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2014年10月31日 (金)

ローラ・アントワネット語録

"Nanny, know the secret of a good marriage?"

"A short skirt once a week."

"Wow."

"What's the significance to you all of a skirt?"

"Something to raise one's spirits."

"Something to make one feel pretty."

"A thing not to be toyed with."

"Precisely. Never mess with a girl's skirt."

"The Count of Bleau has a thing for bottoms."

"Then a tight skirt's best."

"And the Count of Ribery?"

"A leg man."

"Flared for him, then."

秒殺とはこのことか。

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第66回正倉院展をみて

昨日は午前診を終え、開扉された興福寺北円堂、東金堂後部を見てから、15時半ころから最終18時まで、正倉院展に行ってきました。読売新聞のタダ券が助かりました。

レイトナイトチケット組が押しかける前、16時15分ころから、ようやく空きはじめ、レイトナイト津波がひとしきり過ぎ去った17時からは並ばなくても見放題ショーとなりました。

天高く馬肥ゆる秋

まさに雲一つない最高の日本晴れで、最高の行楽日和でした。

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今回の目玉は、聖武天皇のグッズでした。靴、靴下、ベッド、ベッドに敷いていた莚・畳。

光明皇后とベッドを並べてダブルベッドにしていたのではないかという解説には、ムムムときました。

畳に、聖武天皇の血性吐物みたいな血痕はないかとみましたが、とくになさそうでした。病弱な方だったので、看病もさぞ大変だったでしょう。

極めつけは、聖武天皇の刀コレクションシリーズ。

称徳天皇が、お父さん(聖武天皇)のコレクション刀をほとんど持ち出して、藤原仲麻呂を征伐したそうで、正倉院にはほとんど残っていません。刀は大小さまざまで、伎楽面をつけて踊るとき専用の小刀も交じっていただろうし、

「武器が足りないのね。父上の形見、うーん、このさい全部持っていきなさい。」

とヒステリックに叫ぶ称徳天皇。前線に刀が運ばれて、兵士たちが口々に、

「あれ?なんじゃ?これはつかいものにならん。」

という場面もあったのではないでしょうか。切腹もできそうもありません。

ちなみに西大寺は、仲麻呂調伏のために称徳天皇によって建立されました!

銅漆作太刀(どううるしづくりのたち)

まっすぐな刀身、切れのよさそうな歯。

漆塗鞘御杖刀(うるしぬりさやのごじんとう)

象牙付きエイ皮でできた柄は圧巻です。

黄金荘太刀(おうごんそうのたち)

エイ皮の柄です。刀身が細めで実践には役立たなかったかも。

無荘刀(むそうのとう)

古墳時代に作られたみごとな刀身です。藤の木古墳に類似品ありとか。

梓弓(あずさゆみ)

槻弓(つきゆみ)

曲げ方が微妙に違いますね。

あとは光明皇后の品かな。

鳥獣花背円鏡(ちょうじゅうかはいのえんきょう)

要するに海獣葡萄鏡。これはいっぱい見たことがあります。

鳥獣花背方鏡(ちょうじゅうかはいのほうきょう)

正方形の海獣葡萄鏡はめずらしい。

鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)

6枚シリーズのうち、2枚は江戸に出張中とのこと。ふっくら美人と着物にはヤマドリの羽が・・・、ムム、見えないぞ。

白瑠璃瓶(はくるりのびん)

ガラス製の水差し。これで聖武天皇は漢方薬を飲んでいたのか。

金銀絵長花形几(きんぎんえのちょうはながたき)

デザインが独特。色彩のグラデーションシリーズは以前の正倉院展に詳しくブログしてます。

個人的に注目はこれ。マニアックだよ。

東大寺開田地図

初期荘園のでき方を示す貴重な地図。律令制まもない富山県の荘園だそうです。

東大寺封戸処分勅書

恵美押勝(藤原仲麻呂)の直筆勅書。

太師 従一位 藤原恵美朝臣 の直筆サイン。まあしっかりかけている。それにしても太師とは自分で作った官職なのか。光明皇后はいつも藤三娘とサインしている。藤の一文字に賭ける思いをよそに、藤原の二文字。おまけに恵美とは。この4年後、乱を起こすが、傲慢ぶりがうかがえました。

