古代史のまとめ
頭の中を整理してみたい。
地方分権で緩やかな連合体・邪馬台国は大宰府。つづく倭国も大宰府。中央集権で生き埋め・重税など民衆弾圧の激しかった狗奴国は大和。卑弥呼や台与は吉備出身で、大和に埴輪と前方後円墳をもたらした。吉備西半分を倭国が制圧し、吉備東半分を狗奴国が制圧した。
神武大王は、日向から大和に東征した。大和川水系に暮らしていた豪族連合体のヤマト政権は木津川・淀川水系をたどり、丹後を経由して百済・任那・伽耶・新羅と貿易した。
ヤマト政権の首長が佐紀に移り、佐紀政権が樹立された。山城の神功皇后を首長とする佐紀政権反主流派が太宰府の倭国と結んで、佐紀主流派を制圧した。応神大王が倭国から大和に東征した。応神大王は百済王子という説もある。応神天皇陵は吉備にある。
応神大王は、河内政権を築き、倭国の貿易ルートであった瀬戸内海を経由して、百済・任那・伽耶・新羅と貿易した。倭の五王は、倭を統一支配し、倭王・武は百済・伽耶・新羅も支配した。
越を支配していた佐紀政権反主流派、継体大王が大和征伐。河内政権を倒し、大宰府の倭王だった倭/委(い)・薈(わい)=磐井と戦争をして勝ったものの、豪族の支持を得られず、関門海峡で領土を二分した。継体に仕えた物部氏が大伴氏を警戒し、任那4郡割譲問題で大伴金村を失脚に追い込む。倭王・磐井は、手のひらと足の裏に刺青があり、観世音寺を建設し、阿弥陀仏信仰の拠点とした。のちに磐井の面影を残す仏像が法隆寺や東大寺大仏に移されることになる。白鳳時代の天武天皇は倭国の面影深い阿弥陀仏信仰を禁止したが、ひ孫の聖武天皇は、大宝律令による重税など無茶な中央集権政治が祟り、帰化人・行基らの勧めでやむにやまれずパンドラの箱をあけ、阿弥陀仏信仰を許可した。
任那滅亡後、畿内入りした任那王・蘇我氏が、倭王の許可のもと、物部氏を倒し、継体政権を滅ぼし、崇峻大王、敏達大王を暗殺した。残ったのは女帝・推古大王くらい。
倭王・上宮法皇が大宰府から遣隋使を派遣し、自ら隋と対等の天子を名乗り、煬帝を大いに怒らせた。太宰府に条里制を敷き、律令を発布し、天子だけが住める紫宸殿を築いた。貿易の拠点だった鴻臚館は大いに栄えた。
近江の新興豪族・息長氏にゆかりのある舒明、皇極を父母にもつ葛城皇子が、鹿島の中臣鎌足と組んで乙巳の変を起こし、蘇我氏本家を滅ぼした。
倭国・畿内政権連合軍が白村江の戦いで唐・新羅に敗北した。倭王・中大兄皇子が戦死。葛城皇子が中大兄皇子を名乗った。
倭王・大海人皇子が壬申の乱で大友皇子に勝ち、葛城皇子の直系とさかんに混血を繰り返し、正統性を強調した。
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