江戸徳川悪政から河上肇「日本型共産主義」へ
田中秀臣先生、上念司先生の経済史を学ぶにつけ、家康が図った総白痴化政策に吐き気を覚えてきた。
徳川の安泰がすなわち戦国の終焉であり、天下泰平と考えていた。そのために凶暴な武士に朱子学を押し付けて懐柔し、てめえは大奥で国家予算の1/4を浪費しているくせに、下級武士の正論に耳を傾けず、ご威光に逆らったとして国士を処刑し、農民を農村に縛り、奢侈を悪、倹約を善としてデフレ下の緊縮財政で都市市民を痛めつけてきた。
農村の農業技術が進歩
→ 米価が下がる
→ 武士の給与が下がる
→ 商人が武士に貸し付けて、都市が裕福になる
→ 農民が都市に人口流出して、年貢が減る
→ 緊縮財政を敷いて、敢えて都市をデフレにしておく
→ 農民を村に居つかせ、年貢を納めさせる
デフレを善だとする考え方が河上肇に引き継がれた。米騒動を資本主義の限界とみて、農民を農村につなぎとめたままで、共産主義へ日本を変えていこうと画策し始めた。
ソ連を見てわかるように、これは全く誤りであった。リフレ政策を説いた石橋湛山は河上肇に真っ向から反対した。
| 固定リンク
最近のコメント