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2015年3月27日 (金)

日本海交易から瀬戸内海交易への変遷

古代当時の船で航行可能かどうかを検討することで、古事記・日本書紀の記事が正しいかどうかを検証することができる。

古代史の謎は「海路」で解ける

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海の交易には難所がある。難所には、関所が自然発祥して、豪族が支配権を掌握する。豪族が支配する関所には、船旅の旅人を接待する接待所ができる。古代は神社の巫女が接待し、新しくは尼寺の尼僧が接待を担当した。

九州の倭国は竜骨付き尖底船の製造にたけており、朝鮮半島と博多を結ぶ交易を掌握していた。尖底船では石ころゴツゴツの浅い川を渡れないし、難所で陸に上げて船引きすることは不可能だ。

奈良の大和朝廷は、大和川、浅い琵琶湖、河内湖、大和湖を渡る平底船の製造にたけていた。大和川にも「亀の瀬」という難所があって、難波から飛鳥へ行くために船を陸に上げて引いた。丹後半島にも難所があって、同じく貿易船を陸に上げて引いた。大和朝廷は九州から輸入した馬を船を引くために用いた。九州の倭国が馬を戦争に用いたのとは対照的だ。大和朝廷はもともと荒波の瀬戸内海を航行する技術をもたず、朝鮮半島との交易は、日本海航路をたどるしか手がなかった。日本海沿岸は岩がごつごつしており、帆船が発明されるまでは、丹後半島を海で渡ることができなかった。

200年、魏の曹操がはじめて四角形の帆船を発明した。それから、朝鮮半島、九州へと伝わった。四角形の帆では風向きが変わったら、船が逆行してしまった。三角形の帆が発明されるまで、風向きのコントロールが不能であった。

だから、0年ころの神武天皇の瀬戸内海を通過する東征は不可能であった。神武天皇は宮崎から筑豊まで遠征しただけだ。筑豊に立派な大和三山が存在する。

250年ころの卑弥呼、台与の時代も日本海航路だ。飛鳥から吉備くらいまでは瀬戸内海を行き来できており、吉備の埴輪文化が飛鳥に輸入された。日本海航路をたどって、出雲文化も飛鳥に輸入された。

300年ころの神功皇后、応神天皇になって、飛鳥から北九州まで瀬戸内海航行が可能になった。

帆船が日本海を航行しだして、丹後半島の権益が敦賀にうつった。敦賀の権力者こそ継体天皇であって、継体は経済力をバックに軍事を拡大し、帰化人の河内馬飼とともに淀川の関所、枚方を掌握し、大和朝廷を20年の戦いを経て制圧した。継体は瀬戸内海を通り、北九州の倭国王、筑紫の君磐井を殺害したが、倭国の反撃にあって、継体とその子供である安閑・宣化も殺害された。

継体に代わって、日本海交易を制圧した任那王・蘇我氏が大和朝廷に侵入した。河内・渋川廃寺を中心に大集落を築いた物部氏と対立し、蘇我氏が物部氏を破った。

関東・鹿島からやってきた中臣鎌足が中大兄皇子と結託して、蘇我氏を滅亡させたが、壬申の乱で九州倭国の天武天皇に敗れ、配下に服した。

701年、持統天皇による天智天皇復権クーデタが勃発し、天智・天武の権力抗争が平城京で展開された。770年天武の血を継ぐ聖武天皇、称徳天皇の血統が途絶えた。

日本海交易を理解できず、野放しにした藤原氏は、律令制によって田んぼを所有する陸の民を優遇し、田んぼを持てず貧しい海の民(倭国の上層市民)を重税で虐待した。さらに密教だの、陰陽五行だの占いにふけり、倭国伝統の海の知恵を継承しなかった。倭国の民、つまり海の民は海賊化して生計を立てた。荒野で米が取れない平将門の乱しかり、島だらけで米が取れない藤原純友の乱しかり。みんな重税に怒っていた。

日本海の警備も怠っており、869年貞観地震につけこまれた貞観の入寇。893~894年寛平の韓寇。1019年刀伊の入寇。

平忠盛・清盛親子が瀬戸内海海賊を制圧し、日本海交易を掌握したことで、日本海警備を強化できた。

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2015年3月15日 (日)

坐摩神社を訪ねて

昨日は、本町でのバイトで偶然、「摂津国一宮」をみつけました。

坐摩で「いかすり」とよむんですね。

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神功皇后が新羅征伐を終え、帰国して淀川南岸。大江の岸だった「田蓑島」にお参りしたのが最初の由来だとか。

