« いざ、西宮へ | トップページ | 国産ジェット機MRJ »

2014年10月19日 (日)

橋本輝彦先生「邪馬台国を掘る」を聴いて

昨夜は、ホテル日航奈良にて、奈良市医師会の講演会を聴いてきました。

Pa181865
まずは、邪馬台国九州説への徹底した反論・反証からはじまりました。

紀元200年ころの遺跡では、纏向遺跡が最大であること。とにかく広い。天理市が発掘を許可してくれないので、桜井市しかわかっていないが、遺跡の面積はもっともっと広がるだろう。

30か所ほどの候補地を挙げている九州説であるが、ちゃんとした遺跡が出土しているのは、吉野ヶ里遺跡しかなく、しかも吉野ヶ里遺跡は紀元200年どころか、もっと古い時代の遺跡であることは、九州説を主張する学者たちもほぼ全員が認めている。

大和、北九州、山陰、吉備、北陸、尾張、楽浪郡、任那といった全国から炊飯土器が纏向遺跡に集まっており、しかも大和以外の炊飯土器が3割を超えていること。使用している土も土器の産地のものであること。しかも大和の土を使って自分の愛用炊飯土器を作っていた。今でいうなら、東京や大阪で出身地がどこかインタビューして、これくらい高い打率がやっと得られるだろう。

鋤、鍬といった農具が、纏向遺跡からほとんど出土しないこと。ということは、農耕以外の目的で全国から纏向へ集まっていた都市機能を備えていたということになる。

近畿のフイゴ土器はちくわ型、北九州のフイゴ土器はかまぼこ型。纏向から北九州のちくわ型フイゴ土器がいっぱい出土しており、北九州から技術者が纏向に来ていた。よって北九州は纏向にへりくだっていたということ。敵であれば、こんな重要機密情報を敵国に流すはずはない。

染料に用いたベニバナ花粉、薬用に用いたミント花粉がみつかっており、いずれも外来種の超高級な品だ。こんな高級なものは皇族レベルしか持てないはずだ。よって卑弥呼クラスの幹部が纏向遺跡にいたという傍証になる。

北九州には朝鮮式土器がたくさん出土するが、これくらい高級なものは出土していない。もし九州に邪馬台国があったとするなら、洋食器破片がたくさん出土している長崎の出島が江戸時代の首都だということになる。

九州説の学者が、王宮には鴻臚館のような外交施設がないではないかと。しかしそんなものは必要がない。王宮だけを転々と移動するだけで、物部氏、葛城氏、大伴氏といった周囲の豪族が主従関係を守って助けていくだけで首都機能が十分果たせていたからだ。

卑弥呼は紀元200年ころ女王に即位して、247年に死んだ。よって47年間も統治が続いていた。

ここでフロアから鋭い質問が。

吉備発祥の前方後円墳が、纏向から全国に波及したのはわかる。ではなぜ敵の狗奴国とみられる尾張の前方後方墳が一基、纏向遺跡に存在しているのか?

答えは、外交使節のものではないか。戦争中であっても交渉はなされるのであるとのこと。

ここから私の考え。

正直、卑弥呼にはまったく興味がない。なるほど卑弥呼は纏向遺跡にいたと思う。そして纏向遺跡を主人として、全国の豪族たちと主従関係が結ばれたのだろう。しかし、そんなのはオベンチャラであって、いつでも反逆、反乱の機会をうかがい続けていたであろう。

私の興味は、倭の五王はどこにいたのかということだ。なんでこんな奈良の山奥にいて、任那が攻められたり、百済や新羅を攻めたりしているのに、軍船や兵隊を朝鮮半島に頻回に送り出せるのだろうか?情報が間に合わないのではないか。大事な兵隊さんを沈没させて死なせたらあかんわな。沈没しない軍船を近畿政権が作れたのか?

大宰府を近畿政権の出先機関とするほど、近畿政権はそんなに強かったのか?鉄器もまともに持っていないのに。実際、戦っている現役軍人の数は北九州や任那に圧倒的に住んでいたはずだ。実際に大王の寝首をかいた蘇我氏もそのひとつ。

中国はまさに三国時代。下剋上は当たり前だし、中国人もいっぱい邪馬台国や倭国に渡来してきていたはずだ。オベンチャラを使って大王の寝首をかくことくらい朝飯前だったにちがいない。

南京大虐殺だの従軍慰安婦だの平気で妄想を世界中にばらまくことができる中国人が書いた魏志倭人伝なんて、そもそも信じられない。距離がなんぼとか南へ行ったとか、ほんまかいな。

|

« いざ、西宮へ | トップページ | 国産ジェット機MRJ »