« やあやあ我こそは伊東一門なり | トップページ | 興福寺南円堂を訪ねて »

2014年10月10日 (金)

倭国関連年表

121年 倭国の神武、委奴国を東征。橿原宮を設置。

189年 董卓の献帝保護

192年 呂布、董卓を殺害

196年 曹操の献帝保護

198年 下邳の戦い 曹操、呂布を撃破

200年 官渡の戦い 曹操、袁紹を撃破

208年 赤壁の戦い 孫権・周瑜、曹操を撃破

211年 潼関の戦い 曹操、馬超を撃破

214年 劉備、西蜀を劉璋から奪取

216年 曹操、魏王に即位

220年 魏の建国 曹丕、献帝を廃する。

221年 蜀の建国

222年 夷陵の戦い 呉の陸遜、劉備を撃破

228年 街亭・陳倉の戦い 曹叡、諸葛亮を撃破

229年 呉の建国

230年 呉の衛温と諸葛直が東鯷国へ亡命

     呉の様式の三角縁神獣鏡が近畿に普及しはじめる

234年 五丈原の戦い 諸葛亮、司馬懿を撃破

237年 孫権、高句麗とともに遼東親征

238年 遼隧(りょうすい)の戦い 司馬懿、公孫淵を撃破

     邪馬台国の卑弥呼、魏より金印「親魏倭王」を授かる

248年 卑弥呼、刑死

249年 司馬懿、曹爽を処刑

263年 蜀の滅亡 司馬昭、劉禅を破る

265年 晋の建国 司馬炎、曹奐を廃する 

266年 東鯷国の台代、晋に朝貢

280年 呉の滅亡 司馬炎、孫皓を破る

290~306年 八王の乱

司馬炎の母が楊氏、妻が賈氏。司馬炎が死んで司馬恵が即位すると、賈后(かごう)が楊駿を殺害。司馬氏の3人の王が巻き添えを食らって刑死。

司馬倫が賈后を殺して司馬恵を廃して即位。司馬冏(けい)がこれを不服とし、司馬乂(がい)・司馬頴(えい)・司馬顒(ぎょう)に命じて司馬倫を殺し、司馬恵を復位させる。

司馬冏の専横を不服とし、司馬乂が司馬冏を殺害。司馬乂の専横を不服とし、司馬頴が司馬乂を殺害。司馬頴の専横を不服として、司馬越が恵帝をかついで、司馬頴を殺害。さらに司馬顒と恵帝を殺害。帝の有力候補だった司馬覃(たん)をも殺害。これで司馬氏ほぼ全滅。

296~299年 氐の斉万年の乱

301年 漢の張軌、前涼を建国。漢族から成り、晋(西晋)と親しい。

303年 張昌・石冰(ひょう)の乱 流民を護送した氐の李特が晋軍に討たれる。

304年 李特の子・李雄、成漢(後蜀)を建国。漢族から成り、晋と親しい。

304年 匈奴の劉淵(えん)、司馬頴の支配を逃れ、前趙を建国。劉禅の後裔を自負し、漢と命名。漢人の奴隷と化していた匈奴が、劉淵の人格を慕って集まる。

305~307年 石冰を討った陳敏が晋に寝返り反乱を起こす。

309年 前趙の劉淵、洛陽を攻撃

310年 前趙の劉聡、洛陽を攻撃

311~316年 永嘉の乱

前趙の将軍・石勒(せきろく)が、司馬越を破り殺害。AKB48ならぬ司馬王48人衆はこれで全員殺された。劉聡、洛陽と長安を攻撃。晋の懐帝を都・平陽に拉致した。

314年 江南貴族は呉の時代から健在で、江南への流民が貴族の権力を強大にしていた。華北の王氏、江南下級貴族の周氏・沈氏を弾圧。

*江南上級貴族:朱、張、顧、陸、虞、魏、孔、賀

317年 司馬睿(えい)、東晋の建国。江南貴族は呉の時代から健在で、江南に逃亡してきた華北貴族は皇帝・司馬氏を利用して、江南貴族上層部のサロンを支配した。

319年 羯の石勒、前趙から独立して後趙を建国。仏図澄が仏教を布教。

322~324年 王敦の乱 皇帝外戚の庾(ゆ)氏による王氏弾圧。

327~329年 蘇峻の乱

*東晋の実権:王導→陶侃(かん)→庾亮→庾翼→桓温→謝安

328~329年 石勒の後趙が、劉曜の前趙を滅ぼす。漢人士大夫を重用し、胡人への差別を厳禁した。

337年 鮮卑の慕容皝(ぼようこう)、前燕を建国

339年 前燕の慕容皝、高句麗を服属させる。

346年 百済の建国

349年 石虎の後趙、色事に溺れて、鮮卑人の追撃によって滅亡。

351年 氐の符健、前秦を建国

356年 新羅の建国

357年 前秦の符堅宰相・王猛とともに徳治主義政策、重農主義政策を敷く。仁徳天皇や聖徳太子のお手本となる。

民は撫に応じ、夷狄は和に応じる。天下を合わせて一家とするには、同じく赤子とみなすべきである。」

369年 任那の設置

369年 東晋の桓温(こうおん)、前燕に敗北

370年 前秦の符堅、前燕を滅ぼす

376年 前秦の符堅、華北統一。道安が仏教を布教。

383年 淝水の戦い 前秦の符堅が北府軍・謝玄と西府軍・恒沖に敗北。

384年 鮮卑の慕容垂、後燕を建国

385年 後燕と高句麗の戦いが激化

386年 姜の姚萇(ようちょう)、符堅を殺害して後秦を建国

386年 鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)、北魏を建国

391年 広開土王の碑

396年 東鯷国の神功皇后が倭国を滅ぼす(征西)