銅三鈷(どうのさんこ)

古密教の仏具。白鳳・奈良時代から、大日経、般若心経、光明真言などといったサンスクリットの密教は日本に渡来していました。空海は、日本には断片しか伝わっていない密教を、まるごと日本に持ち込もうとして、成功をおさめたのです。第8代教祖様になって帰ってきたのですから、たいしたもんです。

王族・皇族の苗字は常に一文字

中 委奴国王

倭 倭国王(邪馬台国王)

豊 現皇族(東鯷国王・継体王朝・越国王)

紀、木、貴 出雲国王

和 百済王

直属臣下の苗字は二文字

大伴

物部

中臣、藤原 中氏の家臣

葛城

平群

蘇我

北条

足利

豊臣 豊氏の家臣

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2014年10月28日 (火)

春過ぎて夏来たるらし白妙の

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の

衣干すてふ 天の香具山

「新訳」

春が過ぎて夏が来たようだ。

あたりは緑一色に染まっているのに

まるで神様の真っ白な衣が干してあるかのように

石灰岩でできた天の香具山だけが白く輝いている

さすが音に聞こえし神様の山なんだなぁ

「そこで・・・」

石灰岩でできた天の香具山を探してみよう。

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2014年10月24日 (金)

River of no return

私の好きな曲ベスト1は、やはりマリリンモンローの「帰らざる河」ですね。浪人中に東京で聴いた懐かしの一曲。

https://www.youtube.com/watch?v=w86XBQKmR7U

イケメンガンマンの強引な求愛に負けて、売春婦からはいあがり、ようやく小さな幸せをつかんだ小旅行。

やっとみつけた小さな幸せなのに、元カレにモンローが連れ去られかける。大事な馬を奪われて途方に暮れるイケメンガンマン。そこへインディアンの襲撃に会い大ピンチ。いかだに乗って、河を下るが、おだやかだった河もやがて荒れ狂う。必死でガンマンにすがるモンロー。

行きつく先に待っていたはずの夢の夫婦生活が消え、あっという間に恋人同士の決闘に発展してしまう。どうしていいかわからないモンローだが、イケメンガンマンの勝ちで、あっけなく決着がついてしまう。

身も心もボロボロになったモンローが、再び売春酒場に戻って歌ったのがこの曲。

「帰らざる河」はときにおだやかで、ときに荒れ狂う。この帰らざる河は、わたしの愛するカレをも奪っていってしまった。そしてあの幸せはもう戻ってこない。

ひととおり歌い終わったモンローを、イケメンガンマンが静かに抱き上げ、馬車に乗せる。そこには息子が。馬車は走る。ハラリと地面に捨てた売春服一着・・・

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2014年10月22日 (水)

国歌「君が代」に敬意を表して

野々村彩乃さんの国歌斉唱はすばらしいですね。

5回連続再生してしまいました。ぜひ紅白歌合戦でも歌っていただきたい。あと、Kalafinaを日本人代表歌手としてなぜ出さない、NHK?

https://www.youtube.com/watch?v=9LHajlNlGg8

歴史を勝者の目からと、敗者の目からと、公平に正しく語ることができるのは、世界で日本人しかいないことをここに明記しておく。

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2014年10月19日 (日)

国産ジェット機MRJ

いよいよ国産ジェット機が完成しましたね。

ゼロ戦のように美しい日本製の飛行機に乗ってみたい。

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橋本輝彦先生「邪馬台国を掘る」を聴いて

昨夜は、ホテル日航奈良にて、奈良市医師会の講演会を聴いてきました。

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まずは、邪馬台国九州説への徹底した反論・反証からはじまりました。

紀元200年ころの遺跡では、纏向遺跡が最大であること。とにかく広い。天理市が発掘を許可してくれないので、桜井市しかわかっていないが、遺跡の面積はもっともっと広がるだろう。

30か所ほどの候補地を挙げている九州説であるが、ちゃんとした遺跡が出土しているのは、吉野ヶ里遺跡しかなく、しかも吉野ヶ里遺跡は紀元200年どころか、もっと古い時代の遺跡であることは、九州説を主張する学者たちもほぼ全員が認めている。

