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2012年10月30日 (火)

旬のくだものが大好きです

くだものがおいしい季節になってまいりましたね。

7月は岡山の桃。 

白鳳 から 清水白桃 へ とってもジューシーです。

8月の岡山白桃は肉が堅いので私はイマイチ好きになれない。

9月は三重の梨。 幸水がサイコーにうまい。

10月は長野の種無しブドウ。

ナガノパープルこそ巨峰よりはるかに上です。

歯ごたえ、香り、動脈硬化予防のポリフェノール豊富。

和歌山の平種無柿がうまい。熟せば、うまさ倍増する。

リンゴは青森の紅玉が一番だね。

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2012年10月29日 (月)

近つ飛鳥博物館「南九州とヤマト王権」をみて

昨日は湾岸線、堺泉北有料道路、南阪奈道路を通って、近つ飛鳥博物館へ行ってきました。決して近くありませんね。

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宮崎大学・柳澤一男教授 「日向の古墳と首長墓系譜」

講演を聴いてきました。大和の箸墓古墳をはじめとする前方後円墳は、南九州、朝鮮半島の馬韓にもたくさん見られます。竪穴が基本ですが、日向の特徴として、地下式横穴があげられます。日向と同じ墓づくりの工人が、朝鮮半島の馬韓で同じ地下式横穴を有する前方後円墳をたくさんつくりました。

継体天皇の御世で、大伴金村が任那4県を、高句麗に圧迫された百済に割譲しましたが、まさに馬韓に相当します。百済は南に面する馬韓を支配しきれずにいたわけで、百済と馬韓はお互いにらみ合いながら並立していました。

300年ころ全盛を誇った大淀川流域の生目(いきめ)古墳群から、400年に一ツ瀬川流域の西都原(さいとばる)古墳群に、巨大な男狭穂塚(おさほづか)古墳と女狭穂塚(めさほづか)古墳が出現しました。とくに女狭穂塚古墳は大阪の仲津山古墳とまったく同じで、近畿最先端の技術工が日向にも来て、最先端流行の古墳を作っていました。まさにこのころは、大和・河内・日向が一体と化していたわけですね。

河内王朝 → 日向 → 馬韓

という、技術者の人的交流があったようです。百済の武寧王はもともと唐津生まれの日本人であったようですし、任那研究のさらなる進展を期待したいと思います。

天武朝までに大隅・日向の原住民は近畿への移住を終えており、とくに女谷・荒坂横穴群と呼ばれる、のちに瓦窯で有名な場所に集まって住んでいたようです。大隅・日向は代わって薩摩から侵略を受け、中央から派遣された官に対し反乱をたびたび起こし、隼人と呼ばれました。

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2012年10月21日 (日)

大阪国立国際美術館「エルグレコ展」をみて

大阪中之島の国立国際美術館へエルグレコの絵を見に行きました。1570年~1600年くらいにスペインで活躍した画家です。そのころのスペインは世界最強で、太陽が沈まない帝国と呼ばれ、フェリペ2世が統治していました。南米インカ帝国を滅ぼし、莫大な金がスペインにもたらされ、信長・秀吉が治める日本へも、南蛮文化として侵略の触手がうごめいていました。

1588年スペイン無敵艦隊が地中海制海権をめぐって、大英帝国エリザベス1世と争い、アルマダ海戦で敗れましたが、まだまだスペイン優勢の時代でした。

1517年、神聖ローマ帝国の一角に住むマルチンルターがローマ教会を否定し、聖書のみの信仰を説くプロテスタントを勃興しました。この動きに皇帝ハプスブルク家とローマ教会が危機感をいだき、反宗教改革運動として、スペイン・イエズス会を中心とした巻き返しを図っていました。カトリック世界布教のため、大きな一役を買ったのが、教会宗教画家エルグレコです。

東はプロイセンが異教徒バルト人を弾圧し、西はスペインがイスラム教徒を弾圧しました。異教徒には妥協を許さない厳しい弾圧でした。

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エルグレコ展をみて、感想を一言でいうと、黒澤明・監督に似ているなと思いました。男性の肉体美の連続。紅一点で描かれる聖母マリア像。黒澤映画そのものではないでしょうか。皮膚感や衣服のタッチは終始一貫して同じ勢いで書かれていました。緻密性を追い求めるより、画家が訴えたいことを力でもって絵に刻み込むという手法。

