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2016年9月27日 (火)

「殿様祭り」に学ぶ地方再生のノウハウ

熊本藩第8代藩主、細川重賢(しげかた)が1755年(宝暦5年)に藩校・時習館を設立。儒教哲学講義のみならず、新たに実用の学(蘭学・経済学・医学など)を藩士に教えたことによって、熊本藩のGDPが目まぐるしく増加しました。

熊本藩の農民は細川の殿様を心から尊び、誕生日を祝って「殿様祭り」をはじめ、これが明治以降の天長節(天皇誕生日)につながったとか。

萩藩の山縣周南が熊本藩を参考にして、藩校・明倫館を改革。萩藩の農民はもともと武士。禄高が低いから、形だけ無給の農民に身をやつしていただけ。これがとんでもないエリート知識人の渦となって明治維新の推進力となりました。

学問を放棄し、社会勉強という遊びにうつつを抜かしている公立中学・高校を、エリートが集う本来の学校に取り戻し、さらに卒業生無料の高校補習科を設け、全国の優秀な教師を集めれば、必ずその自治体は潤うであろう。荒井知事の誕生日を祝う「知事祭り」が、聖地奈良にて起こらんことを祈っています。

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2016年9月25日 (日)

真田昌幸 兵法奥義

1.まず手勢を率いて尾張を攻め落とす

2.尾張をいっときでも占領したという事実こそ肝心で、徳川に反感を持つ大名の心に火を焚きつける

3.家康が攻めてきたら、尾張を捨て、いったん近江まで引き下がる

4.瀬田と宇治の橋を落とせば、家康は京をあきらめ大坂を攻めるしかない

5.家康を大坂城にて迎え撃ち、できるだけ戦いを長引かせる

6.家康を憎しと思う全国の大名が立ち上がり、あちらこちらで火の手が上がる

7.そうなると家康は大坂のことだけをかまっていられず、撤退を始める

8.そのスキをうかがって家康の首を討つ

徳川御威光を吹き消し、全国に松平の血を継ぐ養子大名を打ち破る策は、幕末の薩長同盟まで待つしかなかった。

無念なり、昌幸。

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2016年9月19日 (月)

特別展「真田丸」をみて

今日は、時雨れるなか、大阪歴史博物館へ行ってきました。気になったものをいくつか書き留めておきたいと思います。

蟄居先の高野山・蓮華定院にある真田信繁画像

毎度の画像を生で見ました。

武田晴信画像

すっきりした顔つきです。高野山・持明院が所蔵しています。

武田勝頼・夫人・信勝画像

これも毎度の画像です。高野山・持明院が所蔵しています。

真田昌幸画像

毎度の画像です。高野山・蓮華定院が所蔵しています。

太刀「長船長光(おさふねながみつ)」

上杉景勝所用の刀。

武田勝頼から矢沢薩摩(頼綱)へ感状

沼田城攻略ありがとう。

真田昌幸から矢沢薩摩・三十郎へ手紙

沼田城代やってくれてありがとう。上田の土地を分けちゃる。

秀吉の意向を受け、石田三成と増田長盛から上杉景勝へお手紙

真田は「表裏者」やから、上杉景勝は真田を援助するな。家康上洛を促すため、秀吉自ら真田を討伐するところやったが、家康が上洛するというので止めにしたわ。

直江状

上杉景勝が上洛するわけないやろ、家康ボケ。

石田三成から真田昌幸へのお手紙

小諸、松本深志、川中島、諏訪をやるから、上杉景勝と協力して江戸まで家康を攻め上れ。

内府ちがいの条々

家康は秀吉の御遺言にこんだけ逆らっとるで。

徳川秀忠から井伊直政・本多忠勝へお手紙

真田を(第二次上田合戦で)簡単にやっつけたら、すぐにそっち関が原へ向かいまっせ、へへ。

徳川秀忠の左団扇と高麗茶碗

まあ真田が滅びるのをのんびり見物しよか。ほほう、秀忠は織部焼が好きなんやな。

真田信之夫人・小松姫(本多忠勝の娘)の扇

あれ、女らしいとこ、あるやん。

鉄製湯釜

真田昌幸は、四阿山(あずまやさん)の白山権現を信仰していました。忍者サンカであった山家(やまが)神社の禰宜を高野山・九度山までお供させました。

真田信繁から蓮華定院へ手紙

せっかくお祭りへ誘われてたんやけど、腹が痛くて行けへんわ、ごめん。

真田信繁から西山左京へお手紙

この壺に焼酎を詰めて、口はこぼれないようにしっかりしめて。

なんと西山左京は、足利義輝の孫。真田と足利の昵懇な関係ってなんや???!!!

