筑紫君磐井で知られる倭薈(ゐわい)が、阿弥陀信仰を広め、善政を施して、民衆から慕われていたそうだ。いまは岩戸山古墳で眠っているとされている。
北斉の道綽(どうしゃく)、唐の善導(ぜんどう)も倭国に阿弥陀経の勉強に来ていた。655年に即位した則天武后も、阿弥陀仏を厚く信仰した。(唐は李氏から武氏へ易姓革命が起こった。)
663年、白村江の戦いで敗れた倭国は、唐に「清明上河図」を奪われた。清明上河図には、大宰府の地で栄華を誇った倭国の都の様子が事細かに描かれており、難波津(いまの博多)、近江の海(いまの福岡市街)、石山寺(いまの三宅廃寺)、賀茂川(いまの御笠川)、石造アーチ橋の長柄橋、倭京(いまの大宰府都城)まで描かれ、原本を保管している中国や台湾は一切門外不出にしている。日本の真似をしたとなったら、メンツ丸つぶれですからね。
東大寺大仏は大分県宇佐の小倉山に建っていた東大寺から奈良平城京に移したものであって、もともとは阿弥陀仏であった。奈良時代には、大仏の両脇に、観音菩薩半跏坐像と勢至菩薩半跏坐像が建てられ、阿弥陀三尊を成していた。大仏開眼のとき、宇佐神宮から神輿が担がれてきたのもそういった事情が裏にあった。
東大寺=金光明四天王護国之寺
阿弥陀大仏=倭薈がモデル
観音菩薩=神功皇后(母)がモデル
勢至菩薩=仲姫(なかつひめ・妃)がモデル
500年 倭武を父、神功皇后を母に持つ倭薈が生まれる。
501年 倭武 死。神功皇后が倭王となる。
509年 倭薈(磐井・応神・奈良帝)が即位。
514年 吉野ヶ里近くの奈良京に遷都。
517年 長谷観音菩薩立像を建立。神功皇后がモデル。
522年 倭薈の弟・嵯峨帝に譲位。梁から渡来した司馬達等に奈良京近く、豊山に遮那道場を作らせ、自ら出家修行にはげんだ。
523年 都を大宰府に戻す。
531年 百済帰化人・継体大王により倭薈が小倉山で殺される。(磐井の乱)
物部麁鹿火(もののべのあらかい)は継体軍に、物部荒山(もののべのあらやま)は磐井軍に味方した。
533年 延喜帝が継体大王を破り、即位。磐井の乱で死んだ倭国の民兵を弔うため、千体千手観音立像がつくられ、のちに三十三間堂に移された。
535年 小倉山東大寺大仏殿を建立。
541年 世界で初めて奴隷解放。
554年 天慶帝が即位。
570年 小倉山東大寺が落慶法要。
573年 天暦帝が即位。
591年 法興帝=上宮王=桐壺帝=聖徳太子=多利思北孤が即位。
596年 扶桑国・蘇我馬子が飛鳥寺を建立。
600年 倭国・上宮王が遣隋使を派遣。
601年 陸奥国の厨子王拉致事件をきっかけに、倭国を改め、日本国と改名。
603年 冠位十二階制定。
604年 憲法七条を制定。(十七条ではない)
607年 観世音寺を建立。
618年 日本国を倭国に戻し、観世音寺落成式。釈迦像(いまの法隆寺・薬師如来坐像)を中心に、脇侍として、上宮王をモデルとした救世観音立像と、百済から帰化した千食王后=藤壺をモデルとした百済観音立像がつくられた。
622年 上宮王が死に、朱雀帝が即位。
623年 上宮王をモデルとした釈迦三尊像がつくられる。
629年 冷泉帝=光源氏が即位。
631年 遣唐使を派遣。
632年 唐の使節・高表仁が冊封関係を迫り、倭国の太政大臣、式部卿、禅正尹の為尊(ためたか)親王を殺害した。
645年 扶桑国の孝徳天皇が大化改新。新羅と友好関係を結ぶ。
653年 光源氏が死に、今上帝=中皇命が即位。扶桑国ははじめて遣唐使を送るが、船が沈んで失敗。
654年 扶桑国が遣唐使を派遣。
655年 則天武后が唐で易姓革命。周を新たに建国。
659年 扶桑国が遣唐使を派遣。
663年 白村江の戦いで、倭国・百済連合軍が新羅・唐連合軍に敗れる。
664年5月~672年5月 唐の郭務悰(かくむそう)が倭国に進駐し、徹底的に大宰府を破壊し、略奪した。
665年 扶桑国が遣唐使を派遣。
672年 扶桑国・天武天皇が壬申の乱で勝つ。倭国のシンボルだった阿弥陀仏を除き、博多・大宰府・倭国の文化遺産をすべて奈良に移した。阿弥陀信仰をかたく禁じた。
万葉集には、400年~600年くらいの倭国の和歌が数多く含まれており、柿本人麻呂は500年くらいに生きた実在人物で、和泉式部、紫式部、清少納言、紀貫之といった「ひらがな」文学の金字塔作家たちは600年くらいに生きた実在人物であった。在原業平もこのころの実在人物であり、「大和物語」「伊勢物語」「住吉物語」「竹取物語」といった文学も、北九州の倭国に起こった出来事を題材に書かれていた。
奈良東大寺・2月堂のお水取りで、鬼が火を持って現れるシーンは、継体=鬼が、大仏=筑紫君磐井=倭薈を殺した事件を描いたものだとされる。
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