新幹線に乗って、倭国ゆかりの神社を参拝してきました。九州に生まれた倭国が東征先の近畿にて、天智天皇を中心に、中国北朝から独立した日本国として生まれ変わりました。しかし、いま日本国は中国・韓国・ロシア・北朝鮮・アメリカといった隣国侵略による滅亡の危機に立たされています。日本の原点をたずね、倭が誇る外交を振り返ることは大きな意味をもっています。倭国ですら、中国南朝に朝貢こそすれ、現在のごとき冊封はしていませんでした。
まずはJR久留米駅を下車。タクシー15分かけて、倭の五王の末裔が宮司を務めておられる高良大社(こうらたいしゃ)を参拝しました。古くは高良玉垂宮といい、祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、八幡大神(はちまんおおかみ)、住吉大神(すみよしおおかみ)です。
境内からは久留米の街と筑後川を一望できました。
熊本へ新幹線移動し、熊本城へ行ってきました。名物「いきなり団子」を食べましたが、ふつうの芋まんじゅうでした。
秀吉の命で肥後入りした佐々成政でしたが、治めきれず尼崎にて切腹を申しつけられました。代わって肥後に来たのが加藤清正でした。私は彼が戦国一の武将だと思っています。
加藤清正は子の代で断絶させられ、小倉から細川氏が肥後入りしました。
復元された昭君の間です。
在来線で南阿蘇温泉に行き、名物の馬刺し、赤牛をいただきました。
阿蘇駅まで旅館の方に送ってもらい、定期観光バスで阿蘇山の大観峰(だいかんぼう)に行きました。
阿蘇神社を参拝しました。井伊直弼の影のブレインだった、細川大名の落とし子・長野主膳もここ阿蘇神社の宮司、阿蘇氏に身を寄せていました。伊勢の本居宣長門下にて国学を修めました。倭国成立以前から、ここは聖地祭場でした。祭神は武磐龍命(たけいわたつのみこと)です。
スイッチバック方式のローカル線に乗り、水前寺公園に行きました。
富士山を模倣した築山だそうです。細川大名は、門司か大分まで陸路して、あとは船で兵庫入りして、参勤交代していたそうです。
細川大名が食した、かりん菓子「加勢以多(かせいた)」と抹茶をいただきました。
翌日は、JR在来線の東郷駅を下車して、宗像大社辺津宮(むなかたたいしゃ・へつみや)を参拝しました。祭神は、辺津宮の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)、大島にある中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、沖ノ島にある沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)です。10月1日の御生れ祭(みあれさい)で、三柱の神様が辺津宮に一同集われます。
宗像大社から、広島・宮島の厳島神社ができました。
このあたりの豪族だった胸形徳善(むなかたとくぜん)の娘・尼子娘(あまこのいらつめ)が第一夫人として大海人皇子、のちの天武天皇に嫁ぎました。こどもは高市皇子(たけちのみこ)です。
古代から海上安全を祈願してきた沖ノ島は、当時の貴重品を身代りに奉納したため、考古学資料の宝庫です。
岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)
鏡、剣、勾玉、鉄鋌(てってい;加工前の鉄板規格品)
岩陰祭祀(5世紀後半~7世紀)
武器、馬具、新羅の指輪、ササン朝ペルシャのガラス
半岩陰・半露天祭祀(7世紀後半~8世紀前半)
金銅製の人形・織器・五弦琴、須恵器、律令祭祀を採用
露天祭祀(8世紀~10世紀初頭)
石製の人形・舟形・馬形、奈良三彩小壷、須恵器、皇朝銭
894年遣唐使廃止とともに祭祀は廃れましたが、新羅の入寇(倭寇ばかりじゃない!)を呪詛し、大変霊験があったということで、宗像氏は正一位まで出世しました。

大宮司であった宗像氏は、元寇では少弐氏のもとで働き、鳥羽上皇、平頼盛、後醍醐天皇、九州に落ち延びた足利尊氏を助け、中世にも豪族として名をはせてきましたが、大内氏をはじめとする戦国大名に屈服。政略結婚で融和を図ってきましたが、1586年宗像氏貞(むなかたうじさだ)を最後に断絶しました。
安曇(あずみ)氏、息長(おきなが)氏、紀(きの)氏、吉備(きび)氏、尼子(あまこ)氏、宗像(むなかた)氏、松浦(まつら)氏、河野(こうの)氏、村上(むらかみ)氏、九鬼(くき)氏といった海の民は田畑にする土地を持ちません。ですから701年大宝律令以降に強制された律令制度のもとでは、山上憶良「貧窮問答歌」でうたわれたごとく、かつて富と栄光に包まれていた海の民は貧しく経済的に虐げられることになりました。ですから生きるために海賊となり、ときに武士と共同戦線を張り、やがては有力豪族に水軍として組織的に取り立てられることになりました。
白村江の戦いの敗戦以降、唐や新羅に対抗するためにしかれた絶対的中央集権制度とちがって、倭国は緩やかな中央権力政府(大宰府)でした。宰(みこともち)が中央(天皇)の命令を地方に伝え、詳細は地方豪族の裁量に任されていました。海の民はそんななか、のびのびと造船・航海技術や外交や豪華絢爛な仏教木造建築・土器・須恵器・瓦・巨石・鉄器文化をはぐくむことができたのです。
奈良時代以降の近畿中央政府で敗れた者が、心のよりどころとしたのは常に海の民でした。大海人皇子(天武天皇)しかり、藤原広嗣しかり、平家一門しかり、後醍醐天皇(南朝)しかり、足利高氏しかり。海の民がつくった倭国は、民にやさしい揺りかごなのです。
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