単数の肖像画を描くだけでは飽き足らず、教会に飾る宗教画としての構図をどうするか、複数の人間をどう配置するかをイタリア留学で学んだそうです。下から上を仰ぐ形で絵が飾られましたので、下半身を長く描きました。信者の信仰心を洗脳するために、キリストやマリアの手の動きやポーズに全神経を使ったそうです。

死の影が忍び寄るようなタッチ。実際、日本だけでも何人の宣教師が殉教したことやら。

となりの大阪市立科学館で、渋川春海と江戸天文学の展示を見てきました。

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旧制三高の前身、大阪舎密局(おおさかせいみきょく)。明治新政府は大坂遷都を考えていましたので、江戸戦火で物理化学実験機器が壊されないよう、大阪に理工学学校を設置しました。オランダ人アラタマさんが教頭を勤めました。

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幕末、大坂遷都を最初に提唱したのは、福岡勤王党・平野國臣(ひらのくにおみ)でした。久留米・水天宮の神官だった真木和泉(まきいずみ)に引き継がれ、最後は薩摩藩士・大久保利通が本気になりましたが、桂小五郎らの反対で廃案となりました。

ちなみに薩長同盟を最初に成し遂げたのは、萩藩商人だった白石正一郎(しらいししょういちろう)。第一番目の奇兵隊員として入隊。経済上の薩長同盟が崩れた後、なんとか福岡勤王党だった月形洗蔵(つきがたせんぞう)が薩長関係修復に乗り出しましたが、福岡藩の攘夷派大弾圧によって頓挫。土佐藩亀山社中・坂本龍馬が最終アンカーとして薩長同盟を実現させました。

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2012年10月16日 (火)

エルミタージュ美術館展をみて

日曜日にみやこめっせの京都市美術館に行ってきました。ロシアのエルミタージュ美術館は、猫好きのエカテリーナ2世のせいもあって、ネズミ捕りをかねて猫を美術館内に放し飼いにしており、猫を題材とした絵も多いそうです。人出も多くなく、1時間ちょっとで90枚くらいの絵画をあまり並ばずにゆっくり見ることができました。

ロシア・エカテリーナ2世は、オーストリア・マリアテレジアと並び称せられる大女帝。ロシア船に拿捕された大黒屋光太夫もエカテリーナ2世に謁見しました。Dscn2378

☆16世紀ルネサンス絵画 「幾何学を駆使した理性の独立宣言」

ヴェロネーゼ 「聖会話」

暗い表情の聖母マリアとイエスキリストですね。

レオナルドダヴィンチの無名弟子 「裸婦」

モナリザをもじった絵で面白かったです。

アレッサンドロ・アローリ 「キリスト教会の寓意」

女性の服の赤と青と白が鮮やかでした。

☆17世紀バロック絵画 「過剰なまでの大げさ表現」

ルーベンス 「ローマの慈愛」

娘が死にゆく父に自分の乳を与えているという設定ですが、なんだかねぇ。

ヴァンダイク 「自画像」

英国で活躍した宮廷画家。神戸の絵はよかったよと褒めてあげたいくらい、ハンサムな男でした。

ダニエル・セーヘルス 「花飾りに囲まれたキリストとヨハネ」

赤、ピンク、白のコントラストが鮮やかな花がきれいでした。

マンデル 「愛の園」

裸体ポーズ集でした。

ウィレム・クラースゾーン・ヘダ 「蟹のある食卓」

ガラスに入っている水はどうやって描いているのか?オランダ画家の特許なのかもしれません。机のカバーも見事な表現でした。

ライスダール 「海岸」

神戸でも見ました。さざ波の表現はオランダが一番です。ロングスカートをはいたまま、海で遊ぶ女性たち。当時の人がビキニ水着やヌーディストビーチを見たら、さぞかし卒倒するでしょうね。

☆18世紀ロココ絵画 「ロマンあふれるほのぼの表現」

ニコラ・ランクレ 「踊るカルマゴ嬢」

美少女の綺麗な舞い。

ジャン・ユベール 「ヴォルテールの朝」

フリードリヒ大王と親しかった哲学者ヴォルテールのヨボヨボ爺さん着替えのシーン。デカパン丸出しでおっとっととよろめく姿は、フリーメーソン理性を賛美した、いかめしい啓蒙哲学とはまったく不似合いですね。

