9:09大和西大寺発、天理行き急行で天理に20分で到着。天理駅改札でマップを取り、駅のコンビニで、昼食用にペットボトルとおにぎりを買い、いざ出発。
石上(いそのかみ)神宮。百済・聖明王から応神天皇に授かった七支刀があります。
物部氏の総本山。祭神は、布都御魂大神、布留御魂大神、布都斯魂大神。

平安時代に創建され、伽藍が立ち並んでいた内山永久寺。芭蕉や沢庵和尚も訪れていて歌を残しました。

夜都伎(やとぎ)神社。春日大社からお下がりをもらってきた神社だそうです。


西山塚古墳。

灯籠山古墳。

大和神社の御旅所。日本最古の神社だそうです。

長岳寺。淳和天皇の詔勅で空海が824年に創建。1151年(仁平元年)に彫られた阿弥陀三尊がすばらしかった。玉眼を使用した仏像としては日本最古。玉眼は鎌倉時代に大流行したが、その最先端を走っていたのがこれ。平重盛が焼く前の、奈良時代の東大寺大仏と同じ配置をしたミニチュア版なのです。
真ん中に阿弥陀如来坐像。(東大寺では阿弥陀仏が毘盧遮那仏にすり替えられました。でも左右には観音菩薩半跏思惟像と勢至菩薩半跏思惟像が脇侍として並んでいました。つまり阿弥陀三尊をなしていたのです。)
向かって右に、観世音菩薩・半跏思惟像
向かって左に、勢至菩薩・半跏思惟像
空海が作ったそのまんまの、日本最古の鐘楼門。
西大寺中興の祖、叡尊(興正菩薩)が立てた十三重石塔。
崇神天皇陵。

この近くで、この景色を眺めながらおにぎりを食べました。

景行天皇陵。いい場所に住んでいるね。息子の日本武尊(ヤマトタケル)もこの景色を見ていました。ヤマトタケルが歌った有名な歌。
大和は国のまほろば たたなづく青垣
山ごもれる 大和しうるわし



大和三山を眺めました。すばらしい絶景スポット。

桧原(ひばら)神社。災厄を恐れた崇神天皇が、天照大神(八咫鏡)を草薙剣から分離してここに安置しました。皇女・豊鍬入姫命が日本最初の斎宮として、いったんここで八咫鏡をお守りし、いまの伊勢神宮に八咫鏡を再び移しました。ちなみに草薙剣は、ヤマトタケルが名古屋の熱田神宮に安置しました。
ツクツクボウシが鳴いて、吹く風も涼しく、30分くらいベンチに座って過ごしました。
古代イスラエル王国からシルクロードを渡って日本にやってきた秦氏=越後屋=三井銀行の象徴、三鳥居。

壬申の乱の最大の功労者だった高市皇子(たけちのみこ)が飲んだという山清水がいまも沸いています。
山吹きの 立ちしげみたる 山清水
汲みに行かめど 道の知らなく
684年、白鳳大地震を契機に、筑紫・豊から大和入りした高市皇子は、686年、天武天皇の死後、690年、持統天皇として即位し、倭京(大宰府)を模した藤原京を建都。しかし689年に最愛の草壁皇子を亡くし吉野への行幸三昧だった義母の鸕野讚良(うののさらら)によって、696年の(壬申の乱で負けた)天智天皇復権クーデタを経て、701年の戒厳令にも等しかった大宝律令のころまでには歴史ごと抹消されました。鸕野讚良は悲嘆に暮れたふりをして、吉野で仲間を募り念入りなクーデタの計画を練りに練っていたのかもしれません。草壁皇子の遺児だった文武天皇を697年に傀儡として即位させると、自ら太上天皇として政治をおこないました。ここからの鸕野讚良には誰も逆らえませんでした。海の向こうの大唐帝国の則天武后とまったく同じでした。遣唐使だった粟田真人が鸕野讚良を則天武后に紹介し、心からの親交を深めることができました。 699年、天武・持統(高市)天皇の命令で、玄界灘に入水自殺した天智天皇の御陵を築くことが許されなかった天智天皇陵をやっとの思いで、帰化人たちがたくさん住む山科に築くことができました。鸕野讚良自身は、行基の勧めで火葬してもらい、愛する夫の天武天皇と合葬してもらうあたり、 可愛い一面もあります。
天智直系の志貴皇子や白壁皇子(のちの光仁天皇)がやったように、わざとアホのふりをしていたのか、それとも父を殺された腹いせだったのか、天武直系の高市天皇の親王であった長屋王は、藤原不比等をはるかに凌ぐ大邸宅に住み、新羅など外国からの使者たちと大宴会を毎晩のように開いて、大いに気勢を張っていました。飼い犬の餌として白米を与えていたくらいですから。人間様でもなかなか食べられなかった白米をです。結局、聖武天皇をだまし動かした藤原四兄弟によって殺されましたが。

玄賓庵(げんぴんあん)。法相宗の玄賓僧都が創建。最澄や空海と同時代を生きました。不動明王像があるそうですが非公開です。

狭井(さい)神社。

大神(おおみわ)神社。終点です。

万葉まほろば線(JR桜井線)で、三輪駅からJR奈良駅に移動。三条通を歩いて小西通を通って近鉄奈良駅に行き、大和西大寺まで無事に帰還しました。
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