大著が出ました。アメリカ極秘文書「ヴェノナ文書」が公開され、フランクリン・ルーズベルト大統領側近がすべてソ連スパイ(コミンテルン)であったことを、アメリカ政府が公認しています。
GHQのメンバーもソ連スパイ(コミンテルン)であって、近衛文麿総理大臣とその側近たちもソ連スパイ(コミンテルン)であったことがわかっています。米内光政海軍大臣、木戸幸一内大臣もソ連スパイ(コミンテルン)であったことが徐々に明らかになってきました。
要するに、GHQが大蔵省ビル屋上から銃を突きつけ威嚇を続けるという異常な状況の中で、宮沢俊義の裏切りもあって大日本帝国憲法が勝手に廃止され、ベアテ・シロタ・ゴードンという法のド素人・新興宗教家をはじめ、ソ連スパイ(コミンテルン)の思惑通りに書かれた日本国憲法が公布されました。
GHQがおこなった改革はすべてソ連スパイ(コミンテルン)の都合のいいことばかりでした。そのひとつが学制改革であって、藩校を母体とした旧制高等学校がGHQの爆破ターゲットになりました。
この本は藩校「時習館」を母体とする旧制第五高等学校(熊本)に目線を定め、明治23年創立から昭和25年廃校まで、思想や代表的教授・学生を紹介することで、変遷史を詳しく述べてくれています。
森有礼文部大臣が、九州に高等中学校を設置するための視察を行いました。国家主義をモットーとする濟々黌の佐々友房が、森有礼の西洋かぶれぶりをとても警戒し、意見を交わした結果、熊本は例外として質実剛健の風習を重んじることを許されました。
国家に忠実であることを求められたのか、帝国大学から木下広次、旧制第一高等中学校から、古庄嘉門が就任し、学生に向かって「籠城演説」「自治寮演説」「自炊自治」をぶちまけ、「護国旗」を制定し、国家を支える人材養成を教育目的とすえ、西南戦争の色濃き当初から体育教練を重視していました。
明治24年には、講道館の嘉納治五郎が校長として就任。スポーツが奨励されましたが、ボート部だけは学校から練習場まで遠く、勉学に支障があるという理由で設立を許可しなかったそうです。嘉納治五郎は、東京帝大に次ぐ2番目の帝大を熊本に誘致することを望んでいましたが、結局、京都吉田山に取られてしまいました。
英語教師としてラフカディオハーンが招請されました。当初、英会話を教えていたそうですが、あまりに学生の上達が悪いため、スピーキングではなくライディング(英作文)に切り替えて、3年間教え続けたそうです。日本人のくったくのない笑いが、学生から消えていくことをものすごく悲しんでいました。
国漢・倫理教師として、薩摩藩士・高崎正風と会薩密約を結び、8.18事件・禁門の変を起こし、戊辰戦争で会津藩士として戦った秋月胤永(かずひさ)を起用抜擢。
明治27年「高等学校令」発令。井上毅は、育てるのに手間ヒマのかかる高等中学校を廃止して、即席栽培をめざす高等専門学校を増設しました。日清戦争の影響で、武勇賛美、学問軽視の風潮が蔓延しました。
しかし、高学歴への世間の関心が高まったため、井上毅の「低級大学設置計画」は頓挫し、廃止された大学予科が復活しました。
そんな折、明治29年、英語教師として夏目金之助が就任。できない生徒には遠慮なく落第させ、自宅で無料で俳句や英語の個人レッスンを敢行したため、妻・鏡子のうつ病が発症しました。夏目が英国留学して、「アジア人を空気のごとく無視する」大英帝国人に大ショックを受け、大日本帝国が滅亡することを予見したため、今度は夏目自身がうつ病を発症しました。
明治39年、日露戦争のころになると、大内兵衛、大川周明、高田保馬といったマルクス主義者が学生として入校してきました。ここから先は、アカ(共産主義者)の巣窟と化したようです。
日露戦争を境にして、旧制五高は質がまったく別物になりました。
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