大和、北九州、山陰、吉備、北陸、尾張、楽浪郡、任那といった全国から炊飯土器が纏向遺跡に集まっており、しかも大和以外の炊飯土器が3割を超えていること。使用している土も土器の産地のものであること。しかも大和の土を使って自分の愛用炊飯土器を作っていた。今でいうなら、東京や大阪で出身地がどこかインタビューして、これくらい高い打率がやっと得られるだろう。

鋤、鍬といった農具が、纏向遺跡からほとんど出土しないこと。ということは、農耕以外の目的で全国から纏向へ集まっていた都市機能を備えていたということになる。

近畿のフイゴ土器はちくわ型、北九州のフイゴ土器はかまぼこ型。纏向から北九州のちくわ型フイゴ土器がいっぱい出土しており、北九州から技術者が纏向に来ていた。よって北九州は纏向にへりくだっていたということ。敵であれば、こんな重要機密情報を敵国に流すはずはない。

染料に用いたベニバナ花粉、薬用に用いたミント花粉がみつかっており、いずれも外来種の超高級な品だ。こんな高級なものは皇族レベルしか持てないはずだ。よって卑弥呼クラスの幹部が纏向遺跡にいたという傍証になる。

北九州には朝鮮式土器がたくさん出土するが、これくらい高級なものは出土していない。もし九州に邪馬台国があったとするなら、洋食器破片がたくさん出土している長崎の出島が江戸時代の首都だということになる。

九州説の学者が、王宮には鴻臚館のような外交施設がないではないかと。しかしそんなものは必要がない。王宮だけを転々と移動するだけで、物部氏、葛城氏、大伴氏といった周囲の豪族が主従関係を守って助けていくだけで首都機能が十分果たせていたからだ。

卑弥呼は紀元200年ころ女王に即位して、247年に死んだ。よって47年間も統治が続いていた。

ここでフロアから鋭い質問が。

吉備発祥の前方後円墳が、纏向から全国に波及したのはわかる。ではなぜ敵の狗奴国とみられる尾張の前方後方墳が一基、纏向遺跡に存在しているのか?

答えは、外交使節のものではないか。戦争中であっても交渉はなされるのであるとのこと。

ここから私の考え。

正直、卑弥呼にはまったく興味がない。なるほど卑弥呼は纏向遺跡にいたと思う。そして纏向遺跡を主人として、全国の豪族たちと主従関係が結ばれたのだろう。しかし、そんなのはオベンチャラであって、いつでも反逆、反乱の機会をうかがい続けていたであろう。

私の興味は、倭の五王はどこにいたのかということだ。なんでこんな奈良の山奥にいて、任那が攻められたり、百済や新羅を攻めたりしているのに、軍船や兵隊を朝鮮半島に頻回に送り出せるのだろうか?情報が間に合わないのではないか。大事な兵隊さんを沈没させて死なせたらあかんわな。沈没しない軍船を近畿政権が作れたのか?

大宰府を近畿政権の出先機関とするほど、近畿政権はそんなに強かったのか?鉄器もまともに持っていないのに。実際、戦っている現役軍人の数は北九州や任那に圧倒的に住んでいたはずだ。実際に大王の寝首をかいた蘇我氏もそのひとつ。

中国はまさに三国時代。下剋上は当たり前だし、中国人もいっぱい邪馬台国や倭国に渡来してきていたはずだ。オベンチャラを使って大王の寝首をかくことくらい朝飯前だったにちがいない。

南京大虐殺だの従軍慰安婦だの平気で妄想を世界中にばらまくことができる中国人が書いた魏志倭人伝なんて、そもそも信じられない。距離がなんぼとか南へ行ったとか、ほんまかいな。

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2014年10月18日 (土)

いざ、西宮へ

松田、いいピッチャー出てきたね。

投球フォームはヤクルトの五十嵐に似てるな。

甲子園球場の近くまで出陣。

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六甲颪に颯爽と

クリニック、ナウ(^^)

優勝前祝に六甲おろしを一回歌いました。

https://www.youtube.com/watch?v=um-BH7hPp4w

ビールがうまいぞ

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2014年10月17日 (金)

