス帝・ディオクレティアヌス帝による行政改革で、国境辺境地での軍事と行政が別系統になっていたが、外敵に敗北し圧迫され内地に撤退、テマ将軍が行政権を簒奪したのが実態。イコノクラスム時代は皇帝によるテマ将軍の中央コントロールが不能になったようだ。やがて近衛連隊(タグマ)を新設しテマ将軍への支配力を伸ばしていった。その間、外憂はつづき、東にアッバース朝、西にブルガリア王国。

ニケファロス朝はローマ皇帝の名声地位をゲルマン人のカール大帝に半分奪われた形になった。ニケフォロス1世はブルガリア親征で戦死。ブルガリア王国と敵対から友好へ方針転換。

アモリア朝はミカエル2世がスラブ人トマスを最後にテマ軍団反乱を終結。ミカエル3世がイコノクラスム撤廃し、863年、叔父のペトロナスによってアッバース朝を撃破し小アジアは以後200年平和であった。同年、メトディオス・キュリロス兄弟がキリル文字を発明、スラブ語で布教し、ラテン語で布教していたフランク王国と対立した。

マケドニア朝は貴族の時代、元来ギリシャ人には名字がなかったが、貴族が名字を名乗り始めた。ローマ史を総括した書物が編纂されマケドニア・ルネサンスと呼ばれる時代だが、ローマ人の特質が現れたに過ぎない気がする。かと言ってムッソリーニ独裁のようにローマ人優生主義がファシストに利用されては困るが。イスラムは常に強く、シチリア島と南イタリアをアッバース朝に奪われた。941年、ルーシ(キエフ公国)のイーゴリ1世侵略にはギリシア火で帰り討ち艦隊を撃滅した。961年、ニケファロス・フォカスがアッバース朝からクレタ島奪回し皇帝に擁立された。ルーシの援軍のおかげで反乱を鎮圧できたバシレイオス2世は、貴族の土地所有を制限し、貴族に貧困農民の租税の肩代わりをさせ(アレレンギオン)、992年、ヴェネツィア商人に商業特権を発給、ファーティマ朝と和平締結し、1018年、ブルガリア王国殲滅。南イタリア・シチリア島奪回を狙いすましていた矢先に死去。

デンマーク王クヌートが、1016年にイングランド征服、1030年にノルウェー征服。ノルウェー王子ハーラルはクヌートに敗れてルーシに亡命し、ビザンツに保護されヴァリャーギ親衛隊長に着任。1046年にノルウェー王ハーラル3世に即位。1066年にスタンフォード・ブリッジの戦いでイングランド王ハロルド2世に敗死。同年、ヘイスティングスの戦いでハロルド2世が、ノルマンディー公ウィリアム1世に敗死。イングランド兵士たちはビザンツに亡命しヴァリャーギ親衛隊に加わった。

1033年、イエスキリスト昇天1000年記念をきっかけに聖地巡礼者が激増。ローマ教皇が分裂しており教皇の思惑ではじまった十字軍に関しては、以前ブログに掲載した十字軍の記事を参照あれ。

コンスタンティノス9世によって帝国が急速に衰退した。財政難打開を図るため、ノミスマ金貨の悪鋳に加え、国境警備軍を解散。1046年、ペチェネグ人の帝国内移住を認め傭兵にする。1054年、ローマ教会とビザンツ教会の断絶(シスマ)。

ドゥーカス朝は、外敵侵略の嵐にさらされる。小アジアはセルジューク朝トルコ、バルカンはペチェネグ人やウゼ人、南イタリアはノルマン人。1071年、ノルマン人ロベール・ギスカールによって南イタリアを奪われた。

コムネノス朝は十字軍に明け暮れる。ロベール・ギスカール&ローマ教皇グレゴリウス7世が、アレクシオス1世&神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世&ヴェネチア共和国と全面戦争をしていた。1085年、ペストに罹患してロベール・ギスカール死去し、ノルマン人撤退。1086年、ペチェネグ人来襲。1087年、クマン人&スキタイ人来襲。1091年、フランドル伯ロベール1世の救援を得てペチェネグ人撃退。1092年、セルジューク・トルコ来襲。1094年、セルビア人来襲。これらとの戦闘にアレクシオス1世は明け暮れ、1095年、兵力不足を補うために教皇ウルバン2世に十字軍を依頼。

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