御祭神は5柱おられ、

生井神 いくいのかみ

福井神 さくいのかみ

綱長井神 つながいのかみ

波比岐神 はひきのかみ

阿須波神 あすはのかみ

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クレムリンからのメッセージ

民主国家ロシアをめざしたエリツィン大統領のもとで働いていたボリス・ネムツォフ副首相が、ソビエト連邦=ファシズム国家の復活をめざすプーチン大統領に暗殺された。

北野幸伯先生がクレムリンから発せられた語録はとても勉強になる。クレムリンでプーチン批判やKGB批判などしたら命はないだろうから、多少さっぴいて話を聞く必要はあるだろうが。

https://www.youtube.com/watch?v=xJpjns4rfPc

自立とは自分が求め探すことである。

日本はおたくの国、職人の国である。国民が一流なために、自分の中で満足してしまって、政治に無関心となる。そのために政治家は三流となる。

日本はサラリーマンの社会である。優秀な人間を作り上げるシステムを持っていて、自立しようとする人間の意見がなかなか通らないために、上司に言っても無駄だろうということになり、依存する人間ばかりになるのではないだろうか。

国家の外交は国益、つまり経済的利益と安全を確保するためにおこなわれる。

← アメリカ、中国、韓国のために外交している。安全すら憲法第9条で完全放棄しているありさま(笑)

イデオロギーは支配者が大衆を支配するための道具である。

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2015年3月13日 (金)

安村俊史先生「難波津から斑鳩への道」をみて

難波津は、港のことであり、旧大和川と旧淀川が合流した川である大川に比定される。5世紀前半、仁徳天皇が「難波の堀江」として知られる運河を築いたが、これが大川だと考えられる。法円坂遺跡の倉庫群も同時に作られた。

難波津の近くに、大化改新後、難波長柄豊崎宮が建設された。

斑鳩宮 推古9年(601)造営、推古13年(605)に厩戸皇子(聖徳太子)が居住。いまの西院(夢殿)の下にある。

斑鳩寺(法隆寺) 推古17年(607)創建。若草伽藍。東院と西院のあいだにある。

斑鳩の斜向地割 北から20度西へ振った地割が広がる。古龍田道と直交する。

太子道(筋違道) 斑鳩から飛鳥への斜向直線道路。幅22m。

推古15年(607) 小野妹子が遣隋使として渡る。

推古16年(608) 隋から裴世清が難波津へ来訪。当時の都は小墾田宮。大和川を利用して、海柘榴市(つばいち)から飛鳥に入る。

推古18年(610) 新羅・任那の使節が阿斗(いまの阿刀)の河辺の館(むろつみ)に着く。

この当時の使節や荷物は大和川を利用した。大和川は水量の少ない川で、平底船でなければ渡れない。平底船では博多から朝鮮へ渡れない。大和と河内の国境である「亀の瀬」はどうしても川で越えられないので、陸路で山越えした。

推古21年(613) 難波より京(小墾田宮)へ大道を築く。これが丹比道。

難波宮 → 難波大道 → 丹比道 → 大坂道 → 横大路 → 飛鳥

難波宮 → 難波大道 → 大津道 → 龍田道 → 斑鳩 → 太子道 → 飛鳥

いま推定された難波大道は上町台地の東に寄りすぎている。いくつも谷を越えなければならないわけで、これはおかしい。上町台地の高いところをつなぐ西に傾く斜向直線道路と考えるのが妥当。

東西南北をきっちり考えた道路整備は7世紀半ば以降だ。7世紀前半は、斜めに走る道を歩いていた。これらは大和川にずっと沿った道である。渋川廃寺は物部氏の本願寺である。

難波津 → (難波大道) → 四天王寺 → (渋河道) → 渋川廃寺 → 舟橋廃寺・衣縫廃寺 → (龍田道) → 平隆寺 → 斑鳩寺 → 中宮寺 → (太子道) → 小墾田宮

古代は巫女が、飛鳥時代は尼が、旅人相手に接客接待していたのかもしれない。

652年 難波長柄豊崎宮が完成。

653年 東寄りの難波大道が完成。竹内街道、長尾街道(丹比道)、八尾街道も完成。条里制を厳守した新都の建設に似つかわしくするために、東西南北を厳密に守った大道建設が重要視された。大化改新で条里制をめざそうとする試みが河内平野で見られている。

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2015年3月12日 (木)

清水昭博先生「飛鳥仏教と尼寺」をみて 

日本で最初の出家者は尼である。6世紀後半に、善信尼、禅蔵尼、恵善尼の3人が出現。日本書紀推古32年(624)の記録で、寺46所、尼569人、僧816人が存在した。

百済の聖明王から倭の欽明天皇に仏教伝来。男性の僧たちが百済から派遣され、交代で活動し帰国した。対馬の比丘尼が中国南方の呉音で仏教で伝えたため、日本では経論に呉音を使用するようになった。敏達6年(577)、百済の威徳王が、経論・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を献じた。これを難波の大別王の寺に安置した。