阪神タイガース王手

今日は、にっくきジャイアンツを最高の形で追い込むことができました。明日も勝って、日本シリーズは甲子園球場で。

セリーグ優勝するより痛快、痛快、いや実に痛快。

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法隆寺を訪ねて

昨日は午前診を終え、車で20分かけて、法隆寺に行ってきました。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

夢違観音が東北から帰還して、代わりに江戸に玉虫厨子が出張していました。救世観音は来週から御開帳で、今回は見られず。

下あごが小さなのっぽの百済観音、口まわりのヒゲが目立つ救世観音より、丸顔の夢違観音が一番好きだなあ。

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興福寺南円堂を訪ねて

今日は、不空羂索観世音菩薩の開扉ということで、午前診と午後診の合間に、興福寺まで行ってきました。

12時30分くらいに着いて、のんびり見ていたのですが、観音さんの真正面に立ったところで、祈祷があるから出て行ってくれとのこと。ギリギリ、顔が拝めました。

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2014年10月10日 (金)

倭国関連年表

121年 倭国の神武、委奴国を東征。橿原宮を設置。

189年 董卓の献帝保護

192年 呂布、董卓を殺害

196年 曹操の献帝保護

198年 下邳の戦い 曹操、呂布を撃破

200年 官渡の戦い 曹操、袁紹を撃破

208年 赤壁の戦い 孫権・周瑜、曹操を撃破

211年 潼関の戦い 曹操、馬超を撃破

214年 劉備、西蜀を劉璋から奪取

216年 曹操、魏王に即位

220年 魏の建国 曹丕、献帝を廃する。

221年 蜀の建国

222年 夷陵の戦い 呉の陸遜、劉備を撃破

228年 街亭・陳倉の戦い 曹叡、諸葛亮を撃破

229年 呉の建国

230年 呉の衛温と諸葛直が東鯷国へ亡命

     呉の様式の三角縁神獣鏡が近畿に普及しはじめる

234年 五丈原の戦い 諸葛亮、司馬懿を撃破

237年 孫権、高句麗とともに遼東親征

238年 遼隧(りょうすい)の戦い 司馬懿、公孫淵を撃破

     邪馬台国の卑弥呼、魏より金印「親魏倭王」を授かる

248年 卑弥呼、刑死

249年 司馬懿、曹爽を処刑

263年 蜀の滅亡 司馬昭、劉禅を破る

265年 晋の建国 司馬炎、曹奐を廃する 

266年 東鯷国の台代、晋に朝貢

280年 呉の滅亡 司馬炎、孫皓を破る

290~306年 八王の乱

司馬炎の母が楊氏、妻が賈氏。司馬炎が死んで司馬恵が即位すると、賈后(かごう)が楊駿を殺害。司馬氏の3人の王が巻き添えを食らって刑死。

司馬倫が賈后を殺して司馬恵を廃して即位。司馬冏(けい)がこれを不服とし、司馬乂(がい)・司馬頴(えい)・司馬顒(ぎょう)に命じて司馬倫を殺し、司馬恵を復位させる。

司馬冏の専横を不服とし、司馬乂が司馬冏を殺害。司馬乂の専横を不服とし、司馬頴が司馬乂を殺害。司馬頴の専横を不服として、司馬越が恵帝をかついで、司馬頴を殺害。さらに司馬顒と恵帝を殺害。帝の有力候補だった司馬覃(たん)をも殺害。これで司馬氏ほぼ全滅。