高句麗の広開土王が、百済・倭国連合軍を破る。

398年 北魏の道武帝、遊牧民に定住を強制

399年 百済・倭国連合軍が新羅を破る

400年 高句麗の広開土王、百済・倭国連合軍を破り、新羅を救う。

400年 後燕、高句麗を襲撃

401年 後秦の姚興鳩摩羅什を迎え入れ、仏教を布教

399~411年 孫恩・廬循の乱

403年 恒玄、東晋を滅ぼし楚を建国。半年後、劉裕によって殺害。

404~405年 倭国、高句麗の広開土王に敗北

413年 倭讃、東晋に朝貢

420年 劉裕、宋を建国。高句麗王、百済王が宋から任官。

421年 倭讃、宋から任官。

425年 倭讃、宋に朝貢

430年 倭讃、宋に朝貢

438年 倭珍、宋に朝貢

439年 北魏の太武帝、華北統一。羽林兵と呼ばれる最強の近衛兵を中央に設置。征服地に鎮(ちん)と戌(じゅう)を設置。安定的に従属できた時点で、州と郡に昇格した。

443年 倭斉、宋に朝貢

451年 倭斉、宋より安東大将軍に任官。

453年 宋の文帝、暗殺される。劉駿が即位して、孝武帝(453~464)となる。

恩倖(おんこう)と呼ばれる、皇帝におべっかを使う低身分層が出現。恩倖による商業活動がさかんになり、貨幣不足に陥った。五銖銭を悪鋳して商業が混乱したため、465年緊縮財政に切り替え、悪貨を駆逐しようとした。しかし庶民は悪貨をつかまされ重税に苦しみ、皇族・官僚・恩倖・御用商人が良貨の所有者となり、貧富差が拡大した。

460年 倭興、宋に朝貢

462年 倭興、宋より安東将軍に任官。

475年 高句麗が百済を破り、百済が漢城→熊津に遷都。

478年 倭武、宋より安東大将軍に任官

479年 䔥(しょう)道成、劉氏一族を殺し、斉を建国。

479年 倭武、斉より鎮東大将軍に任官

493年 斉の武帝が死んで、䔥氏一族の殺し合い開始。

502年 䔥衍(しょうえん)が梁を建国。梁の武帝(502~549)となる。身分にかかわらず、有能な人物を登用した。

502年 倭薈(いわい)=筑紫君磐井、梁より征東大将軍に任官

505年 国立大学の五館を設立し、身分にかかわらず優秀な人材を教育した。武帝の子・昭明太子・䔥統が「文選」を編纂した

梁の武帝、倭の倭薈のとき、仏教が最高潮に繁栄し、寺院が首都・建康と首都・大宰府にたくさん建造された。倭薈が阿弥陀仏信仰を創始した

建康の同泰寺(どうたいじ)、長干寺(ちょうかんじ)、瓦官寺(がかんじ)、冶城寺(やじょうじ)、光宅寺(こうたくじ)が有名。

大宰府の観世音寺、小倉山大仏殿の小倉寺、隠国の初瀬寺がとくに有名。

507年 越の男大迹王(おおどおう)、東鯷国の継体大王に就任

523年 梁の武帝、銅銭から鉄銭に切り替え、貨幣不足を解消鉄銭の偽造により失敗。農民は逃亡し、軍人となり給料を得た軍隊の横暴がさらに農民を流亡させた

527年 倭の倭薈、継体大王により殺害

534年 北魏が、高歓の東魏、宇文泰の西魏に分裂

543年 西魏の宇文泰、府兵制を敷いて軍国主義国家に編成。

544年 東魏の漢人文官貴族が、鮮卑の成り上がり武人貴族(勲貴と呼ばれた新興貴族)を弾圧。

548年 候景の乱。東魏から梁に亡命した候景が建康を陥落。武帝が悶死する。

550年 候景が漢王に即位

550年 高洋が東魏を滅ぼして北斉を建国。鮮卑人の勲貴、漢人の文官貴族、西域商人の恩倖という三つ巴の政権抗争が続く。

551年 簡文帝を殺して、候景が漢帝に即位

552年 䔥繹(しょうえき)が候景を殺して、梁の元帝に復位

554年 西魏が江陵を攻略し貴族市民を拉致。

555年 䔥詧(しょうさつ)が江陵に後梁を建国

556年 宇文泰、六官の制を敷いて、死去。権力は宇文護へ。

557年 陳覇先、建康を攻略し陳を建国

557年 宇文護、西魏を滅ぼして北周を建国

562年 宇文邕(うぶんよう)、宇文護を殺して、北周の武帝となり親政を敷いた。

562年 新羅、任那を滅ぼす

564年 陳蒨(ちんせん)=陳の文帝、軍閥を倒して江南を統一

573年 北斉の文林館アカデミーが内部政争に敗北し虐殺される。

573年 陳の宣帝、北斉を討つ

577年 北周が北斉を滅ぼし、華北統一

581年 北周外戚の楊堅、ライバル将軍・蔚遅迥(うつちけい)を殺し、宇文一族を皆殺し、隋を建国

587年 隋、後梁を滅ぼす

589年 隋、陳を滅ぼし、中華統一。

|

« やあやあ我こそは伊東一門なり | トップページ | 興福寺南円堂を訪ねて »