豊臣秀頼から真田信之へサンクスのお手紙

呉服を二つもくれて、ありがとう。

さあ、これからおもろいでっせ!負けたほうは必ず狼藉を働くので、平野庄はどっちが勝ってもえらい目に会うというお話。

豊臣秀頼から平野庄へお触れ

徳川家康から平野庄へお触れ

徳川秀忠から平野庄へお触れ

うちの若いもんが狼藉を働かんように言いつけたので、安心して暮らせや。

板倉重宗から伊丹康勝へ手紙

家康殿のおそばにいる伊丹君、家康殿の茶臼山巡視が終わったら、すぐに知らせて。わし(板倉)が仕える秀忠殿が岡山砦の巡視をすぐにされたいとおっしゃってるから。

家康と秀忠のパイプ役を板倉重宗が引き受けている!!秀忠、二度と遅参は許さないぞ!

長宗我部盛親の刀

私の御先祖さんの愛用品です。

石見銀山奉行・竹村丹後から、穴掘り現場監督・山中市兵衛へ手紙

銀堀300人にしっかり穴を掘らせ。大坂冬の陣の講和会議の最中に、藤堂高虎が陣取った天王寺口から外堀まで3日間で地下トンネルを掘らせた!

井伊直孝の赤備え具足

小笠原忠真の具足

毛利勝永の陣羽織

末吉増重の回想録「みしかよの物かたり」 

大坂夏の陣直後の悲惨な大坂を描いた。

蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が捕えた濫妨人・落人リスト

真田信繁鉄砲隊士の女房一人もいる。女房連れて合戦かよ!

高台院ねねから伊達政宗へお手紙

「大坂の御事は何とも申し候はんずる、ことの葉も御入候はぬ事にて候。」

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2016年9月17日 (土)

古代九州王朝はあった

「神武の子らが立てる今」

邪馬台国は「やまとこく」と発音し、どうやら筑豊にあったようだ。筑豊の香春には大和三山が並び立ち、鏡や鉾の素材の銅を産出する天香久山と、豊国(とよくに)のレガリアであった草薙の鉄剣(八幡の鉄剣)を巡って、倭奴国、山門国、狗奴国、末蘆国、伊都国らが相争い、景行天皇、神功皇后、継体天皇といった外来種が豊国や大宰府に侵略してきた歴史であったことがわかってきた。

いまの出雲、伊都、松浦らは、負けた側の一族が逃亡した亡命先だった。

三国時代、220年、魏の曹操が帆船を発明するまで、100年ころに生きていた神武は瀬戸内海を渡って東征できなかったし、日本最古の前方後円墳は、大和でもなく吉備でもなく筑豊にある。奈良橿原の神武天皇陵は廃仏毀釈に狂った明治維新間もない明治新政府がでっち上げたもの。

7世紀後半から9世紀にかけて、数多くの北九州の寺院が廃寺となり、数知れない仏像や梵鐘や仏塔や金堂が、大宰府、筑豊、豊国、佐賀隠国(こもりく)、久留米から、奈良や京都に遷された。奈良東大寺大仏の土台も、宇佐にあった小倉東大寺の阿弥陀仏を平城京に遷し、大毘盧遮那仏と偽ったもの。薬師寺の御本尊が結ぶ印は阿弥陀仏の印であり、薬壺を持たない。

奈良猿沢池は平城京建設時、興福寺の瓦を焼くために粘土を取ってできたもの。500年ころ、奈良帝に恋い焦がれて乙女が身投げした真の猿沢池は、佐賀隠国にある。

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2016年9月10日 (土)

Kalafina Arena Live 2016をみて

今日は、カラフィナのコンサートを見に、神戸ワールド記念ホールに行ってきました。

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スタッフ席の真横に座っていますと、スマホでコンサート風景を撮影している兄ちゃんスタッフとおばさんが並んで座っており、時折おしゃべりしており、おばさんの右隣で恰幅のいいパパが音響調整をしていました。

あとから嫁に聞くと、そのおばさんは梶浦由記さんだったそうで、ケイコさんやヒカルさんが歌っているとき、なにやらメモ書きをさらさら始めていたそうです。

いったい何のダメ出しか気になるところですね。歌なのか、照明なのか、バンドなのか?

