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2012年6月27日 (水)

鎖国のお勉強

前回、私が勉強したのは、日米和親条約で活躍した「和親ファイブ」とその他面々、それに井伊直弼の絶対権力をバックに日米修好通商条約で活躍した「通商ファイブ」の物語でした。いずれも近日訪れる新憲法下での日本史教科書に詳細に記述されるはずでしょう。学べば日本人としての誇りをこどもたちが持つことができます。

主な教科書新記述は次の五つ。日本史だけで1000ページ以上の分厚さになるのでは。

江戸時代、いかに日本人らしいエコな暮らしを送ることができたか。

大蔵省、内務省、内閣法制局、衆参議院に左翼・右翼のどんな人物が先頭に立って、国家を左に右にと振り回してきたか。

ソ連と中共の出先機関となっていた日本人社会主義者が、二度にわたり日本国を戦争に導くために、スパイや偽装右翼や朝日新聞を使って、いかに世論操作をしてきたか。

社会主義者の敗戦革命を、いかに天皇陛下と大日本帝国憲法が防波堤となって阻止してきたか。

社会主義者が日本の国体を滅ぼすために、いかに日本国憲法を制定し国としての主権を放棄させ、失われた40年を導いてきたか。

さて、今回は、信長、秀吉、家康、秀忠、家光と、開国から鎖国にいたる過程を勉強しています。

「鎖国」への道すじ

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家康に味方していた紀州の根来(ねごろ)、堺の雑賀(さいが)という2大鉄砲衆を制圧した秀吉は、太政大臣から関白にのぼりつめました。ちなみに伊勢志摩の九鬼水軍は信長・秀吉の味方でしたので、家康の世に三田に強制移住させられ、「陸に上がったカッパ」状態でした。

平清盛 太政大臣

源頼朝 征夷大将軍

徳川家康 征夷大将軍

農民の身分で秀吉が関白にまでなれた理由がおもしろい。本能寺の変で信長を殺した明智光秀を支持するという詔勅が朝廷から数日後に出されており、その件で秀吉が、朝廷をとがめ、関白をゲットしたそうです。

1543年 種子島にポルトガル人が上陸し鉄砲伝来。以後、日本は世界最大数の鉄砲を所持することとなり、宣教師など外国からの敵意ある侵略から身を守ることができました。

1548年 イエズス会フランシスコザビエルが薩摩に上陸し、全国行脚し布教開始。

1550年 ポルトガルが平戸入港。松浦氏が不快感を示し反撃。

1559年 三好長慶がイエズス会ガスパル・ヴィレラに保護状発令。

1569年 織田信長がイエズス会ルイス・フロイスに保護状発令。

1570年 大村純忠(すみただ)が長崎港をポルトガルに開いた。深堀氏が不快感を示し反撃。

1580年 大村純忠がイエズス会に長崎を寄進した。

1584年 スペインが平戸入港。

1586年 豊臣秀吉がイエズス会ガスパル・コエリュに保護状発令。代償として、明侵略のための船を提供することを要求。

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2012年6月26日 (火)

小唄の東西対決

なつかしいビデオを見つけました。昼休み、リラックスできました。

江戸の「大江戸出世小唄」

http://www.youtube.com/watch?v=uFeZPId1a9M&feature=related

江戸の「すみだ川」

http://www.youtube.com/watch?v=kl6agFUU4j4&feature=related

京の「祇園小唄」

http://www.youtube.com/watch?v=0su6IAd-RWM&feature=related

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2012年6月22日 (金)

マヤ文明と万世一系

昨夜見たBSテレビにマヤ特集を放映していました。マヤ文明はBC3世紀からAD16世紀まで存続していたそうです。スペインに滅ぼされていなければ、マヤの王様は何千年と長きにわたり、万世一系で君臨していたかもしれませんし、世界第一位の君主として、我が国の天皇陛下や、チベットのダライラマ並みに尊敬と礼賛を受けていたことでしょう。

日本国の安全が中国に脅かされ、アメリカの植民地憲法たる日本国憲法をいまだに掲げ崇め奉っており、憲法九条の会や社会主義者の陰謀で自国の軍隊を破棄され、いまだに自衛軍を持てず、拉致問題や海外在住の邦人の救出すらできないこの現状で、多くの愛国者の方々が、日本を憂いて、

日銀法改正

スパイ防止法制定

日本国憲法即時停止、帝国憲法改正

帝国陸軍・帝国海軍復活

教育勅語復活

を叫ばれております。どれも納得できるのですが、どうも教育勅語だけは少し検討を要するのではと思います。教育勅語でうたわれている万世一系は真実なのか?

天智天皇 → 志貴皇子 → 光仁天皇 → 桓武天皇

この辺は真実でしょう。しかしもっと古代にさかのぼるとどうでしょうか?

開化天皇 → 崇神天皇 ? 葛城王朝は実在したのか?

仲哀天皇 → 応神天皇 ? 応神の母・神功皇后は実在したのか?

中国資料に掲載されている倭の五王は近畿の大王と同じなのか?

倭国は近畿ではなく大宰府にあったのではないか?

武烈天皇 → 継体天皇 ? 継体とは誰か?

崇峻天皇や敏達天皇あたりの、蘇我氏による暗殺は事実なのか?

