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2015年4月29日 (水)

線虫は癌患者の尿が好き

九大で今世紀最大の発見が出たようです。膵臓癌をはじめ、あらゆる癌患者の尿を一滴たらすだけで、線虫(Caenorhabditis elegans)が集まってくるそうです。

一般に、C.elegansは分子生物学の実験で多用されている実験動物。コストも数百円程度で、発展途上国から全世界にわたり、がん発見検査キットとして普及する見込みのようです、

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2015年4月22日 (水)

「おおみたから」と遣唐使

民は、天皇が「しらす」臣民、「おおみたから」。だから、天皇から政治、「まつりごと」を一任された領主といえども、民を自分勝手に扱ってはならない。

「しらす」の反対が「うしはく」。「うしはく」とは、ヨーロッパの専制君主のように、土地のみならず、領民も自分の所有物として、勝手に殺すこともできる支配のやり方のことである。

「しらす」とは、領主自ら模範となって、命令こそしないけれども、臣民を教え導く統治のやり方のことである。

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「倭国」とは、身長が低いチビの国という意味の蔑称であった。そこで遣唐使は、身長の高い、頭の優秀な人物が選ばれた。へえ、知らなかったよ。

新羅が支配する、「うしはく」朝鮮半島沿岸を経由せず、なんで直接、東シナ海を渡ったのか?私が教わった歴史教科書は、単に新羅と関係が悪くなったからと教えていた。

遣唐使船には、金銀の財宝と、舞を学ぶための容色端麗な日本女性も乗船していた。朝鮮半島沿岸の海賊たちが、遣唐使船を襲撃して、多くの人々の命が奪われたのだ。つまり、東シナ海の航海より、朝鮮半島ルートはもっと危険だったということ。へえ、知らなかったよ。

そこで、遣唐使副使として、遣唐使船乗船を拒否し、隠岐に流された小野篁(おののたかむら)の渾身の一擲が。この歌が多くの人の感動を呼び、56年間も遣唐使は廃止された。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 

人には告げよ 海人の釣船

海人=天=天皇。海人の釣船とは、遣唐使船のこと。

1 唐は衰えている。

2 唐から学ぶものは少なくなっている。

3 日本国使節が、まるで朝貢のように扱われている。

4 遭難が多く、国家有為の人材を失ってきた。

参議だった小野篁が叫んだ。「どうして危険をおかしてまで、唐に渡る必要があるのか?」

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2015年4月21日 (火)

任那の歴史

歴史を歪曲された代表が任那日本府だろう。

知っていますか、任那日本府

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最近は奈良・大阪・福岡の歴史博物館を見ても、高句麗・百済・新羅からの帰化人に教わったふうの解説だらけである。コメの伝来などは明らかに誤りで笑える。しかし、第一級の歴史資料である広開土王の石碑を完全無視する動きとはいったいなにか。高句麗と倭国が朝鮮半島で対峙していたとはっきり書かれてある。

日本倭国からスカウト派遣された技師たちが、百済や任那に出かけて行って、瓦窯、須恵器、鉄加工、ふいごなどの土器加工、木工をおこない、技術を高め、日本倭国に製品を持って帰っただけのことではないだろうか。混血もいただろうし、帰化人という壁があったのか、非常に疑問だ。

大宰府がいい例だが、まだ下層に礎石があるのに、万世一系説や倭国大和説にとって都合が悪いことを隠しているらしい。地方の瓦窯が一斉に足並みをそろえて、国分寺・国分尼寺建立以降に作られたとされているが、非常に怪しい。観世音寺は飛鳥寺より古いし、付近に5~6世紀の瓦窯跡がたくさんみつかるはずだ。

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2015年4月17日 (金)

酔っぱらって寝首をかかれる宴会ゲーム会場、鎌倉幕府

頼朝の家が、御家人の交流の場となっており、双六だの酒だの猥談だのに荒くれ田舎武者たちが集い、夜もふけっていた。囚われの妊婦でかわいそうな静御前の宿泊宿にやんやとおしかけて、セクハラしたのも田舎侍・鎌倉武士であった。これが鎌倉幕府の実態。

お互い馬上で肩を抱き合って友情を誓いあった馬には、喧嘩で切ったばかりの生首がぶらぶらなんてことも日常茶飯事。

源義経だけじゃない、西日本へ出かけた御家人たちも、京の公家からチヤホヤされて、官職をもらっており、これを頼朝が激怒し、幕府の根幹をゆるがす大罪と定めただけのこと。