296~299年 氐の斉万年の乱

301年 漢の張軌、前涼を建国。漢族から成り、晋(西晋)と親しい。

303年 張昌・石冰(ひょう)の乱 流民を護送した氐の李特が晋軍に討たれる。

304年 李特の子・李雄、成漢(後蜀)を建国。漢族から成り、晋と親しい。

304年 匈奴の劉淵(えん)、司馬頴の支配を逃れ、前趙を建国。劉禅の後裔を自負し、漢と命名。漢人の奴隷と化していた匈奴が、劉淵の人格を慕って集まる。

305~307年 石冰を討った陳敏が晋に寝返り反乱を起こす。

309年 前趙の劉淵、洛陽を攻撃

310年 前趙の劉聡、洛陽を攻撃

311~316年 永嘉の乱

前趙の将軍・石勒(せきろく)が、司馬越を破り殺害。AKB48ならぬ司馬王48人衆はこれで全員殺された。劉聡、洛陽と長安を攻撃。晋の懐帝を都・平陽に拉致した。

314年 江南貴族は呉の時代から健在で、江南への流民が貴族の権力を強大にしていた。華北の王氏、江南下級貴族の周氏・沈氏を弾圧。

*江南上級貴族:朱、張、顧、陸、虞、魏、孔、賀

317年 司馬睿(えい)、東晋の建国。江南貴族は呉の時代から健在で、江南に逃亡してきた華北貴族は皇帝・司馬氏を利用して、江南貴族上層部のサロンを支配した。

319年 羯の石勒、前趙から独立して後趙を建国。仏図澄が仏教を布教。

322~324年 王敦の乱 皇帝外戚の庾(ゆ)氏による王氏弾圧。

327~329年 蘇峻の乱

*東晋の実権:王導→陶侃(かん)→庾亮→庾翼→桓温→謝安

328~329年 石勒の後趙が、劉曜の前趙を滅ぼす。漢人士大夫を重用し、胡人への差別を厳禁した。

337年 鮮卑の慕容皝(ぼようこう)、前燕を建国

339年 前燕の慕容皝、高句麗を服属させる。

346年 百済の建国

349年 石虎の後趙、色事に溺れて、鮮卑人の追撃によって滅亡。

351年 氐の符健、前秦を建国

356年 新羅の建国

357年 前秦の符堅宰相・王猛とともに徳治主義政策、重農主義政策を敷く。仁徳天皇や聖徳太子のお手本となる。

民は撫に応じ、夷狄は和に応じる。天下を合わせて一家とするには、同じく赤子とみなすべきである。」

369年 任那の設置

369年 東晋の桓温(こうおん)、前燕に敗北

370年 前秦の符堅、前燕を滅ぼす

376年 前秦の符堅、華北統一。道安が仏教を布教。

383年 淝水の戦い 前秦の符堅が北府軍・謝玄と西府軍・恒沖に敗北。

384年 鮮卑の慕容垂、後燕を建国

385年 後燕と高句麗の戦いが激化

386年 姜の姚萇(ようちょう)、符堅を殺害して後秦を建国

386年 鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)、北魏を建国

391年 広開土王の碑

396年 東鯷国の神功皇后が倭国を滅ぼす(征西)

高句麗の広開土王が、百済・倭国連合軍を破る。

398年 北魏の道武帝、遊牧民に定住を強制

399年 百済・倭国連合軍が新羅を破る

400年 高句麗の広開土王、百済・倭国連合軍を破り、新羅を救う。

400年 後燕、高句麗を襲撃

401年 後秦の姚興鳩摩羅什を迎え入れ、仏教を布教

399~411年 孫恩・廬循の乱

403年 恒玄、東晋を滅ぼし楚を建国。半年後、劉裕によって殺害。

404~405年 倭国、高句麗の広開土王に敗北

413年 倭讃、東晋に朝貢

420年 劉裕、宋を建国。高句麗王、百済王が宋から任官。

421年 倭讃、宋から任官。

425年 倭讃、宋に朝貢

430年 倭讃、宋に朝貢

438年 倭珍、宋に朝貢

439年 北魏の太武帝、華北統一。羽林兵と呼ばれる最強の近衛兵を中央に設置。征服地に鎮(ちん)と戌(じゅう)を設置。安定的に従属できた時点で、州と郡に昇格した。

443年 倭斉、宋に朝貢

451年 倭斉、宋より安東大将軍に任官。

453年 宋の文帝、暗殺される。劉駿が即位して、孝武帝(453~464)となる。

恩倖(おんこう)と呼ばれる、皇帝におべっかを使う低身分層が出現。恩倖による商業活動がさかんになり、貨幣不足に陥った。五銖銭を悪鋳して商業が混乱したため、465年緊縮財政に切り替え、悪貨を駆逐しようとした。しかし庶民は悪貨をつかまされ重税に苦しみ、皇族・官僚・恩倖・御用商人が良貨の所有者となり、貧富差が拡大した。

