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2012年10月10日 (水)

松下村塾を訪ねて

日本の原点を振り返りたいと思い、10月3連休を利用して、山口県萩へはじめて行ってきました。移動には東回りと西回りの萩循環まぁーるバスを利用しました。東回りと西回りの乗り換え停留所は、JR萩駅と萩市役所です。

中国地方を制圧した毛利氏が、家康によって狭い長門・周防2国に閉じ込められて以来、ふたたび故地に捲土重来するため、莫大な教育熱が湧き上がり、その恐るべきエネルギーが日本全土を席巻して明治維新の原動力となり、多くの偉人を輩出しました。

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毛利元就の男児は、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人が有名ですね。隆元のこどもであった毛利輝元が1604年、指月山(しづきやま)を利用して、萩城を築きました。幕末、攘夷に燃えた長州藩は、1863年山口へ移転しました。山口はもともと大内氏の本拠地でした。その後、1874年(明治7)の廃城令によって、萩城は焼却されてしまいましたが、1876年(明治9)、前原一誠らが萩の乱を起こしました。

橋本川と松本川に囲まれた三角洲に、殿様・家老・上級武士が住み、下級武士や農民、商人らは三角洲より外部の土地に住むこととなりました。

松下村塾とは、松本村=松下村の塾という意味で、支配階級層の住む三角洲の外に位置しました。もともと吉田松蔭の叔父・玉木文之進の家で開かれ、松陰自身も玉木文之進に学問の手ほどきを受けていました。藩の勤めで不在がちになった文之進に代わって、野山獄に投獄された松陰が代わって講義するようになりました。

松蔭のペンネーム「二十一回猛士」の二十一とは彼の旧姓、杉を分解して名づけたとか。

「飛耳長目(ひじちょうもく)」弟子たちを日本全国に送り、情報収集に努め、徐々に過激な言動が目立つようになってきた松陰は、開国を推進した老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺する計画を立てていましたが、未遂に終わりました。その罪で安政の大獄で斬首されたのち、1869年(明治2)に玉木文之進がふたたび松下村塾を復活しました。しかし萩の乱を起こした武士を教育したという自責の念に駆られて1876年(明治9)に自害しました。

吉田松蔭は吉田稔麿(よしだとしまろ)の素質を大いに買っておりましたが、攘夷の熱意が足りないことに悲憤慷慨したまま斬首されました。萩史料館には、父親の吉田稔麿あての手紙が展示されており、最近の吉田松蔭は過激になってきたから、くみしないようにと戒めていましたが、その影響があったのではないでしょうか。京を舞台に攘夷に奮闘しながらも池田屋事件で新撰組に斬殺された吉田稔麿でしたが、師が知る由もありません。

指月山を背景とした萩城です。
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朝7時半ごろ、天守閣から眺めた山々に朝霧が出ていました。

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萩八景遊覧船に乗りました。

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萩史料館に行きました。メインの展示品は、吉田松蔭と対立し尊王攘夷派の台頭によって切腹を強いられた長井雅楽(ながいうた)の陣笠と槍かな。なかなか武術の達人だったとお見受けしました。

面白かったのは、お尋ね者として幕府から縛吏に配られた人相書きです。西郷吉之助、高杉晋作、平野次郎の三人ですが、高杉晋作はまったく似ても似つかぬ人相書きで、長州訛りを頼りに捕縛しようとしていたとか。無茶な話です。

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萩博物館に行きました。巨大イカの標本は子供向けの余興でして、まずは高杉晋作コーナーに魅入ってしまいました。一番印象に残っているのは、功山寺で都落ちの五卿の前で、「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す。」と言い放ち馬に鞭当てたときにかぶった兜ですね。あとは「交友録」という、高杉晋作の備忘録が展示してあって、吉村寅太郎をはじめとする天誅組の面々の名前がたくさん書かれてありました。