1185年(文治元年) 北条時政と九条兼実の会談で、守護・地頭を設置。

1192年(建久3年) 後白河法皇が死んで、頼朝が征夷大将軍に任官。

1195年(建久6年) 東大寺再建。御家人たちが大雨の中、微動だにせず警護に当たる。

1199年(建久9年) 稲毛重成の落成供養で、頼朝が危篤になる。翌年死。

1205年(元久2年) 北条時政・牧の方夫妻と、その子・平賀朝雅が源実朝暗殺を謀ったが発覚失敗。

1213年(建暦3年) 侍所別当であった和田義盛を討って、政所と侍所を独占した北条泰時が執権政治を敷いて、ようやくまともになってきたかなという程度。

1219年(承久元年) 源実朝が公暁に殺され、後鳥羽上皇が恋人の摂津国地頭職の撤廃を条件に、将軍職派遣交渉に出た。

政所別当 中原(大江)広元

侍所別当 和田義盛

問注所執事 三善康信

政所、侍所、問注所なんて、いかめしい名前なんて要らない。「あいつ最近生意気やから、いっちょ殺したろか。」と密談があったかと思うと、その場でバッサリやるというのが、鎌倉武士の流儀であった。2代将軍頼家になって、ますます状況が悪化。御家人たちはやりたい放題。

こうして、梶原景時、比企能員、畠山重忠、平賀朝雅、和田重盛が順番に殺されていった。

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2015年4月16日 (木)

院政と荘園経営、そして南北朝の登場へ

白河 → 堀河 → 鳥羽 

→ 崇徳・待賢門院璋子 → 後白河 → 二条

→ 近衛・美福門院得子 → 八条院暲子

荘園を経営するために、天皇は上皇となった。

摂関家だけが荘園を経営でき、下級貴族は経営できなかったが、その原則を破ったのが平清盛であった。

寺社も多数のエリート坊主を養うために、荘園を経営した。奈良仏教6宗と平安仏教(天台宗と真言宗)だけが荘園を独占しており、鎌倉新仏教のつけいる隙間はなかった。室町になってようやく、なまくさ坊主の臨済宗が荘園経営に参戦してきた。

一般庶民の開発領主が、荘園を私有するためには、4年ごとに郡司・郷司となる許可を国司から得なければならなかった。そこで寺社や貴族に一回承認してもらえだけで権利が半永久的に確保できる下司(荘官)に好んでなるようになり、ますます荘園は大規模化していった。

白河は、堀河と崇徳を好み、鳥羽を嫌った。白河の死後、鳥羽は白河の息がかかった待賢門院を嫌い、平清盛の協力を得て、美福門院を寵愛し、近衛を後継者として育てたが、近衛が早死に。仕方なく後白河を天皇とした。実は後白河を二条天皇に橋渡すための短命天皇としたかった。その思惑は平家滅亡とともにくじかれた。荘園だけは、後白河に渡さず、美福門院→八条院へと継承させることに成功した。これが「八条院領」。

後白河は、母親の待賢門院から受け継いだ「法金剛院領」、九州倭国から移した三十三間堂を中心とした「蓮華王院領」、六条仙洞御所を中心とした「長講堂院領」をかき集めて対抗した。

後白河 

→ 高倉・建春門院滋子 → 安徳・建礼門院徳子

→ 以仁王・八条院暲子

→ 高倉 → 後鳥羽

1179年(治承3年)、平清盛が後白河法皇を鳥羽院に幽閉し、院政停止。

1180年(治承4年)、平清盛が安徳天皇を即位し、高倉上皇を操って荘園経営のための傀儡政権を樹立した。後白河から奪った荘園も含め、「高倉院領」を清盛がゲットした。高倉上皇が早死にし、後白河法皇を復位させるしかなかった。高倉院領は後白河法皇が再びゲットすることになった。

平家の高倉院領 vs  源氏の八条院領

これが源平合戦の経済的基盤となったのである。

源頼朝と、栄西・重源・運慶・快慶との蜜月

「平家というやつは、こんな仏たちを焼いたけだものだ。」と、大プロパガンダを打つために、源頼朝は東大寺大仏を再建した。「大仏開眼だけは俺にやらせてくれ。」と言って、後白河がほどなく死ぬと、その後白河院領は、後鳥羽上皇に直接継がれず、後白河の皇女であった宣陽門院覲子へ継がれた。

八条院領は、八条院暲子に養子入りしていた、後鳥羽の皇女である春華門院昇子に継がれた。

さあ、いよいよ公家が武士に臨んだ最後のあがき、承久の乱。

後鳥羽院領 vs  関東御領(鎌倉幕府直轄荘園)

後鳥羽が執権北条氏に敗れた後は、荘園の大部分を経営した後鳥羽院領を再分割することになった。

高倉 

→ 後高倉 → 後堀河 → 四条

→ 安嘉門院邦子

→ 式乾門院利子

後高倉上皇に後鳥羽院領が継がれたが、早死に。

八条院領は安嘉門院邦子に、その他は式乾門院利子に継がれた。

長講堂院領は宣陽門院覲子に戻され継がれた。

ゆくゆくは四条天皇に荘園群を集中させる予定だったが、後堀河と四条がたてつづけに早死に。後高倉の血統が途絶えた。

島流しの罪人である土御門のこども、後嵯峨に白羽の矢が当たり、ほどなく後嵯峨は後深草に譲位し、上皇として院領荘園群の回収に乗り出した。

八条院領が安嘉門院から亀山院へ継がれ、大覚寺統・南朝登場。

長講堂領が宣陽門院から後深草院に継がれ、持明院統・北朝登場。

南朝は、三種の神器を持つものが即位できるとした。院政を廃止し、天皇親政をめざした。院政をもたない南朝はどうしても荘園が不足していた。そこで後醍醐天皇は、農民ではなく都市の市民に貨幣で徴税することをはじめた。