福岡出身のワカナさんはさすがですね、誰も追随を許さない高音域は健在で、梶浦さんもペンを止めていたようです。天才です。

梶浦プロデューサーのうしろに、さらに偉い感じのおばあさんがデンと座っていましたが、いったい誰なのでしょうか?社長さん?

おっと、ネットみて判明! 振付の南流石さんやないかいな。

アンコールでは、大御所お二人さんの前に臨時舞台が作られて、そのうえでKalafinaが歌い踊り、正面の舞台に戻っていきました。なかなか貴重な席に座れてラッキーでした。

フルートの赤木りえさん、うますぎです。(拍手)

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2016年9月 9日 (金)

「むなかた」

朝鮮半島から壱岐を通って博多湾に向かう場合、

宗像あたりの潮は西から東へ急流になっており、ほっておくと神湊(こうのみなと)まで流される。

神湊でやっと風が凪ぐ。

宗像に末盧国があることは理に適っている。なるほど。

任那の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が敦賀・気比に訪れ、琵琶湖・息長氏の神功皇后に西征を勧めて、古遠賀湾・熟田津(にぎたづ)を出港し、宗像の勝門比売(かちどひめ)を滅ぼしたわけか。

宗像の宮地嶽神社は神功皇后を祭り、肥前・松浦の宮地嶽神社は勝門比売を祭っている。

神功皇后に会いたければ、奈良・桜井の長谷観音に会いに行けばいい。まさに実在のお姿を見て足に触れることができる。

古代に花咲く「緋牡丹博徒のお竜さん」と呼びたい。

お竜さんピンチの時の高倉健や鶴田浩二は、武内宿祢(たけのうちのすくね)だ。

あと最後に。

神功皇后が架空の人物と言う人へ。

正倉院に新羅戸籍があるが、どうして?

私も一昨年くらいにこの目で見た。

神功皇后が実在し、日本書紀の記述どおり新羅に遠征したという証拠だ。

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2016年9月 1日 (木)

興福寺 五重塔・三重塔をみて

興福寺が五重塔と三重塔を同時公開するということで、午前診を終え、見に行ってきました。まずは五重塔から。730年(天平2年)、光明皇后が建立。

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西 阿弥陀三尊像(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)

北 弥勒三尊像(弥勒如来・法苑林菩薩・大妙相菩薩)

東 薬師三尊像(薬師如来・日光菩薩・月光菩薩)

南 釈迦三尊像(釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩)

阿弥陀如来、弥勒如来は日本人らしい顔つきですが、薬師如来がいきなりインド人の顔つきになり、釈迦如来はギリシャ人の顔つきになっていたのが面白かったです。

三重塔に行きました。1143年(康治2年)、藤原聖子が建立。保元の乱で、父(藤原忠通)と夫(崇徳上皇)の戦いの板挟みに会い、出家して、皇嘉門院(こうかもんいん)と名乗りました。

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通路が狭く、まず東面に弁財天坐像と十五童子像がありました。頭に鳥居が乗っています。しゃがんでみないと見えませんよ。せいぜい一度に二人しか見られません。

南面の板絵と北面の板絵が公開されていましたが、くすんでいてほとんど見えませんでした。西面の板絵は開かずの扉で非公開です。

出口を出ると、昔の原色を復元してくれており、繊細な絵柄だったようです。

ここまでで所要時間30分くらいだったので、法事でお世話になっている西大寺副住職・佐伯俊源先生のお勧めどおり、忍性展後半期に行ってきました。

前半期より地元・西大寺からの出展が増えていました。忍性は日蓮にバカにされていましたが、超能力では日蓮も空海にはかないません。日蓮も冷静に布教すべきでしたが、なにせ元寇の混乱期だったので仕方ないですかね。秩父や鎌倉といった地域は、忍性の律宗が根付かず、日蓮宗や浄土真宗によって一掃されてしまいました。

あとはセットの仏像館に行きました。台座の花弁が裏返るのが統一新羅の特徴。荒々しい仏像の動きは北魏の特徴。穏やかな動きは南朝の特徴。そりゃそうだわ。

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