4世紀中ごろ、晋の浄検尼が最初に中国に出現。5世紀の南朝の宋では、スリランカから渡来した比丘尼の活動があって、比丘尼が増産された。南朝系の尼は民間でも活発に布教活動をおこなっていた。

5世紀には、高句麗・百済・新羅では、民間レベルで仏教が伝来していた。百済と新羅は南朝の梁に朝貢し、仏教を受容していた。新羅では6世紀中ごろ、法興王や真興王の時代に、仏教が公認され、多くの寺院が建立された。法興王妃も永興寺を再興して、自ら比丘尼となった。永興寺は、新羅に仏教が伝来したとき、高句麗から来た僧の指導の下で、毛禄の妹の史氏という女性が出家して修業した尼寺であった。

6世紀後半の倭における最初の出家者は尼であった。また倭から百済に最初に留学したのも、僧ではなく尼であった。

敏達13年(584)、蘇我馬子の要請により、渡来人の司馬達等の娘の嶋(善信尼)と、その弟子である禅蔵尼(漢人夜菩の娘の豊女)、恵善尼(錦織壺の娘の石売)の女性3人が、還俗していた高句麗系渡来僧・恵便の指導の下に、桜井道場(のちの豊浦尼寺)で修業した。

一時、尼たちは法難で弾圧されたが、蘇我馬子の病気平癒のために尼たちが礼拝することを天皇に申請し、これが認められて尼たちの活動が再開された。

崇峻元年(588)、善信尼たちは比丘尼となるために百済に留学。正式の戒律を受け、崇峻3年帰国して、桜井寺で尼の指導に当たった。大伴狭手彦の娘・善徳、大伴狛夫人、新羅媛の善妙、百済媛の妙光、漢人の善聡、善通、妙徳、法定照、善智聡、善智恵、善光等にを受戒させ、司馬達等の子・多須奈が同時に出家して、徳斎法師となった。

敏達11年(577)、推古天皇と池辺皇子が、牟久原殿を桜井に再興し、12年に道場を造り、仏器を護った。推古天皇と池辺皇子が、桜井道場に馬子が出家させた三尼を住持せしめ、鹿深臣が百済からもたらした弥勒石像を供養させた。

馬子の崇仏は、物部氏によって法難を受けたが、仏教に帰依した用明天皇の時代になると迫害もなくなり、三尼は戒律を学ぶために、崇峻元年(588)に百済に出発し、崇峻3年に帰国して、桜井寺に住んだ。

倭国には尼寺があっても僧寺がなく、僧もいない。尼が本戒を受けるためには、僧の法師寺が必要であった。尼が天皇に奏上請願したため、推古天皇は豊浦の宮を寺として、桜井道場(桜井寺)をここに遷し、名を等由良寺(豊浦寺)と称し、推古天皇は小墾田の宮を造営して、そこに遷った。また法師寺として、飛鳥(僧)寺が起工される運びとなった。

まとめると、百済からもたらされた弥勒石像を供養するために建てられ、最初の僧尼である善信尼らが住んだ桜井道場は、その後、桜井寺と呼ばれ、推古天皇の宮の跡地に遷され、豊浦寺になった。

桜井道場 → 桜井寺 → 豊浦寺

(1)豊浦寺

蘇我本宗家の尼寺。北から講堂・金堂・塔の四天王寺式伽藍配置。

金堂の瓦は、飛鳥寺と同じ高句麗式。

塔の瓦は、新羅式。豊浦寺から近畿一円に波及している。「豊浦寺式軒丸瓦」と称せられる。10分葉。

(2)坂田寺

司馬達等の子・多須奈(徳斎法師)が用明天皇の病気平癒のために、用明2年(587)に出家。丈六の仏像と寺を造ったのがはじまり。推古14年(606)、飛鳥寺の丈六銅像竣工の功績により、鞍作鳥が金剛寺を建立した。坂田寺は金剛寺と称し、尼寺であった。

(3)小墾田寺

620~630年に創建された奥山廃寺に比定される。四天王寺式伽藍配置。

奥山廃寺式軒丸瓦が近畿一円に波及している。8分葉。

朱鳥元年(686)12月、9月に死んだ天武天皇を弔うための無遮大会が開催された。担当した寺の記載がある。

僧寺 → 大官大寺、飛鳥寺、川原寺

尼寺 → 小墾田寺、豊浦寺、坂田寺

(4)橘寺

聖徳太子が生まれ、勝鬘経を教えた尼寺。

蘇我の邸宅を向くために、東向きの四天王寺式伽藍配置。

川原寺式軒丸瓦を多く出土しており、川原寺と深い関係あり。8分葉の複弁。

(5)中宮寺

聖徳太子が、母親の穴穂部間人皇后のために建立。四天王寺式伽藍配置。

豊浦寺式軒丸瓦と奥山廃寺式軒丸瓦がほぼ等しく多数出土した。

(6)法起寺(池後尼寺)