460年 倭興、宋に朝貢

462年 倭興、宋より安東将軍に任官。

475年 高句麗が百済を破り、百済が漢城→熊津に遷都。

478年 倭武、宋より安東大将軍に任官

479年 䔥(しょう)道成、劉氏一族を殺し、斉を建国。

479年 倭武、斉より鎮東大将軍に任官

493年 斉の武帝が死んで、䔥氏一族の殺し合い開始。

502年 䔥衍(しょうえん)が梁を建国。梁の武帝(502~549)となる。身分にかかわらず、有能な人物を登用した。

502年 倭薈(いわい)=筑紫君磐井、梁より征東大将軍に任官

505年 国立大学の五館を設立し、身分にかかわらず優秀な人材を教育した。武帝の子・昭明太子・䔥統が「文選」を編纂した

梁の武帝、倭の倭薈のとき、仏教が最高潮に繁栄し、寺院が首都・建康と首都・大宰府にたくさん建造された。倭薈が阿弥陀仏信仰を創始した

建康の同泰寺(どうたいじ)、長干寺(ちょうかんじ)、瓦官寺(がかんじ)、冶城寺(やじょうじ)、光宅寺(こうたくじ)が有名。

大宰府の観世音寺、小倉山大仏殿の小倉寺、隠国の初瀬寺がとくに有名。

507年 越の男大迹王(おおどおう)、東鯷国の継体大王に就任

523年 梁の武帝、銅銭から鉄銭に切り替え、貨幣不足を解消鉄銭の偽造により失敗。農民は逃亡し、軍人となり給料を得た軍隊の横暴がさらに農民を流亡させた

527年 倭の倭薈、継体大王により殺害

534年 北魏が、高歓の東魏、宇文泰の西魏に分裂

543年 西魏の宇文泰、府兵制を敷いて軍国主義国家に編成。

544年 東魏の漢人文官貴族が、鮮卑の成り上がり武人貴族(勲貴と呼ばれた新興貴族)を弾圧。

548年 候景の乱。東魏から梁に亡命した候景が建康を陥落。武帝が悶死する。

550年 候景が漢王に即位

550年 高洋が東魏を滅ぼして北斉を建国。鮮卑人の勲貴、漢人の文官貴族、西域商人の恩倖という三つ巴の政権抗争が続く。

551年 簡文帝を殺して、候景が漢帝に即位

552年 䔥繹(しょうえき)が候景を殺して、梁の元帝に復位

554年 西魏が江陵を攻略し貴族市民を拉致。

555年 䔥詧(しょうさつ)が江陵に後梁を建国

556年 宇文泰、六官の制を敷いて、死去。権力は宇文護へ。

557年 陳覇先、建康を攻略し陳を建国

557年 宇文護、西魏を滅ぼして北周を建国

562年 宇文邕(うぶんよう)、宇文護を殺して、北周の武帝となり親政を敷いた。

562年 新羅、任那を滅ぼす

564年 陳蒨(ちんせん)=陳の文帝、軍閥を倒して江南を統一

573年 北斉の文林館アカデミーが内部政争に敗北し虐殺される。

573年 陳の宣帝、北斉を討つ

577年 北周が北斉を滅ぼし、華北統一

581年 北周外戚の楊堅、ライバル将軍・蔚遅迥(うつちけい)を殺し、宇文一族を皆殺し、隋を建国

587年 隋、後梁を滅ぼす

589年 隋、陳を滅ぼし、中華統一。

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2014年10月 9日 (木)

やあやあ我こそは伊東一門なり

土佐(高知)といえば、山内氏。日向といえば島津氏。しかしこれは間違っている。それぞれ、土着の古豪の存在があった。

土佐は長宗我部氏。とくれば、日向は伊東氏であった。

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伊東介堯(すけたか)の本陣が清武、島津久豊(ひさとよ)の本陣が高岡であった。親父の話では、昭和初期、清武川をはさんで、伊東一門のこどもたちと島津一門のこどもたちが石ころを投げ合って、合戦していたと聞いたことがある。