ルブラン 「自画像」、カウフマン 「自画像」

女も描くぜという気合をこめた、女流画家自画像2連発でした。

リチャード・ブロンプトン 「エカテリーナ2世の肖像」

館長の絵がやっと出ましたという感じ。少しお年を召したころの絵ですね。猫がいない。

ボワイー 「ビリヤード」

綺麗な女性たちがはべる4つ玉ビリヤード会場でした。

オラース・ヴェルネ 「死の天使」

きれいな美少女の死に装束でした。すこし気持ちが悪かったです。

ピエール・ナルシス・グラン 「モルフィウスとイリス」

女性のような甘美な男性と美少女のコラボ。この特別展の看板でした。

☆19世紀ロマン派・印象派 「搾取する貴族vs貧しき平民」

ヴィンターハルター 「女帝マリア・アレクサンドロヴナの肖像」

見事なお衣装でした。人見知りが激しく、幸せとは言えないような人生だったそうです。

フランソワ・フラマン 「1802年マルメゾン宮殿でのパーティ」

皇帝ナポレオンが戯れて女性を追っかけている姿が滑稽でした。

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2012年10月14日 (日)

「できる」と「する」には大きなちがいがある

「私は、○○ができます。」と言う人が、最近特に多くなってきました。しかし、実際に○○をやってもらうと甘いしない。これでは、健全な社会活動をするうえで、なんの意味もない。

「不言実行」「有言実行」とは昔からの格言ですが、昔は「私は○○ができます。」と軽々しく言う人は少なかったと思います。マスコミ(瓦版)と、映画の中で植木等が演じた無責任男くらいだったかな。実際やってもらうとしっかり仕事ができました。

「知行合一」とは陽明学が教えるところですが、知は行いの初めであって、行ってこそはじめて知の完成であると。

「日本の美」、それはまさに不言実行や有言実行が社会活動の津々浦々に見られたことです。中国には見られません。

機械を修理できると修理するは大違い。なおったかどうかのチェックをしないとかチェックが甘い。

家を建てられると建てるは大違い。すぐに戸が開かなくなったり壊れたり、家が傾いてきたりする。

病気を治せると治すは大違い。

夫を介護できると介護するは大違い。

iPSが再生臓器を作れると作るは大違い。最強の癌遺伝子を組み込んだiPS細胞から、医療訴訟なく健全な臓器を再生する段階に達するのはなかなか困難を極めるでしょう。

昔の日本の職人は、口下手だけれど仕事はきちんとしていましたね。「こども」に厳しい「おとな」の社会でした。

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2012年10月12日 (金)

橿原考古学研究所付属博物館 「日本国」の誕生

昨日午前診を終え、畝傍御陵前まで近鉄で行ってきました。乙巳の変以降の孝徳天皇は中大兄皇子の裏切りで失脚し、天智天皇は白村江の敗戦処理に明け暮れましたので、実際は壬申の乱以降の天武朝になって、律令制度がゆっくりと整ってきました。

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まずはいま話題の、太安万侶墓誌。3Dコンピューター解析を行ったところ、石に彫った字の横に、墨で書かれた字が浮かび上がってきました。まあ要するに、墨で下書きを書いてから、石に字を刻み込んだということ。X線解析同様、これから考古学資料のルーチーンの解析方法になるのでは。

あと面白かったのは、「天皇」と書かれた木簡。天智ではなく天武のときに、天皇という号が用いられ、689年(持統3)の飛鳥浄御原令で定められたそうです。

次は無文銀銭。683年(天武12)4月15日の勅命、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ。」和同開珎の前が、富本銭だということは知っていても、富本銭の前に、なにも文字が書かれていない銀銭が存在したことを知る人は少ないのではないでしょうか。

無文銀銭 → 富本銭 → 和同開珎をはじめとする皇朝十二銭

あとは「日本」と書かれた井真成(せいしんせい)墓誌。倭から日本に変わったことをなかなか唐に認めてもらえませんでしたが、粟田真人ら遣唐使の努力の甲斐があって、また唐が一時、則天武后に滅ぼされ、易姓革命によって周となっており、同じ女帝がつづいた日本に親近感をもってくれましたので、唐の高級官僚の反対にもかかわらず、日本という名前の国が正式に唐によって承認されたのです。

