663年、白村江の戦い。日本側から見た場合、その実態は、扶桑国(大和朝廷)と唐が同盟密約。新羅と唐も同盟密約。扶桑国(大和朝廷)の実権を握っていた中大兄皇子と中臣鎌足が、百済と一心同体だった倭国を滅ぼしました。倭国は、618年、正統南朝を制覇した夷の唐が建国された年に、上宮法皇(多利思北狐)が朝貢を辞め、新たな独立国として日本国を建国しました。
日本の「日」とは、阿弥陀如来の日輪を意味します。阿弥陀如来の化身と敬われた倭王・磐井(倭薈)のもとに生きる国というのが「日本」の意味で、中国からもらったり許可を請うたりしたものではなく、日本人自らが発案し決定し公開し、中国からの独立を高らかに宣言しました。阿弥陀信仰そのものは、百済博士と協力のもと、優秀な倭国博士が難解な仏典を読み解き導き出したものであって、逆に中国僧に教えを説き名声を高めました。むしろ中国側に嫉妬さえ抱かせました。宇佐の小倉池廃寺はもともと小倉東大寺大仏、すなわち阿弥陀大仏が建てられており、白村江の戦い後の唐進駐軍によって破壊され、679年筑紫大地震で崩壊し、野ざらしになっていた腰から下の土台部分を聖武天皇の勅命で奈良に移し、阿弥陀仏を毘盧遮那仏に変えて大仏開眼しました。しかし脇侍は勢至菩薩と観音菩薩であり、阿弥陀三尊をなしていました。
大唐帝国皇帝初代は李淵(高祖)、2代は李世民(太宗)、3代は李治(高宗)。いずれもモンゴル系鮮卑族である。
顔が青白く体がひ弱な高宗に嫁いだのが、70歳を超えても若い男と性交した精力満々の4代皇帝、則天武后。もともと太宗の後宮だったが、道徳寺尼僧として形式的に出家。その後、高宗と結婚。高宗の正后だった、西魏・北斉の王氏、さらに梁(南朝)の簫氏を廃位殺害した。
父親 武氏←出自不詳。
母親 楊氏(栄国夫人)←隋皇帝楊氏の末裔とやんごとなき出自。670年死去。
姉 韓国夫人←高宗がお手つきしようとして654年殺害。
姉の男児 賀蘭敏之←則天武后がもっとも後継者と目していた男児。栄国夫人とも性交しており、671年夫人死去後に殺害。
姉の女児 魏国夫人←高宗がお手つきしようとして666年殺害。
ここから則天武后の実子の話です。ちなみに夫の高宗は683年死去。
(賀蘭俊之)←後継最右翼だったが671年殺害。
長男 李弘←則天武后の恋敵だった簫(しょう)氏の遺女児二人に同情したため675年殺害。
次男 李賢←趙道生と男色行為を行い680年殺害。
三男 李哲←683年5代皇帝中宗に即位。684年葦后粛清に反対し廃位幽閉。
四男 李旦←684年6代皇帝叡宗に即位。ひたすら隠遁しへりくだる。その子が7代皇帝玄宗である。
まず、太宗の貞観の治。北斉の魏徴と太宗の会話集が「貞観政要」。二大ブレインは、北斉の房玄齢と、北周の杜如晦。西魏の府兵制と北魏の均田制は隋の煬帝の時に完成しており、太宗はこれをそのまま取り入れた。太宗晩年のブレインが長孫無忌(←ちょうそんむき、皇后の氏族)と褚遂良(←ちょすいりょう、王義之伝統の初唐三大書家のひとり)。
高宗のブレインが、文官の長孫無忌と、武官の盗賊出身・李勣(りせき)。その下に、門下省の韓瑗(かんえん)、中書省の来済(らいさい)、尚書省の于志寧(うしねい、鮮卑のやんごとなき出自)と褚遂良(ちょすいりょう)。
653年、女性の陳碩真(ちんせきしん)が反乱。女性で初めて皇帝を僭称した。
655年、則天武后は、長孫無忌と組んで房玄齢の子・房遺愛を殺害、于志寧を失脚させた。
657年、褚遂良と韓瑗と来済を失脚させた。
659年、長孫無忌を失脚させた。
660年、二聖(高宗と則天武后)による垂簾(すいれん)の政。蘇定方(そていほう)率いる水軍が百済を滅ぼした。蘇定方の臣下だった劉仁軌(りゅうじんき)が自ら志願して百済に居残り百済残党を駆除した。百済の臣下だった黒歯常之(こくしじょうし)が劉仁軌に仕えた。
663年、劉仁軌が白村江の戦いで倭国を破った。
667~668年、李勣(りせき)が高句麗を滅ぼした。
669年、李勣が死去。
675年、門下省の張文瓘(ちょうぶんかん)、中書省の赫処俊(かくしょしゅん)、尚書省の劉仁軌(りゅうじんき)と戴至徳(たいしとく)。
684年、揚州で李敬業の反乱。
685年、ラスプーチンのような怪僧、馮小宝(ふうしょうほう)が則天武后の寵愛を受け、政治を牛耳った。名家の薛氏に養子入りし、薛懐義(せつかいぎ)と改名。洛陽の白馬寺の住職にさせ、通い婚の体裁を繕った。
686年、銅匭(どうき)の制と呼ばれる密告システムを導入。凄まじい拷問と残忍な処刑が繰り返されていった。
688年、山東の李沖(りちゅう)、河南の李貞(りてい)、山西の李元嘉(りげんか)、四川の李譔(りせん)が反乱するも、すべて鎮圧された。
689年、坐高30mの夾貯(きょうちょ)大仏が完成。←廬舎那仏!
北涼の曇無讖(どんむしん)が訳した「大方等大雲経」がもっとも重要な経典として位置づけられた。なぜなら、女性が仏の教えを受ける場面が多かったから。女性である則天武后が天下を治める口実が必要であった。
690年、全国各地に大雲経寺が設立された。聖武天皇は則天武后の発想をパクっただけのこと。
このころの則天武后のブレインは北門学士と呼ばれた集団であった。玄宗の時、翰林院学士と改名された。
690年、宗秦客(そうしんきゃく)が則天文字を考案。女性らしさを強調した漢字であった。
690年、国号を周に変更した。
695年、大仏を焼いた咎で薛懐義を殺害。
696年、モンゴル系の契丹が唐に侵略。
697年、酷吏を処刑し、恐怖政治を終わらせた。つまり政敵がいなくなったということ。
697年、宰相の狄仁傑(てきじんけつ)が契丹を撃退。
697年、兄の張易之(ちょうえきし)、弟の張昌宗(ちょうしょうそう)が二人同時に新しい男妾になった。
698年、トルコ系の東突厥が唐に侵略。各植民地に設置した都督府への人的物的補給がままならなくなってきた。大宰府もそのうちの一つ。李哲が皇太子に復位。
700年、狄仁傑が死去。代わって魏元忠(ぎげんちゅう)が宰相に就任。
703年、魏元忠が失脚し、韋安石(いあんせき)と唐休璟(とうきゅうえい)が宰相に就任。
705年、狄仁傑が育てた宰相、張柬之(ちょうかんし)がクーデタにより、張易之と張昌宗を同時に殺害。則天武后は強制的に退位させられた。李哲が中宗として即位。国号を唐に戻した。
705年、その後、則天武后が死去。
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