日本海交易から瀬戸内海交易への変遷
古代当時の船で航行可能かどうかを検討することで、古事記・日本書紀の記事が正しいかどうかを検証することができる。
海の交易には難所がある。難所には、関所が自然発祥して、豪族が支配権を掌握する。豪族が支配する関所には、船旅の旅人を接待する接待所ができる。古代は神社の巫女が接待し、新しくは尼寺の尼僧が接待を担当した。 九州の倭国は竜骨付き尖底船の製造にたけており、朝鮮半島と博多を結ぶ交易を掌握していた。尖底船では石ころゴツゴツの浅い川を渡れないし、難所で陸に上げて船引きすることは不可能だ。 奈良の大和朝廷は、大和川、浅い琵琶湖、河内湖、大和湖を渡る平底船の製造にたけていた。大和川にも「亀の瀬」という難所があって、難波から飛鳥へ行くために船を陸に上げて引いた。丹後半島にも難所があって、同じく貿易船を陸に上げて引いた。大和朝廷は九州から輸入した馬を船を引くために用いた。九州の倭国が馬を戦争に用いたのとは対照的だ。大和朝廷はもともと荒波の瀬戸内海を航行する技術をもたず、朝鮮半島との交易は、日本海航路をたどるしか手がなかった。日本海沿岸は岩がごつごつしており、帆船が発明されるまでは、丹後半島を海で渡ることができなかった。 200年、魏の曹操がはじめて四角形の帆船を発明した。それから、朝鮮半島、九州へと伝わった。四角形の帆では風向きが変わったら、船が逆行してしまった。三角形の帆が発明されるまで、風向きのコントロールが不能であった。 だから、0年ころの神武天皇の瀬戸内海を通過する東征は不可能であった。神武天皇は宮崎から筑豊まで遠征しただけだ。筑豊に立派な大和三山が存在する。 250年ころの卑弥呼、台与の時代も日本海航路だ。飛鳥から吉備くらいまでは瀬戸内海を行き来できており、吉備の埴輪文化が飛鳥に輸入された。日本海航路をたどって、出雲文化も飛鳥に輸入された。 300年ころの神功皇后、応神天皇になって、飛鳥から北九州まで瀬戸内海航行が可能になった。 帆船が日本海を航行しだして、丹後半島の権益が敦賀にうつった。敦賀の権力者こそ継体天皇であって、継体は経済力をバックに軍事を拡大し、帰化人の河内馬飼とともに淀川の関所、枚方を掌握し、大和朝廷を20年の戦いを経て制圧した。継体は瀬戸内海を通り、北九州の倭国王、筑紫の君磐井を殺害したが、倭国の反撃にあって、継体とその子供である安閑・宣化も殺害された。 継体に代わって、日本海交易を制圧した任那王・蘇我氏が大和朝廷に侵入した。河内・渋川廃寺を中心に大集落を築いた物部氏と対立し、蘇我氏が物部氏を破った。 関東・鹿島からやってきた中臣鎌足が中大兄皇子と結託して、蘇我氏を滅亡させたが、壬申の乱で九州倭国の天武天皇に敗れ、配下に服した。 701年、持統天皇による天智天皇復権クーデタが勃発し、天智・天武の権力抗争が平城京で展開された。770年天武の血を継ぐ聖武天皇、称徳天皇の血統が途絶えた。 日本海交易を理解できず、野放しにした藤原氏は、律令制によって田んぼを所有する陸の民を優遇し、田んぼを持てず貧しい海の民(倭国の上層市民)を重税で虐待した。さらに密教だの、陰陽五行だの占いにふけり、倭国伝統の海の知恵を継承しなかった。倭国の民、つまり海の民は海賊化して生計を立てた。荒野で米が取れない平将門の乱しかり、島だらけで米が取れない藤原純友の乱しかり。みんな重税に怒っていた。 日本海の警備も怠っており、869年貞観地震につけこまれた貞観の入寇。893~894年寛平の韓寇。1019年刀伊の入寇。 平忠盛・清盛親子が瀬戸内海海賊を制圧し、日本海交易を掌握したことで、日本海警備を強化できた。 |
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