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2012年8月17日 (金)

蘭通詞と唐通事

〈通訳〉たちの幕末維新

〈通訳〉たちの幕末維新
著者:木村直樹
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1639年、ポルトガルとの国交を断絶した幕府は、1641年、平戸のオランダ人を、ポルトガル人居留地として作った出島に移しました。とはいえ、ポルトガルとの付き合いが長かったため、ポルトガル語しか通詞たちはしゃべれません。おまけにオランダ人商館長(カピタン)も1年おきに交替させられ、日本語を覚える余裕すらなくなりました。17世紀末の元禄時代になっても、蘭通詞たちのオランダ語はチンプンカンプン。オランダ人のふりをして来日したドイツ人医師ケンペルは見るに見かねて、オランダ語の特訓を今村英生をはじめとする通詞たちに施しました。

1700年ころ、徳川吉宗は西洋好きで、青木昆陽をはじめ、蘭学を奨励しました。このころにはようやく、まともな通商をオランダ人と交わすことができるようになっていたそうです。吉宗の米経済から田沼意次の貨幣経済に移行すると、ますます町人文化が栄え、蘭学もさかんになりました。天明の大飢饉で米を軽視した田沼意次が失脚すると、松平定信の寛政の改革となります。いわゆる緊縮財政で、派手好き尾張藩の徳川宗春が失脚し、オランダ正月など派手なサロンを長崎に築いた吉雄耕牛が徹底的に弾圧されました。

杉田玄白の「解体新書」も、林子平の「海国兵談」も、吉雄耕牛が訳しました。平賀源内にエレキテルを教えたのも吉雄耕牛。芝蘭堂・大槻玄沢が江戸で開いたオランダ正月は、吉雄耕牛からパクッたもの。

1793年ラックスマン来日、1804年レザノフ来日などさかんにロシア人来航が相次ぎますと、高田屋嘉兵衛、ゴロウニンから馬場佐十郎がロシア語を習得。幕府は長崎から蘭通詞レンタルをやめたいと思い、馬場佐十郎に幕閣としての活躍を期待しましたが、早逝してしまいました。幕府は仕方なく、長崎・蘭通詞の登用・レンタルを続けることになります。

1828年シーボルト事件で、樺太情報流出に関する間宮林蔵の密告で、多くの優秀な長崎・蘭通詞が処罰されました。ペリー来航以来、条約締結のため、幕府は優秀な蘭通詞を登用。佐賀藩や薩摩藩も西洋文化を独自に吸収すべく、蘭通詞を藩士として登用しました。アメリカ・ロシア・フランス・イギリス・プロイセン・オランダと条約を締結交渉するのに通詞不足が深刻になりました。さらに使節団を外国に送るにも通詞を伴いましたので。

そこで隙間をうめるように登場したのが唐通事。アヘン戦争に負けた清国は欧米列強と交渉するために外国語を勉強しており、外国語を話せる中国人の話す言葉を、唐通事が翻訳するというルートができました。木村蒹葭堂は中華好きで唐通事と交流が深く、大坂に有名な文化サロンを築きました。

第1派閥 蘭通詞

第2派閥 唐通事

第3派閥 蘭学者

この三つ巴の権力争いが展開されましたが、結局、明治以降、蘭通詞は負けて、大学教授に多くの蘭学者や唐通事が抜擢されました。蘭通詞は民間会社に埋もれていったそうです。

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