あとは蝦夷特有の蕨手刀。律令制度が蝦夷に普及したのちも、青森の古墳からは蕨手刀(わらびてとう)が出土しています。自分のアイデンティティを墓に刻み込んだということかな。壊れやすい原品資料をわざわざ奈良まで運んでいました。

あとは隼人特有の楯。隼人独特の文様が書かれた楯でした。

最後に「御笠団印」と書かれた大宰府軍団の銅印。軍団制は飛鳥浄御原令で制定され、各地に配置されました。

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2012年10月10日 (水)

松下村塾を訪ねて

日本の原点を振り返りたいと思い、10月3連休を利用して、山口県萩へはじめて行ってきました。移動には東回りと西回りの萩循環まぁーるバスを利用しました。東回りと西回りの乗り換え停留所は、JR萩駅と萩市役所です。

中国地方を制圧した毛利氏が、家康によって狭い長門・周防2国に閉じ込められて以来、ふたたび故地に捲土重来するため、莫大な教育熱が湧き上がり、その恐るべきエネルギーが日本全土を席巻して明治維新の原動力となり、多くの偉人を輩出しました。

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毛利元就の男児は、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の3人が有名ですね。隆元のこどもであった毛利輝元が1604年、指月山(しづきやま)を利用して、萩城を築きました。幕末、攘夷に燃えた長州藩は、1863年山口へ移転しました。山口はもともと大内氏の本拠地でした。その後、1874年(明治7)の廃城令によって、萩城は焼却されてしまいましたが、1876年(明治9)、前原一誠らが萩の乱を起こしました。

橋本川と松本川に囲まれた三角洲に、殿様・家老・上級武士が住み、下級武士や農民、商人らは三角洲より外部の土地に住むこととなりました。

松下村塾とは、松本村=松下村の塾という意味で、支配階級層の住む三角洲の外に位置しました。もともと吉田松蔭の叔父・玉木文之進の家で開かれ、松陰自身も玉木文之進に学問の手ほどきを受けていました。藩の勤めで不在がちになった文之進に代わって、野山獄に投獄された松陰が代わって講義するようになりました。

松蔭のペンネーム「二十一回猛士」の二十一とは彼の旧姓、杉を分解して名づけたとか。

「飛耳長目(ひじちょうもく)」弟子たちを日本全国に送り、情報収集に努め、徐々に過激な言動が目立つようになってきた松陰は、開国を推進した老中・間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺する計画を立てていましたが、未遂に終わりました。その罪で安政の大獄で斬首されたのち、1869年(明治2)に玉木文之進がふたたび松下村塾を復活しました。しかし萩の乱を起こした武士を教育したという自責の念に駆られて1876年(明治9)に自害しました。

吉田松蔭は吉田稔麿(よしだとしまろ)の素質を大いに買っておりましたが、攘夷の熱意が足りないことに悲憤慷慨したまま斬首されました。萩史料館には、父親の吉田稔麿あての手紙が展示されており、最近の吉田松蔭は過激になってきたから、くみしないようにと戒めていましたが、その影響があったのではないでしょうか。京を舞台に攘夷に奮闘しながらも池田屋事件で新撰組に斬殺された吉田稔麿でしたが、師が知る由もありません。

指月山を背景とした萩城です。
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朝7時半ごろ、天守閣から眺めた山々に朝霧が出ていました。

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萩八景遊覧船に乗りました。

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萩史料館に行きました。メインの展示品は、吉田松蔭と対立し尊王攘夷派の台頭によって切腹を強いられた長井雅楽(ながいうた)の陣笠と槍かな。なかなか武術の達人だったとお見受けしました。

面白かったのは、お尋ね者として幕府から縛吏に配られた人相書きです。西郷吉之助、高杉晋作、平野次郎の三人ですが、高杉晋作はまったく似ても似つかぬ人相書きで、長州訛りを頼りに捕縛しようとしていたとか。無茶な話です。

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萩博物館に行きました。巨大イカの標本は子供向けの余興でして、まずは高杉晋作コーナーに魅入ってしまいました。一番印象に残っているのは、功山寺で都落ちの五卿の前で、「これより長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す。」と言い放ち馬に鞭当てたときにかぶった兜ですね。あとは「交友録」という、高杉晋作の備忘録が展示してあって、吉村寅太郎をはじめとする天誅組の面々の名前がたくさん書かれてありました。

