大隈重信・加藤高明による、日英同盟を中心とする国際協調派
vs
山県有朋・桂太郎による、白人の「黄禍論」に対抗する黄色人種軍事同盟派
なんと大正天皇自ら天皇親政を宣言し、山県有朋に元老辞任を命じられ、大隈重信の国際協調路線を支持されておられました。
山県有朋の老害で、大正天皇のご意向が通らず、日本は軍国主義への泥沼へと突き進みました。それを待ち構えていたのが、ペリー時代弱かった海軍を増強し総力戦でかつてのインディアンやハワイやアメリカ連合国のように日本を歴史から殲滅しようとする「アメリカのオレンジ計画」でした。
そんな不利な状況でも、加藤高明は、アメリカに対日戦争の口実を与えず、オレンジ計画を一時頓挫させ、平和日本の延命を図り、元老亡き後の日本がイギリス流二大政党制をとっていられるように、与党・政友会を辞め、自ら野党に下野し、同志会を設立したのです。自由民権派のようなド素人集団ではない、ちゃんとした二大政党を。
尾張藩に生まれ、熱田神宮や伊勢の国学に造詣が深い家柄に生まれた加藤高明。名古屋洋学校(愛知英語学校の前身)、東京外国語学校、東京開成学校、東京帝国大学法学部と進学。親友は秋山正議、仙石貢、田中稲城、鈴木充美、末岡精一、嘉納治五郎、野村龍太郎。意志が強く、真面目几帳面で、普段は酒を飲まず無口だが、ひとたび口を開けば皮肉を連発し、「皮肉屋の加藤」と呼ばれていたようです。
帝大時代、自由民権運動と一線を画しながら、政治に参画。尾張藩主徳川家と関係を深め資金提供を受け、愛知社(サロン)、愛育社(奨学金)を設立。尾張の作家・坪内逍遥を世話しました。
当時の帝大は官僚養成学校としての性格が定まっておらず、要するに卒後の身分資格保証がまったくなく、弁護士、教員など卒後進路はさまざまだったそうです。岩崎弥太郎の熱烈な勧誘を受け、帝大首席卒業の加藤高明は三菱に入社。当時の三菱は国営・郵便蒸気船会社のみならず、パシフィック・メイル社など英米系の会社も併合しており、民間会社員ながら国家官僚並みの活躍舞台は整っていました。
イギリス留学中、ケンブリッジ大学で陸奥宗光と親しくなり、陸奥の通訳を務めました。ベンサム経済学、2大政党制(ディズレイリ・グラッドストン)を中心とするイギリス憲政史、議院内閣制(責任内閣制)、憲法とは上っ面の条文ではなく国体に基づいて作成すべきとするシュタインの憲法講義を学びました。アメリカ二大政党制に詳しい陸奥からアメリカ政党史をも学びました。
1887年、陸奥の勧誘で、大秀才・井上馨外務大臣を筆頭とする外務省に入省。不平等条約改正失敗問題で井上辞任後、大隈重信外務大臣と知り合います。
「お笑いの」初期議会
http://www.youtube.com/watch?v=o6kKXK6-ADY
1892年、第二次伊藤内閣
外務大臣 陸奥宗光
外務省次官 林薫
外務省政務局長 加藤高明
外務省通商局長 原敬
1895年 加藤高明が駐英公使に着任。駐英武官時代の親戚・広瀬武人中尉と親交。
1897年、恩人の陸奥が結核で死去。
1898年、チェンバレン殖民相と日英同盟の起案にとりかかりましたが、ロシア交渉に一途の望みをかけていた大隈重信首相兼外相、山県有朋内閣の青木周蔵外相がまったく取り合わず、加藤は駐英公使を罷免されました。青木周蔵は駐独大使を経験しており、山県有朋と同じ路線の考え方でした。
1900年、衆議院の予算先議権、拒否権が頻回行使され、収拾がつかなくなった国会運営をなんとか円滑にすべく、伊藤博文が政党政治の先駆け、立憲政友会を設立。第4次伊藤内閣の外相に加藤高明が就任。いよいよイギリス流二大政党政治、日露戦争軍資金のためのイギリス外債借款、日英同盟締結に動き出すことができました。
挙国一致の必要性に向けて、原敬逓信大臣は貴族院停止を提案しましたが、加藤高明が原理原則の遵守を訴えて猛反発。次の第1次桂太郎内閣で、加藤は外相留任を嘆願されましたが拒絶。加藤高明がすすめてきた親英外交は、小村寿太郎外務大臣に引き継がれることになりました。
ライバルの原敬が岩手盛岡から代議士として再出発したのに対し、日露開戦に反対だった加藤高明は代議士に落選したりで、東京日日新聞社に入社。「タイムズ」誌と同じくらい格調高い新聞を発行しようとしたが、売れず。原敬が勤めていた大阪毎日新聞社に吸収合併されました。
1905年、ポーツマス条約締結に不満を持つ国民の声で桂太郎内閣倒閣。西園寺公望内閣の外務大臣として加藤高明が招聘されました。ところが、アメリカを排斥して満洲経営に乗り出す寺内正毅陸軍大臣と児玉源太郎参謀本部と対立したため、辞任。加藤は関東軍を満洲から引き揚げさせて、代わりに民間人を送り込むことを主張していました。