北朝は、後白河法皇の詔で後鳥羽が即位できた故実に基づき、三種の神器が無くても伝国詔宣で即位できるとした。院政はひきつづき行われた。

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2015年4月 7日 (火)

熊野那智大社、青岸渡寺を参拝

昨日は、車で片道4~5時間かけて、那智勝浦へ行ってきました。まずは船でホテル中之島へ渡り、一泊。洞窟露天風呂も最高で、4回入りました。硫黄のにおいが温泉旅情をかきたててくれました。

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熊野詣に霧が迎えてくれました。宝物館で、親切な館長さんが、「那智山宮曼荼羅」の解説をしてくれました。昔は船で那智勝浦までこぎつけて、山上まで7キロ歩いたそうです。

熊野比丘尼(くまの・びくに)というキャンペーンガールが、この那智山宮曼荼羅を持ち歩いて、全国を回ったそうです。

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帰り道、串本あたりで、橋杭岩(はしくいいわ)という面白い地形を見てきました。

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2015年4月 4日 (土)

御所、上賀茂神社、下鴨神社参拝

天気予報が大きく外れて、朝から晴天なり。御所、上賀茂神社、下鴨神社の順で、行軍してきました。行きは阪急、帰りは京阪の快速特急に乗ってきました。おけいはん、久しぶり。

まずは苦楽園口駅付近の夙川で花見。009

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地下鉄今出川を下車して、徒歩で御所に到着。まずは旧・車寄せ。

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次は新・車寄せ。

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次は承明門、建礼門。

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紫宸殿、左近の桜、右近の橘。

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次は清涼殿。

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次は、小御所。

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次は、御学問所。

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障子には蘭亭の序。書道、むっちゃ苦手やねん。

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最後は、御常御殿と御内庭。

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タクシーで、上賀茂神社へ移動。祭神は、賀茂別雷神(かもわけいかずちのかみ)。

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鴨川に出て、花見を満喫しました。サイコー!!

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タクシーを拾って、下鴨神社へ。祭神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と玉依媛命(たまよりひめのみこと)。要するに、八咫烏とその娘ということです。

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境内を歩けば、すぐ京阪出町柳駅。ロッテリアで腹ごしらえして、快速特急で一気に淀屋橋まで帰りました。

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2015年4月 3日 (金)

柏原市立歴史資料館「亀の瀬の歴史」展をみて

なかむら小児科は、現在、春季休診中。小雨降るなか、大和路快速に乗って、高井田駅下車。徒歩10分足らずで現地到着。古代の道を勉強してきました。

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この柏原あたりは、百済からの帰化人の特徴である横穴式古墳がたくさん集まっています。百済の武寧王の父親である昆支(こんき)が葬られています。百済は高句麗に一回滅ぼされており、帰化日本人である武寧王が百済を復興しました。その功績があったため、白村江の戦いでも、死に体の百済が倭国に復興を頼ったわけです。

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大和川は、難波と飛鳥を結ぶ交通路でした。その大和川の交通を妨げたのが、亀の瀬にある亀岩と雲岩と紫雲石でした。

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亀の瀬から上流は、魚梁船(やなぶね)が往来していました。魚梁船は魚梁問屋の安村家が独占していました。

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亀の瀬から下流は、剣先船(けんさきぶね)が往来していました。剣先船で大坂の荷物を運び、亀の瀬の魚梁問屋で、魚梁船に移し替えて、大和に運んでいました。

亀の瀬には、池内家と河合家が経営する藤井問屋があり、剣先船の大坂の荷物を船を使わず、牛馬に積み替えて、大和に運んでいました。休閑期の農民をバイトで雇って、運搬させていたそうです。

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江戸時代の大和川水系はこんな感じ。

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奈良時代の道はこんな感じだったようだ。竹原井頓宮(たかはらいのとんぐう)という天皇の休憩宿もあった。

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756年、聖武天皇の亡き後、孝謙天皇が平城京から難波京に御幸した際、参拝した6つの寺を総称して、河内六寺と呼びます。

東高野街道沿い右手に建てられており、飛鳥から大和川亀の瀬北側コースをたどり、竹原井頓宮で一泊し、龍田道を越え、南から順に、

鳥坂寺 家原寺 智識寺 (智識寺南行宮で一泊)

山下寺 大里寺 三宅寺

また、大和川亀の瀬南側コースの道沿いには、東から順に

鋤田寺 河内国分寺 河内国分尼寺

田辺廃寺 (藤原不比等が身を寄せた田辺氏の本拠地だった)

原山廃寺 五十村廃寺 片山廃寺 土師寺 

衣縫廃寺 舟橋廃寺

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2015年4月 2日 (木)

秋篠川で花見

午前診を終え、車でぶらっと秋篠川に行ってきました。雨天続きの天気予報のなか、貴重な晴天の下で、花見をしてきました。

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すでに満開でした。

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