宮崎市大半は宇佐宮領であって、伊東氏が宇佐宮から不法奪取していた。大淀川河口の国富、一ヶ瀬川の佐土原は八条院領であったが、北条氏、足利尊氏、天龍寺領と移って行った。

後醍醐天皇による倒幕の一環として、島津貞久は大宰府の少弐氏や大友氏らとともに、赤橋英時を討ち鎮西探題を制圧した。その戦功として、日向国守護職を授かったが、のち時流に遅れ、尊氏派に寝返るのが遅かったため、大友氏に改替された。

南北朝時代に突入すると、まずは後醍醐天皇から尊氏追討令が発布された。それを受けて、伊東祐広(すけひろ)は肝付兼重らとともには尊氏の所領奪取を狙ったが、延岡・高鍋の国人だった土持宣栄(つちもちのぶよし)が阻止。

尊氏が筑前多々良浜の戦いに勝利すると、形勢逆転。畠山直顕(ただあき)を派遣して、伊東祐広を降伏させ所領回復を果たした。さらに伊東祐為と土持左衛門太郎を服従させ、肝付兼重を討った。

観応の擾乱が起き、高師直によって足利直義が失脚。子・直冬が少弐頼尚を頼って肥後・川尻に逃走し、味方を募ったため、九州は尊氏方、直義・直冬方、南朝方の三つ巴となった。日向の畠山直顕も直冬方に与することとなった。

北条高時の遺児・時行が挙兵し鎌倉を奪取した際、伊東本宗家だった伊東祐持は北条方に与した。尊氏が鎌倉を奪回すると伊東祐持が降伏。尊氏が京都に帰る途中で、後醍醐天皇に反旗を翻した。尊氏が京都を制圧した際、戦功が認められ、伊東祐持の子・氏祐が足利直冬と行動を一にし、備後国鞆→(観応の擾乱にて)日向に下向。

尊氏派 → 伊東祐持、島津貞久(薩摩・大隅)、一色範氏(九州探題)

直義・直冬派 → 伊東氏祐、畠山直顕(日向)

南朝派 → 伊東祐広、菊池武光・懐良親王(肥後)

菊池武光と懐良新王は駆逐の勢いで、鎮西管領・一色範氏を撃破。新たに今川了俊が九州探題に抜擢され、菊池武光・懐良親王を撃破。

尊氏の子・足利義詮(よしあきら)は、島津貞久を派遣して、畠山直顕を討伐命令を下した。しかし薩摩大隅統一に忙しい貞久は、島津資久(樺山資久)に一任したが、うまくいかず。貞久の子・島津氏久、菊池武光の挟撃にあい、畠山直顕は敗北、京へと逃れた。

今川了俊が少弐資久を謀殺したことが発端となり、少弐氏と友好関係にあった島津氏久と今川了俊が反目対峙することとなった。伊東氏は今川氏と与して、島津氏と戦闘を繰り広げることとなった。

時がたち、今川了俊が退去するに乗じて、氏久の子・島津元久が日向侵攻開始。伊東氏の活躍で清武城陥落に失敗し、一時和議。次に、加江田城、穆佐(むかさ)城陥落に成功し、島津氏が大淀川南方を奪取した。

ここから伊東氏の調略によって、島津氏の分裂を謀ることになる。

元久の弟・島津久豊に、伊東本宗家の娘を嫁がせる。元久の死後、久豊が葬式中に家督を強奪する。そのすきを見て、伊東氏が決起。獲られた城を次々と取り返していき、伊東介堯(すけたか)のときに、日向統一を達成した。

そののち、伊東氏にコントロールされた大隅半島系・島津氏と、伊集院氏にコントロールされた薩摩半島系・島津氏が内紛を繰り広げていき、凶暴なる島津氏の懐柔に成功した。

薩摩は内紛によって、示現流の刀が研ぎ澄まされていくこととなる。

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皆既月食をみて

昨夜は診療を18時に終え、駐車場で1時間以上、月食を見ました。

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赤黒くなっているだけで完全に光は遮断されないんだな。

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月冠食っていうのかな、光が差し始める一瞬がきれいだった。

