奈良から、能登輪島まで、北陸自動車道、のと里山海道を中心に、往復およそ1000キロ、マイカーで行ってきました。
まずは、敦賀の気比神宮(けひじんぐう)に行きました。気比=吉備と関係が深い海の神様です。主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)、またの名を御食津大神(みけつのおおかみ)です。



次は、継体天皇像が見たくて、福井市の足羽神社に行きました。「あしはね」「あしは」なんて読みがちですが、正しくは「あすわ」とよみます。まずは、足羽山を拠点とし、越前平野を流れる九頭竜川の治水工事に成功し、大和朝廷と筑紫君磐井を討伐した継体天皇を参拝しました。


階段をのぼって丘をのぼれば、継体天皇が立っていました。越前開闢之祖神(えちぜんかいびゃくのおやがみ)が正式の贈り名。うーん、どうみても日本人の顔ではないような気がする。継体天皇は、近江高島の三尾氏を父とし、越前坂井(=高向)の三国氏を母としました。継体は、父と若くして離別し、母の故郷である越前高向で過ごすことになります。
河内馬飼(かわちのうまかい)氏の導きで、淀川の樟葉宮(くずはのみや)に遷都し、畿内政権と河内湖・瀬戸内海を分断できる交通要所を制圧しました。
息長(おきなが)氏の導きで、木津川の筒城宮(つつきのみや)に遷都しました。
巨勢(こせ)氏と尾張(おわり)氏の導きで、桂川の弟国宮(おとくにのみや)に遷都しました。
葛城(かつらぎ)氏や、奈良北部の名もない多くの豪族の反対で、継体天皇はなかなか大和入りできませんでしたが、いよいよ磐井の乱をひかえ淀川水系の都が危機にさらされることになったころ、阿倍(あべ)氏の導きで、20年後ようやく大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に遷都しました。
伽耶・安羅国を故郷とする男大迹(おおど)は、仏教布教をよしとせず、古来よりの伝統である前方後円墳を広め、巫女に鈴鏡を腰につけさせ、古神道を広めました。
大和朝廷の仁賢天皇の血筋を引く手白香皇女(たしらかひめみこ)の子供、欽明天皇を蘇我氏が支持し、皇族の血筋でない母を持つ安閑(あんかん)天皇・宣化(せんげ)天皇を大伴氏が支持し、蘇我氏をバックに、欽明天皇はクーデターにより、継体・安閑・宣化以下の皇子を暗殺しました。

同じ敷地内の自然史博物館屋上から見た越前平野です。同じ景色を継体天皇も見ていたはずです。継体天皇は三尾氏、三国氏という豪族の支持を受け、このあたりに勢力を張っていました。

次は、三国市の東尋坊に行ってきました。福井大学や藤島中学、遠くに東尋坊タワーがみえます。猛暑でばてました。



東尋坊タワーにエレベーター14階であがりました。入場ひとり700円。冷房がガンガンに効いており、ほてる肌を冷やしてくれました。

JR金沢駅前のホテル日航で一泊。四分一(しぶいち)で夕食をとりました。のどぐろの塩焼きがうまかったかな。

ホテル日航金沢は、地下駐車場にマイカーを駐車したまま、市内観光できるので助かりました。いちいち駐車場を探して留めていられないのと、ガソリンスタンドが駅前にありませんから。

早朝8時から12時まで、兼六園を堪能しました。六勝、つまり宏大(こうだい)、幽邃(ゆうすい)、人力(じんりょく)、蒼古(そうこ)、水泉(すいせん)、眺望(ちょうぼう)を兼ね備えた庭園という意味です。五代藩主・前田綱紀(つなのり)が創建しました。








お姫様たちのお屋敷、成巽閣(せいそんかく)に入場しました。




日本武尊の像です。

鶺鴒(せきれい)島です。


唐崎松(からさきのまつ)です。13代藩主・斉泰(なりやす)が琵琶湖畔の唐崎から種を持ち帰り植え育てた松だそうで、見事な枝ぶりです。

根上松(ねあがりまつ)です。雨の浸食で、根がむき出しになっても生き続ける松です。

置物ではありません。本物の生きたシラサギが憩っています。

霞が池と蓬莱(ほうらい)島です。


午後から、ひがし茶屋街にタクシー移動。むかしの遊郭、娼婦街、赤線地帯のことです。





いよいよ、今年無料化した、のと里山海道を通って、能登七尾市の加賀屋にマイカー移動しました。


ナマコ卵巣をよく練って作った「くちこ」です。辛口地酒「加賀鳶」にあうアテでした。

農民が海藻の髪の毛と、木の鬼面をかぶって乱舞し、上杉謙信軍をビビらせて引き揚げさせた、御陣乗太鼓(ごじんじょだいこ)です。

松竹歌劇団OBから構成される加賀屋・雪月花(せつげつか)歌劇団のショーをみました。



翌日は輪島朝市に出かけました。のどぐろとクルミ入りせんべいを買いました。

のと里山海道の途中、千里浜ドライブウェイを突っ走ってきました。


北陸自動車道福井北ICを降りて、永平寺に行きました。原生林のようなぶっとい木の生えた森の中にお寺がありました。栄西の臨済宗のお坊さんたちは歴代、時代時代の政治支配者と積極的にかかわりましたが、曹洞宗の道元は山奥深く潜み、釈迦を唯一の鏡として修行にはげみました。


お寺の中は一周できますが、階段が多くて汗だくになりました。







奥方さんの御殿が残っていることはめずらしく、成巽閣(せいそんかく)について、もう少し詳しく書きとどめましょう。12代隆子が文久3年(1863年)に住み始めました。
12代 隆子(たかこ) 鷹司政煕(まさひろ)の娘。お公家さん!
13代 偕子(ともこ) 徳川家斉の21女。平和ボケの家斉!
14代 崇子(たかこ) 有馬頼徳の娘。久留米出身!
15代 朗子(さえこ) 鍋島直大の娘。佐賀出身!
障子の下の木枠を腰板と呼びます。その腰板に、カメとか鳥とかが彫ってあって、人形を抱いて嫁いできた幼女が、まるで図鑑として楽しめるようになっていました。極めつけはギヤマン(ガラス)が障子の真ん中に埋めてあって、障子を開けなくても中庭が見られるようになっていました。
青色染料ラビスラズリをふんだんに使った、色彩豊かな部屋であり、兼六園を訪れた際にはぜひ見るべきものだと思います。
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