吉川敏子教授「大化の改新の前と後」
大化の改新で改新の詔ができて、評制から郡制に変わったという記述は誤りとされています。いったい何が変わったのか?
○ そもそも、なぜ皇極天皇が即位していたのか?
この当時は30歳になるまで即位できなかったから。
○ 聖徳太子はなぜ即位できなかったのか?
推古天皇が予想外に70歳すぎまで長生きしてしまったから。
蘇我氏の法提郎媛と舒明天皇のあいだの、古人大兄皇子が皇極天皇の第一番目の後継者だった。中大兄皇子は、舒明・皇極のあいだの血筋のいい子供だったので、蘇我氏に命を狙われる存在だった。
645年、乙巳の変。蘇我入鹿が中臣鎌足と中大兄皇子によって暗殺される。皇極天皇は史上初の譲位を決行。中大兄皇子は20歳ゆえに即位できず、聖徳太子になりたかったのではないか。皇極天皇の弟、軽皇子が即位して、孝徳天皇となった。国博士として、僧の旻と高向玄理を登用。
646年、改新の詔。701年の大宝令と酷似。施政方針演説だった。
(1)部民制廃止と官人給与制 → 公地公民制と官僚制へ
○ 氏姓制 氏名により区別される集団を姓により秩序付ける制度。
中臣=氏名 連=姓 鎌足=個人名
○ 朝廷の職務分掌の体制
大王
王族 オシサカ宮
中央豪族 大伴連(むらじ) 刑部造
地方豪族 大伴直(あたい) 刑部直 国造
部 大伴部(べ) 刑部
氏のコンツェルンで分けられ、さらに姓(かばね)で階層に分けられる。
豪族の宅が行政の場となり、朝廷での政治と並行。律令制下の行政の場とは異なる。
○ 部民制 諸豪族による「カキ」の領有を前提とする、王権への従属・奉仕の体制。
「べ」(部) 王権への従属・奉仕の側面をみたもの。
「カキ」(民) 諸豪族の従属・奉仕の側面をみたもの。
大王が大伴氏に宮殿づくりを命じたとすると、大伴連は大伴直に、大伴直は大伴部に、材木収集や人夫狩り出しを命令する。大伴部は大王のために働いているから、大王の「べ」として働いている。
大伴連は自分の邸宅を立てるように命令したとすると、大伴部は大伴連のために働いているのだから、豪族の「カキ」として働いている。
「べ」と「カキ」は同一実体の上に重なり合って用いられる概念であり、総称して、「部曲(かきべ)」と呼ぶ。
部民制を廃止して、豪族を中央で官僚として雇ってしまった。豪族は部曲を所有できなくなった。675年、天武天皇の時、部民制が全廃された。
(2)行政区画制定
全国に評を制定。地方豪族をそのまま登用した。
(3)戸籍(6年に1回)・計帳(毎年納税台帳)・班田収授
全国的な造籍は、670年庚午年籍。
(4)新たな税制
租・庸・調
○ 大化の改新の前
氏姓制・部民制。氏族ごとの職務分掌。大王と豪族との人格的隷属関係により成立。人民支配を各豪族に委ねる。国家による個別人身支配ではない。直接領有民から収奪。こどもの大王では豪族を隷属させることができない。
○ 大化の改新の後
官僚制・公民制。官司機構による分業。位階秩序に基づく官僚制。全国的戸籍による個別人身支配。国家からの給与支給。
○ 大化の改新断行の動機
国際的契機・東アジアの動乱
朝鮮半島への唐の外圧と三国の対立。
642年 高句麗で泉蓋蘇文のクーデター。百済が新羅の40城を奪取。
643年 新羅が唐を頼る。
644年 唐の高句麗征討開始。
富国強兵の必要 → 大王中心の中央集権国家構築。
人格的隷属関係に基づく豪族への分権。必要に応じて物資や兵士を供出させる。 → 民を直接把握して、課税・徴兵。
最近のコメント