聖徳太子の遺言により、岡本宮の跡地に山背大兄王が建立。法起寺式伽藍配置。

奥山廃寺式軒丸瓦が出土。

(7)葛城尼寺(和田廃寺)

聖徳太子が、蘇我葛城臣から賜った尼寺。豊浦寺と深い関係あり。

(8)尼寺廃寺

敏達天皇の孫・茅渟(ちぬ)王が建立。

法隆寺式伽藍配置。坂田寺式軒丸瓦を多く出土する。

木版で瓦は作成される。傷の多さは、坂田寺→尼寺南廃寺→尼寺北廃寺の順でひどくなってきていることから、瓦づくりもこの順でおこなわれた。

「結論」

坂田寺式軒丸瓦、豊浦寺式軒丸瓦、奥山廃寺式軒丸瓦が出土したら、そこは僧寺ではなく、尼寺だ!

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2015年3月10日 (火)

「嘘だらけの日露近現代史」を読んで

嘘だらけの日露近現代史

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バルカン半島情勢は日本に直接影響します。なぜか?ロシアは決して2正面外交をしないので、バルカンが落ち着けば東アジアにちょっかいを出す。東アジアが落ち着けばバルカンにちょっかいを出すという具合に。
パーマストン英外相vsネッセルローデ露外相、ビスマルク独宰相vsゴルチャコフ露外相の外交合戦にはじまって、露土戦争、日清日露戦争、世界大戦の裏側、ロシアvsファシズム国家ソ連、敗戦国ドイツへの援助(ソ連のラパロ条約vs英仏のロカルノ条約)、スターリンによる大日本帝国の赤化、チトーvsフルシチョフ、レーガンvsゴルバチョフ、エリツィンvsプーチンにいたるまで、近現代史をロシアの目から解説してくれています。
その中で、榎本武揚、小村寿太郎、高平小五郎、石井菊次郎といったバルカン外交に詳しい優秀な外交官たちの活躍がありました。

ドイツがユダヤ人レーニンとトロッキーをロシアに送り込んだ。

ドイツがソ連から再軍備の援助を受ける代わりに、ソ連を国家承認した。

ドイツのヒトラーはユダヤ人をマダガスカル島へ強制移住させようとしたが、イギリスに阻まれ、強制収容所での大量虐殺となった。ヒトラーの反共は茶番。メキシコへ亡命?

ドイツは中華民国・蒋介石への軍事援助をおこない、第一次世界大戦でオセアニア諸島領土を日本に奪われた復讐をした。

ドイツはいまも日本をデフレに導こうとして、欧州中央銀行に対し、誤った公式コメントをさせ続けている。

ここまで反日姿勢を崩さないドイツとは何者か?ぜひ「嘘だらけの日独近現代史」を刊行してもらいたい。

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2015年3月 6日 (金)

日本人が進むべき道

(1)歴史が歪曲捏造されていることに気づき、真実の歴史を知る。大東亜戦争の戦争責任は、近衛文麿、陸海軍共産分子、日本共産党、大蔵省にあるのであって、これらは東京裁判でいまだに裁かれず、隣国とのロビー活動にいそしんでいる。中国人が日本人を虐殺した通州事件を、南京事件にすり替えて、日本から莫大な賠償金をせびり取ってきた。などなど、「近現代史」を必修科目にすると言うのなら、真実を教えるべきである。

(2)真実の歴史を知ったこと(=洗脳から覚醒したこと)を、アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアといった戦勝国連合に気づかれないようにふるまう。放置すれば自然に日本は他国に勝つ潜在的パワーを十分備えており、日本の大国化はパワーバランスを大きく崩すことになることを奴らは恐れている。安倍首相、ご苦労様です。

(3)統帥権がアメリカにあるとした日米安保の下敷きになった日本国憲法のままでは、アメリカ没落とともに、中国の餌になるしかない。中国に完全降伏した状況を想像力たくましく頭に描いてみる。その中国に莫大な資金を日本は貢いできた。中国は日本からカツアゲした資金で軍拡し、核ミサイルを日本に向けている。

(4)経済を立て直さなければ、医療福祉は破綻する。何より国家は中国侵略に対し自己防衛できないし、大災害に苦しむ国民を救済できない。

(5)消費税増税に踏み切った状況は、昭和16年に日米開戦に踏み切った状況と同じである。デフレから完全に脱却できないままで強行した消費税増税は、日本経済を不況に陥れる。

(6)福沢諭吉は「一身独立して一国独立す」と言われた。国民ひとりひとりが目覚める以外に、日本の明るい未来はない。なぜ日本の軍隊が沖縄を防衛しなければならないのか、なぜ憲法を改正しなければいけないのかといった理由は、おのずとわかるであろう。

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