1909年、英国に不人気の小村寿太郎外相の推薦により、英国に受けの良かった加藤が再び駐英大使に就任。形骸化しつつあった日英同盟の改訂に成功しました。おまけに不平等条約改正にも成功。アメリカに傾きつつあったイギリスの目を再び日本に向けさせました。
大正デモクラシーから生れた政党政治ですが、私はとってもここら辺の暗記が苦手でした。平安の藤原氏や鎌倉・室町の武士名を暗記するのも苦手。
いまの参議院の前身は貴族院で、国民選挙なしのフリーパス。拒否権を持つ衆議院を最初牛耳ったのは、山県有朋→桂太郎の長州軍閥。板垣退助の自由党、大隈重信の改進党が国民の声を国会にというわけでがんばったわけです。1898年板垣・大隈が共同して憲政党を設立。すぐ、政友会と同志会に分裂しました。
政友会は
伊藤博文→西園寺公望→原敬→高橋是清→田中義一
同志会は
桂太郎→加藤高明→浜口雄幸
板垣は、フランスかぶれの物知らず。自由民権運動はその賜物。大隈は、反米まではよかったものの、ええかっこしいの日米開戦未遂張本人。やりすぎ。どれもダメですなぁ。
原敬は、普通選挙法施行で有名だが、やったことがダメ。親米で、アメリカさんの反日計画「オレンジ計画」に気づかずダメー!高橋是清は、デフレ不況を世界で初めて脱し、実質的ノーベル経済賞を受賞してもおかしくなかった人物。三橋貴明氏の著書に詳しい。
オレンジ計画 http://www.youtube.com/watch?v=J-ztE89MhFk
マッキンレー米大統領のときの海軍次官セオドアルーズベルトが1897年策定。きたる1898年ハワイ併合の際、日本がハワイ人独立運動を支援すると予測し、前もって日本をたたいておこうとする計画。1894年露仏協商成立のため、ヨーロッパで孤立したドイツが独米同盟を画策しており、ドイツはオレンジ計画を支援した。
そこで注目されるのは加藤高明。治安維持法で特高(特別高等警察)を使い、国家転覆を図る共産主義者を刑務所送り(アカ狩り)したとかで、文部省発行のアカ教科書では犯罪人扱い。しかし、当たり前のことをしただけじゃないの。結局、大東亜戦争敗北の主因は、日英同盟破棄だ。アメリカ・オレンジ計画実行のスキを与えてしまったことにあったわけで(イギリスとアメリカは常に仲が悪いのです!)、親英の加藤高明は貴重な存在。後藤新平は中国にソ連コミンテルンが潜伏していることを察知し、スターリンに直談判。「ソ連とコミンテルンは関係ございませんと。」とあっさりあしらわれ、ジ・エンド。加藤高明は日英同盟維持に勉め、日本に潜伏しているソ連コミンテルン=日本共産党を摘発弾圧した先見の明はすごい。
ロシアを仮想敵国とする帝国陸軍
リーダーは長州閥。農民中心。多数より成る。ダサいが頭がいい。予算を増やしても人件費に消えるだけで、新興都市市民層から不人気。
アメリカを仮想敵国とする帝国海軍
リーダーは薩摩閥。士族中心。少数精鋭。カッコいいが頭が悪い。造船、港増設などインフラ整備が富を生んでくれるので、新興都市市民層から大人気。都市市民を支持層とする政友会がバックアップした。
フランス式戦術は、持久戦を想定し、補給を重視する。
ドイツ式戦術は、短期決戦を想定し、補給を重視しない。
山県有朋は明治18年、陸軍をフランス式からドイツ式に変更していた。
第一次世界大戦で持久戦が主流になっていたのに、山県有朋はドイツ式を押し通した。
福沢諭吉は「脱亜論」ですでに中国や朝鮮を見捨てていた。中国人はあてになるわけがないのに、イギリス軍の大砲の弾が自分の頭の上をかすめた瀕死体験ゆえに、嫌英の山県有朋は、伊藤博文、西園寺公望、加藤高明といった国際協調派を弾圧し、大正天皇から天皇主権を奪取し、元老主権(=国家権力の私物化)とし、子飼いの桂太郎や寺内正毅を首相に就けた。
しかし、寺内正毅は、補給戦の専門家だったこともあり、日清・日露戦争で勝つことができた。ところが、米騒動のようなしょうもないことで国民は寺内を辞任させてしまった。
山県と犬猿の仲だったはずの原敬は、権力志向ゆえに山県にすり寄っていった。
1925年、宇垣軍縮。宇垣一成(うがきかずなり)陸軍大臣は、陸軍4個師団と馬6000頭を解雇して、航空機・戦車・戦艦など、近代兵器を取り入れた。解雇された陸軍軍人は失業対策として、中学校や高等女学校に送られ、軍事訓練を施した。旧制高校生からは、「ゾル」と呼ばれ、忌み嫌われた。
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