倭国への憧れ
たとひ日本滅ぶとも 倭は滅ばず
筑紫の磐井 |
日本が乱れるとき、どうしても倭国が思い出されるのはなぜか?
倭王・磐井が活躍した舞台、八女市には「自然酒」というおいしい倭酒がありますね。
吉備王国&倭の磐井王 連合軍 vs 大和朝廷&越の継体大王 連合軍
古くはスサノヲを奉じる出雲王国が、アマテラスを奉じる大和朝廷に加担しており、大きく日本は二分されていたのでしょう。
継体大王の子、欽明大王の代に、漢字が日本に初めて伝わったとされるが、そんなわけないでしょう。いや、大和には初めて伝わったのかもしれない。しかし、越は百済や加羅と交易をしていたし、倭も百済・新羅・加羅・高句麗・中国南朝と交易していました。漢字なくしてどうやって交易できるかと思いますし、自国の戸籍なくしてどうやって渡来人を管理できるでしょうか?倭王・武の立派な上表文はどうやって書けたのでしょうか?もっと昔から日本には漢字が伝来していたはずだと思います。
501年 筑紫・倭王に磐井が即位
502年 磐井が30か条から成る律令を制定
507年 大和に継体大王が即位
513年 筒城(つつき)の百済渡来人に支持された継体大王が上哆唎(おこしたり)、下哆唎(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の伽耶4国を百済に委譲。さらに百済は大伽耶から己汶(こもん)を奪う。
514年 伽耶諸国が筑紫に入貢
515年 継体大王が伽耶への派兵中止。代わって、磐井が伽耶へ出兵。
518年 筑紫の発展を恐れた継体大王が、伽耶撤兵を磐井に命令。
520年 百済が大伽耶に、新羅が金官伽耶(任那)に侵略。大和豪族に手を焼いていた継体大王はこれを放置。
524年 大和豪族が継体大王に降伏。
526年 継体大王が大和に遷都。新羅や伽耶諸国の入貢がとだえていた大和の復権を求めるため、筑紫征伐を決定。
527年 継体磐井戦争。物部麁鹿火(もののべのあらかい)が大和軍の指揮をとる。
528年 民の疲弊を鑑み、磐井退位をもって終戦となる。久留米の千歳川が最終戦場。
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