筑豊に三種の神器が出土
福永晋三先生によれば、邪馬台国(やまとこく)、倭国があった筑豊で、三種の神器が発見されていたようです。神功天皇(神功皇后)の長き御代ののち、応神天皇がここ筑豊で即位されていたようです。
のちにこの古都を大分(豊国)の宇佐八幡宮に移しました。宇佐は倭王が越の継体天皇(大王)に敗れた地。殺された倭王は宇佐小椋山に阿弥陀如来の大仏として崇拝され、のちに奈良大仏の土台になりました。倭王の復讐戦によって継体、安閑、宣化天皇はことごとく殺されました。継体の侵略戦争で亡くなった方々を弔うために、三十三間堂が観世音寺に建てられ、千体千手観音立像が安置されました。継体天皇は淀川沿いに都を転々としており、大和入りしなかったのは大和豪族の反発に会ったからと言われてきましたが、どうも当時の奈良には国家が存在しなかったというのが真相のようです。つまり何もない土地に攻め込む理由がなかったということ。
倭王が暮らしていた大宰府の倭京は、全国に倭京を起点とする古代ハイウェイをめぐらし、周囲の山々に巨大な城壁を張り巡らしていました。水城もその一部です。白村江の敗戦で大唐帝国が巨石を撤去したのでいまの土壁水城のようになってしまっているだけです。防衛をここまで固めたわけは、継体天皇の侵略から守るためでした。
小倉百人一首の小倉山とは、国父倭薈(いわい)の象徴です。つまり百人一首は倭国時代に生きた人たちの歌です。
夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るとも
世に逢坂(あふさか)の 関は許さじ
清少納言の歌ですが、倭京にいたる関所「大坂の関」は筑豊に現存しており、外敵、つまり継体天皇の軍隊の侵入を一切許さなくなっていたことがうかがえます。清少納言も紫式部も倭国時代に生きた人物であって、平安時代のお二人はダミー作家であったようです。
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
現れわたる 瀬々の網代木
早朝、霧がかかって博多鴻臚館から倭京にいたる宇治川沿いの道を歩くのが危ない。でも倭王が作ってくださった網代木のおかげで、川に落ちずに歩いていくことができる。倭王に感謝この上ないことよ。
荒ぶる京都の宇治川に網代木を立ててもすぐに流されるだけです。大宰府の宇治川の水をひいて作った水上楼閣、宇治平等院も大宰府にあったことが考古学上、確かめられています。
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の
衣干すてふ 天の香具山
春が過ぎて夏が来たようだ。あたりは緑一色に染まっているのに、まるで神様の真っ白な衣が干してあるかのように、石灰岩でできた天の香具山だけが白く輝いている。さすが音に聞こえし神様の山なんだなぁ。
筑豊にはほかにも、ほんとうの大和三山(天の香久山、耳成山、畝傍山)が今なお石灰の白い山肌で神の衣の如く真っ白に輝いており、阿蘇山の有毒ガス酸性雨や火山灰から飲料水を確保するために、斉明天皇が作った狂心渠(たぶれごころのみぞ)が現存しており、天智天皇が作った漏刻(ろうこく、水時計)の跡も残っています。
平成最後の日に、倭国の全貌が明らかにされ、「日本人ってなんとすばらしいのか。」と心から実感させられました。
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