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2014年10月 9日 (木)

やあやあ我こそは伊東一門なり

土佐(高知)といえば、山内氏。日向といえば島津氏。しかしこれは間違っている。それぞれ、土着の古豪の存在があった。

土佐は長宗我部氏。とくれば、日向は伊東氏であった。

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伊東介堯(すけたか)の本陣が清武、島津久豊(ひさとよ)の本陣が高岡であった。親父の話では、昭和初期、清武川をはさんで、伊東一門のこどもたちと島津一門のこどもたちが石ころを投げ合って、合戦していたと聞いたことがある。

宮崎市大半は宇佐宮領であって、伊東氏が宇佐宮から不法奪取していた。大淀川河口の国富、一ヶ瀬川の佐土原は八条院領であったが、北条氏、足利尊氏、天龍寺領と移って行った。

後醍醐天皇による倒幕の一環として、島津貞久は大宰府の少弐氏や大友氏らとともに、赤橋英時を討ち鎮西探題を制圧した。その戦功として、日向国守護職を授かったが、のち時流に遅れ、尊氏派に寝返るのが遅かったため、大友氏に改替された。

南北朝時代に突入すると、まずは後醍醐天皇から尊氏追討令が発布された。それを受けて、伊東祐広(すけひろ)は肝付兼重らとともには尊氏の所領奪取を狙ったが、延岡・高鍋の国人だった土持宣栄(つちもちのぶよし)が阻止。

尊氏が筑前多々良浜の戦いに勝利すると、形勢逆転。畠山直顕(ただあき)を派遣して、伊東祐広を降伏させ所領回復を果たした。さらに伊東祐為と土持左衛門太郎を服従させ、肝付兼重を討った。

観応の擾乱が起き、高師直によって足利直義が失脚。子・直冬が少弐頼尚を頼って肥後・川尻に逃走し、味方を募ったため、九州は尊氏方、直義・直冬方、南朝方の三つ巴となった。日向の畠山直顕も直冬方に与することとなった。

北条高時の遺児・時行が挙兵し鎌倉を奪取した際、伊東本宗家だった伊東祐持は北条方に与した。尊氏が鎌倉を奪回すると伊東祐持が降伏。尊氏が京都に帰る途中で、後醍醐天皇に反旗を翻した。尊氏が京都を制圧した際、戦功が認められ、伊東祐持の子・氏祐が足利直冬と行動を一にし、備後国鞆→(観応の擾乱にて)日向に下向。

尊氏派 → 伊東祐持、島津貞久(薩摩・大隅)、一色範氏(九州探題)

直義・直冬派 → 伊東氏祐、畠山直顕(日向)

南朝派 → 伊東祐広、菊池武光・懐良親王(肥後)

菊池武光と懐良新王は駆逐の勢いで、鎮西管領・一色範氏を撃破。新たに今川了俊が九州探題に抜擢され、菊池武光・懐良親王を撃破。

尊氏の子・足利義詮(よしあきら)は、島津貞久を派遣して、畠山直顕を討伐命令を下した。しかし薩摩大隅統一に忙しい貞久は、島津資久(樺山資久)に一任したが、うまくいかず。貞久の子・島津氏久、菊池武光の挟撃にあい、畠山直顕は敗北、京へと逃れた。

今川了俊が少弐資久を謀殺したことが発端となり、少弐氏と友好関係にあった島津氏久と今川了俊が反目対峙することとなった。伊東氏は今川氏と与して、島津氏と戦闘を繰り広げることとなった。

時がたち、今川了俊が退去するに乗じて、氏久の子・島津元久が日向侵攻開始。伊東氏の活躍で清武城陥落に失敗し、一時和議。次に、加江田城、穆佐(むかさ)城陥落に成功し、島津氏が大淀川南方を奪取した。

ここから伊東氏の調略によって、島津氏の分裂を謀ることになる。

元久の弟・島津久豊に、伊東本宗家の娘を嫁がせる。元久の死後、久豊が葬式中に家督を強奪する。そのすきを見て、伊東氏が決起。獲られた城を次々と取り返していき、伊東介堯(すけたか)のときに、日向統一を達成した。

そののち、伊東氏にコントロールされた大隅半島系・島津氏と、伊集院氏にコントロールされた薩摩半島系・島津氏が内紛を繰り広げていき、凶暴なる島津氏の懐柔に成功した。

薩摩は内紛によって、示現流の刀が研ぎ澄まされていくこととなる。

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