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2018年8月 5日 (日)

鞆の浦を訪ねて、おお!鞆幕府!

まず福山市鞆の浦歴史民俗資料館へ行きました。

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鞆城からの眺めは最高。

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建武3年(1336)、佐々木判官の活躍で、足利尊氏は九州下向の途中、鞆の浦で、北朝・光厳(こうごん)上皇の院宣を受け取り、朝敵の汚名を返上しました。

足利義昭は毛利輝元の庇護を受け、鞆城で「鞆幕府」を開きました。義昭は全国の大名に、織田を早く滅ぼして、オレを京都に戻してくれという手紙をたくさん書きましたが、現存しているのは5通のみで、そのうち1通原本がここに展示されています。

当時の鞆城の城主は、小早川隆景家臣、村上左衛門太夫祐康(むらかみさえもんだゆうすけやす)。小早川水軍と一向宗門徒は、鞆の浦港から物資を石山本願寺に運んでいました。

守護・守護代でもなく、奉公衆でもない、ぽっと出の毛利氏が大大名として仲間入りできたのは、足利義昭が鞆城にて、毛利輝元を副将軍に任じたからである。

足利義昭の御内書 天正4年(1576)5/13~9/29

就入洛儀染筆候 此節相談

芸州 早速帰路候様 馳走

頼入候 為其指越曽我常陸介

猶昭光可申候 状此件

(義昭のかわいい花押) ← 義昭は暇人やのう

北畠中将殿

(現代語訳)

入洛のことについて 毛利氏と相談し、

速やかな帰洛の実現に向けて、馳走を頼むぞ。

そのため曽我常陸介を派遣した。

なお真木嶋昭光が申すであろう。

御内書は以上のとおりである。

*御内書とは、目上の者から目下の者に出す手紙のこと。

*御内書は、「状此件」で締めくくるのが常。

*父・北畠具教が織田に殺害され、北畠具房は助命された。義昭の手紙は、この直後に出されたものと推察された。

次に、いろは丸展示館に行きました。

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慶応3年(1867)5/26(旧暦4/23)、海援隊のいろは丸(イギリス艦船)が、六島付近で紀州藩明光丸に衝突され、明光丸がいったんバックするも海援隊士を救わんと前進したとたん二度目の衝突。明光丸はいろは丸を曳航したが、力尽きて宇治島付近で沈没してしまった事件。海援隊士は、鞆の浦に上陸。坂本龍馬が万国公法を盾に談判し、多額の賠償金を紀州藩からせしめた。

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最後に、福禅寺に行き、対潮楼で、弁天島を眺めました。

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福禅寺は、朝鮮通信使の定宿。正徳元年(1711)、李邦彦が「日東第一形勝」の額を書き残しました。対馬から江戸までの行路のなかで、ここ鞆の浦・福禅寺から見た景色が一番美しいと。延亨5年(1748)、洪啓禧がこの座敷を「対潮楼」と命名しました。

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慶長の役で虜囚となった李氏朝鮮・姜沆(きょうこう)が京都に送られたとき、相国寺の藤原惺窩(せいか)と出会う。朝鮮かぶれした藤原惺窩が日本儒学の祖となったのだ。

燈籠塔(とうろどう)

北前船を迎えた常夜燈です。

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ホテル鴎風亭に宿泊。ラジウム温泉の露天風呂につかり、くつろぎました。

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保命酒(ほうめいしゅ)

もち米、こうじ、焼酎の三味に、地黄・肉桂・甘草など13種の薬草を漬け込んだ焼酎。ロックで飲んだが、めっちゃくちゃうまい!

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