先週木曜は、午前診を終え、奈良桜井の談山(たんざん)神社に行ってきました。桜井駅から出ているバスの本数が超少ないのを見越して、八木駅を下車し、近鉄タクシーで馳せ参じました。
藤原鎌足の長男、定慧(じょうえ)は、孝徳天皇の胤と言われており、10歳のとき、遣唐使として唐の玄奘(げんじょう;三蔵法師)にまみえ、弟子・神泰(じんたい)に学びました。26年の留学生活ののち、帰国。
二男、不比等にたずねたところ、父・鎌足はすでに死んでおり、高槻の安威山(あいやま)に葬られていると聞き、ここ多武峰(とうのみね)の妙楽寺に手厚く葬りました。
十三重塔の下に、藤原鎌足の遺骸が埋まっているそうです。

講堂にたたずまう藤原鎌足の像です。この像の前で、最近はやりの古代史本が吹聴する、「鎌足は朝鮮人だ。」とか「渡来系帰化人だ。」とかいう戯言を言えますか?藤原鎌足は茨城県鹿島出身の正真正銘の日本人です。
乙巳の変の有名な絵巻です。中大兄皇子と藤原鎌足が、蘇我入鹿殺害を密談した場面です。談山(かたらいやま)神社の名前の由来です。
ここは定慧が建立した妙楽寺が源流であり、のちに多武峰寺(とうのみねじ)として発展を極め、興福寺と並ぶ広大な寺院群でした。興福寺はもともと京都・山科に鎌足が建立した山階寺(やましなでら)であって、奈良に移されて興福寺となりました。だから興福寺と多武峰寺は兄弟のようなものだったのですが、多武峰寺が比叡山・延暦寺の末寺になるや、興福寺と不仲になってしまい、僧兵同士が戦闘に明け暮れました。


夕暮れ時の多武峰です。いまは駐車場になっているこの場所も、たくさんの寺院で埋め尽くされていました。
室町・後南朝には楠葉西忍(くすばさいにん)が、多武峰寺の遣明船を用いて、勘合貿易をおこない、莫大な富を獲得しました。
ニニギの子孫である神武天皇が、ここ大和入りする前には、ニギハヤヒの子孫である物部氏が大和を支配していました。ニギハヤヒが天磐船(あまのいわふね)に乗って、大和にやってきたという磐座(いわくら)が、定慧のはるか昔からあり、崇拝されていたようです。その名残がここ多武峰寺、すなわち談山神社に残されています。古代も今も、清水がこんこんとわき出ています。
土曜には友人二人と、「おのぼりさん」のような観光コース、清水寺に行ってきました。


ひさかたの 天の香具山 この夕べ かすみたなびく 春立つらしも
久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下 (万葉集1812)
ひょうたんの形をした(瓢形=ひさかた)天の かぐ山(光輝=かぐ)に この夕べ かすみがたなびいている 春がきたらしい
前方後円墳はひょうたんの形(瓢形=ひさかた)をしており、まさしく古代人が描いた宇宙の形でした。ニギハヤヒの古都、多武峰の山波は天の香具山で終わっています。
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