天誅組は1863年、日本初の倒幕運動であって、構成メンバーは武士ではなく、10代の若き農民や神官でした。最晩年の吉田松蔭は1859年ごろには倒幕を完全に意識しており、高杉晋作に間部詮勝暗殺のための武器購入を命じていましたが、未遂に終わっています。

馬関戦争に負けた長州藩は、高杉晋作に四カ国連合艦隊との講和談判を命じましたが、そのとき着た葵の御紋のついた直垂(ひたたれ)が展示してありました。つまり、オレ=’宍戸刑馬(ししどぎょうま)’は幕府の人間なんだぞと言いたかったのでしょうか。幕府に戦争の全責任を負わせようとする意図の表れでした。

面白いのは、幼少時、晋作自ら彫った木刀の展示です。柳生新陰流の免許皆伝ももっていました。晋作は菅原道真を厚く信仰していたようで、「菅原天神」と大きく書かれた額も面白かったです。あとは下関遊女出身の妾・うのが、尼になって晋作の墓の前にたたずんでいる写真。

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臨済宗・大照院に行きました。

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萩藩初代藩主・秀就+偶数代藩主の墓です。

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黄檗宗・東光寺に行きました。

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NHK大河ドラマ「太閤記」のタイトルバックに使われた、古い瓦2枚です。

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奇数代藩主の墓です。
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二日にわたって、松下村塾、至誠館、松陰神社に行ってきました。

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松陰先生が江戸送りになったとき、教え子たちが激怒して、刀で柱を斬りつけた跡です。
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松陰先生が教え子たちと寝泊まりした屋根裏部屋です。木版印刷もここで行っていたそうです。水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきら)の家訓が木版印刷され、多くのこどもたちに教えられていました。

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ここで松陰先生はコの字に机を囲んで、生徒一人ひとり教えられました。誰が来てもよかったので、生徒名簿は存在しませんでした。後世の学者の研究で、2年の教師生活で教えた生徒は92人だったそうです。晩年、壁に教え子たちが送ってきた最新情報の手紙が張られ、過激になっていかれたそうです。山県有朋は勉強嫌いだったので、1か月ちょっとしかここで講義は受けていません。

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至誠館に入ってきました。

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

伊藤仁斎の五常は、仁、義、礼、智、信。このうちもっとも大事なのが仁。仁を言い換えたものが、恕、忠、そして誠。最高の誠を至誠といいます。なにごとも至誠をもってすれば、思い通りになるものだという意味。性善説のうえに論理展開されています。物事がうまくいかないのは自らの至誠がまだ未熟だからであって、松陰先生もいよいよ処刑される段になって、両親に自らの至誠のいたらなさを詫びられました。

松下村塾の指導者を述べます。

まずは創始者の玉木文之進。久保五郎左衛門が玉木文之進を支えましたが、文之進の公務の忙しさが増すと、それを埋めるように、吉田松陰が教鞭をとります。しかし松陰先生も蟄居・投獄の身ゆえ、情報伝達の仲介役となったのが、義弟・楫取素彦(かとりもとひこ)でした。久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎、前原一誠らと松陰が連絡を取る重要な中継役を果たしました。楫取素彦の影響で松陰先生は過激化したとも言われています。松陰処刑後一時、松下村塾は閉鎖同然となりますが、玉木文之進が明治2年再興しました。

吉田松陰に影響を与えた人は、会沢正志斎 「新論」

江戸送り後の伝馬町獄で、心の友となっていたのは、

頼三樹三郎橋本左内

吉田松陰が提唱したテーゼは、草莽崛起(そうもうくっき)

吉田松陰の主な著書は、講孟余話孫子評註留魂録

吉田松陰の代表的な和歌は、

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

かくすれば斯くなるものと知りながら 止むにやまれぬ大和魂

此の程に思い定めし出立は 今日きく、こそ嬉しかりける

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萩本陣で買ったお菓子のお土産が意外にとてもおいしかったです。

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総括の一首を詠みますかな。

歴史曲げ 生命教育 国売れど 萩は日本の 学都とならん

春風寮主人

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