天誅組は1863年、日本初の倒幕運動であって、構成メンバーは武士ではなく、10代の若き農民や神官でした。最晩年の吉田松蔭は1859年ごろには倒幕を完全に意識しており、高杉晋作に間部詮勝暗殺のための武器購入を命じていましたが、未遂に終わっています。

馬関戦争に負けた長州藩は、高杉晋作に四カ国連合艦隊との講和談判を命じましたが、そのとき着た葵の御紋のついた直垂(ひたたれ)が展示してありました。つまり、オレ=’宍戸刑馬(ししどぎょうま)’は幕府の人間なんだぞと言いたかったのでしょうか。幕府に戦争の全責任を負わせようとする意図の表れでした。

面白いのは、幼少時、晋作自ら彫った木刀の展示です。柳生新陰流の免許皆伝ももっていました。晋作は菅原道真を厚く信仰していたようで、「菅原天神」と大きく書かれた額も面白かったです。あとは下関遊女出身の妾・うのが、尼になって晋作の墓の前にたたずんでいる写真。

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臨済宗・大照院に行きました。

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萩藩初代藩主・秀就+偶数代藩主の墓です。

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黄檗宗・東光寺に行きました。

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NHK大河ドラマ「太閤記」のタイトルバックに使われた、古い瓦2枚です。

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奇数代藩主の墓です。
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二日にわたって、松下村塾、至誠館、松陰神社に行ってきました。

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松陰先生が江戸送りになったとき、教え子たちが激怒して、刀で柱を斬りつけた跡です。
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松陰先生が教え子たちと寝泊まりした屋根裏部屋です。木版印刷もここで行っていたそうです。水戸藩主・徳川斉昭(とくがわなりあきら)の家訓が木版印刷され、多くのこどもたちに教えられていました。

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ここで松陰先生はコの字に机を囲んで、生徒一人ひとり教えられました。誰が来てもよかったので、生徒名簿は存在しませんでした。後世の学者の研究で、2年の教師生活で教えた生徒は92人だったそうです。晩年、壁に教え子たちが送ってきた最新情報の手紙が張られ、過激になっていかれたそうです。山県有朋は勉強嫌いだったので、1か月ちょっとしかここで講義は受けていません。

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至誠館に入ってきました。

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

伊藤仁斎の五常は、仁、義、礼、智、信。このうちもっとも大事なのが仁。仁を言い換えたものが、恕、忠、そして誠。最高の誠を至誠といいます。なにごとも至誠をもってすれば、思い通りになるものだという意味。性善説のうえに論理展開されています。物事がうまくいかないのは自らの至誠がまだ未熟だからであって、松陰先生もいよいよ処刑される段になって、両親に自らの至誠のいたらなさを詫びられました。

松下村塾の指導者を述べます。

まずは創始者の玉木文之進。久保五郎左衛門が玉木文之進を支えましたが、文之進の公務の忙しさが増すと、それを埋めるように、吉田松陰が教鞭をとります。しかし松陰先生も蟄居・投獄の身ゆえ、情報伝達の仲介役となったのが、義弟・楫取素彦(かとりもとひこ)でした。久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿、高杉晋作、桂小五郎、品川弥二郎、前原一誠らと松陰が連絡を取る重要な中継役を果たしました。楫取素彦の影響で松陰先生は過激化したとも言われています。松陰処刑後一時、松下村塾は閉鎖同然となりますが、玉木文之進が明治2年再興しました。

吉田松陰に影響を与えた人は、会沢正志斎 「新論」

江戸送り後の伝馬町獄で、心の友となっていたのは、

頼三樹三郎橋本左内

吉田松陰が提唱したテーゼは、草莽崛起(そうもうくっき)

吉田松陰の主な著書は、講孟余話孫子評註留魂録

吉田松陰の代表的な和歌は、

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

かくすれば斯くなるものと知りながら 止むにやまれぬ大和魂

此の程に思い定めし出立は 今日きく、こそ嬉しかりける

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萩本陣で買ったお菓子のお土産が意外にとてもおいしかったです。

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総括の一首を詠みますかな。

歴史曲げ 生命教育 国売れど 萩は日本の 学都とならん

春風寮主人

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