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2014年10月 8日 (水)

旧制七高、一矢報いたり

日本人2人、アメリカ人1人がノーベル物理学賞を受賞されました。おめでとうございます。

なかでも赤崎勇先生は戦後の旧制高校で3年間フルに学ばれた貴重な存在と言えましょう。終戦後の貧しい時代ゆえ、本来なら旧制三高や一高に進学されるべき秀才だったと推察いたします。

昭和21年の旧制高校の入学率は、いまの宝塚歌劇を超える超難関でした。昭和20年入学の1年生が武器工場に駆り出されて、半分以上が留年してしまい、新たに新入生を受け入れるべきところが、半分以下の狭き門となりましたね。おまけにゾル(復員兵)や海兵・陸士の生徒が大量に受験しましたし。

多浪受験生をかきわけて4修で入学し、酒やストームをかきわけて3年ストレートで卒業され、しかも白線浪人をかきわけて現役で京都大学に進学(×入学)されたわけです。

いまの日本はGHQに破壊され、教育荒廃は底知らずです。いまこそ旧制高校教育の真髄をご教授いただければ幸いと存じます。

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2014年10月 4日 (土)

下坂守先生「近江の城と信長」をみて

たまたま見たケーブルテレビでおもしろい番組をやっており、見入ってしまいました。

琵琶湖東岸には、北から次の城が並んでいました。戦国初期の武家屋敷は瓦葺などではなく、藁ぶき屋根の質素なつくりでした。

小谷城 

横田城

佐和山城

安土城

観音寺城

浅井・朝倉氏が小谷城と佐和山城をおさえており、信長の横田城があいだに囲まれていました。信長は浅井長政の裏切りにあい、姉川の戦いで、小谷、佐和山を平定します。琵琶湖西岸に避難した浅井・朝倉軍は、浄土真宗信徒、比叡山僧兵を率い、水軍を編成して、琵琶湖西岸の坂本から佐和山に攻め込みました。

小谷城に丹羽長秀、佐和山城に豊臣秀吉を配置。

信長は憎き比叡山を滅ぼすべく、坂本に布陣する浅井・朝倉氏を深追いしすぎました。まわりを敵に囲まれた信長は、和議を提案。「ワシが悪かった。天下は朝倉に譲るから許してくれ。」と謝る始末。

冬が近く兵糧が絶たれることを恐れた朝倉氏が、なんと和議を飲んでしまいます。このとき、一気に信長をたたいておけば、浅井・朝倉氏の天下になっていたものを。

ぐずぐすしているまに、丹羽、秀吉援軍が到着。比叡山焼き討ちと相成りました。

佐和山城の一部を琵琶湖湖畔に突き出させて、水軍を停泊させ、丹羽長秀を住まわせました。次いで、坂本城を改築して、琵琶湖湖面に突き出させて、佐和山ー坂本ラインを築きます。坂本城には腹心・明智光秀を配置。

もともと安土城には伊庭(いば)氏が居城を構えており、規模は小さいながら水軍を有していたそうです。安土城を居城とする伊庭氏は水軍、観音寺城を居城とする佐々木六角氏は陸軍を得意として、対峙していました。信長は伊庭氏から安土城を奪取して、改築し、自らの居城としました。

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2014年10月 2日 (木)

経済政策には三段階がある

(1)安定政策

貨幣の価値を高めるデフレは百害あって一利なし。努力が報われないばかりか、努力によって自分で自分の首を絞めるのがデフレ。日銀による金融緩和によって、マイルドインフレを維持する。

(2)成長政策

政府が民間企業にいちいち干渉してもうまくいかない。一部の幹部が既得権益を独占する統制経済は言語道断だ。机上の空論をかかげ夢見る官僚は一歩引き下がり、現場事情に詳しい民間の自由主義経済に任せる。

ただし例外があって、軍事防衛分野とエネルギー分野と医療分野は、政府が統括管理するほうがよい。

(3)再分配政策

経済競争に負けた側の企業を援助する。マクロ経済には外部性がない。失業者の面倒を国民がみなければならないわけで、失業者援助のために再分配政策を行う必要がある。

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