蘇我氏の出自はどこ? 任那の王族?

聖徳太子は実在人物なのか?

中国資料による阿毎多利思北狐(あまのたりしほこ)とは誰か?

遣隋使は誰が最初に派遣したのか?

中臣鎌足は誰か? ほんとうに藤原不比等は鎌足の次男なのか?

中大兄皇子は誰か?

大化改新は孝徳天皇の陰謀なのか? 

木簡研究により、評制から郡制に改めたという大化改新は嘘で、大宝律令の記述を50年以上前倒しした日本書紀の改ざんが判明。

日本書紀になぜ白村江の戦いの記述が乏しいのか?

石の土木事業の女帝だった斉明天皇はなぜ、白村江の戦いの前に、亀石で祈祷して遊んでいたのか? 造船や兵の召集などもっとほかに大事な仕事があるのではないのか? なぜ男の兵や、男の大工を把握し集めるための(白鳳期)戸籍木簡が、大宰府に出て近畿に出てこないのか? 

天智天皇の父である舒明天皇、母である皇極天皇はほんとうに即位していたのか? 在位していたとされる宮がどこかが不明確。

「二中歴」に基づく九州王朝説によれば、天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、別系統であると推定されており、たしかにそれを裏付ける資料も存在する。

天智と天武が兄弟だとすると、なぜ異常なまでの近親婚をくり返したのか?

持統天皇は誰か?

日本書紀の改ざんがかなり濃厚視されており、今後の研究を待たねばならないでしょう。

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2012年6月18日 (月)

旧制高等学校

旧制中学校は、公立が基本で、満12歳で入学試験があり、いまの中高一貫教育と同じように、5学年制でした。高等師範学校を卒業した「教師」が教え、地元の「生徒」が通っていました。「四修」といって、4年生の時に旧制高等学校を受験できました。入学倍率は5~10倍。受験科目は英語、古文漢文、数学、物理、化学、生物、地学、地理、日本史、西洋史、東洋史と広範囲でした。中学校を卒業するだけでも、社会に役立ついろいろな教養を身に着けることができました。

旧制高等学校は、国立が基本で、満16/17~20歳の少数精鋭・高等教育3学年制で、研究者養成の「帝国大学」に原則無試験で進学できる特権を有しており、正式には「高等学校」と称し、帝大を卒業した「教授」が教え、全国から集まってきた「学生」が通いましたので、「寮」を備えていました。留年率10~50%と厳しく、2年連続留年で放校処分とされました。

新制高等学校は、満15~18歳のマス・普通教育3学年制で、正式には「高校」と称し、大学の文理教育学部を卒業した「教師」が教え、地元の「生徒」が通い、サラリーマン養成の「新制大学」に進学するための入学試験を控えており、満18歳以上まで受験勉強に追われることになります。留年率は0%。

文科甲類 第1外国語が英語、1クラス30名で2クラス

文科乙類 第1外国語がドイツ語、1クラス30名で1クラス

文科丙類 第1外国語がフランス語、1クラス30名で0/1クラス

理科甲類 第1外国語が英語、1クラス30名が2クラス

理科乙類 第1外国語がドイツ語、1クラス30名が1クラス

理科丙類 第1外国語がフランス語、1クラス30名で0/1クラス

文科甲類は法学部進学コース、文科乙類は経済学部・文学部進学コース、理科甲類は理学部・工学部進学コース、理科乙類は医歯薬学部進学コースが基本です。文科丙類や理科丙類をもつ学校は少数でした。1学年につき文科3クラス、理科3クラスの約200名が基本です。旧制第一高等学校(いまの東京大学教養学部1学年3000名)や旧制第三高等学校(元・京都大学教養部1学年2500名)は各々帝大に隣接しており、帝大付属高等学校の様相を呈していたため、1学年8~12クラスの約300~400名と大所帯だったようです。

教育内容は、外国語はいまの大学院レベル、理数系はいまの大学一般教養レベルで、理数系の天才は自主的に大学学部~大学院レベル以上の学習をこなしており、文科より必修単位が多く忙しかった理科学生の学力はピンキリだったようです。

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2012年6月17日 (日)

映画「スノーホワイト」をみました

グリム童話の「白雪姫」のストーリーとはだいぶんかけ離れたストーリー展開でした。かわいくない女優陣より、男優陣のイケメンぶりが目立ちました。

ヴァイキングが来襲する前のイングランド王国はこんな状態だったのかな?とか、いやフランク王国メロヴィング朝が背景にあるのかな?とか、いろいろ中世ヨーロッパが楽しめた映画でした。

王子様と結婚して幸せな人生を送りました、チャンチャン♡ ではない、現代風の自立した強い女性をヒロインとして描いていましたね。

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2012年6月13日 (水)

大宰府で最古の戸籍木簡発見

Yahooニュースで何気にビッグニュースですね。推定697年の木簡だそうで、奈良には藤原京がありました。697年といえば、持統天皇から文武天皇に代わる年。

603年 冠位12階

646年 乙巳の変。蘇我入鹿殺害され、甘樫丘で蘇我蝦夷自害。

     孝徳天皇即位。難波京遷都。

663年 白村江の戦い。

664年 冠位26階

668年 近江宮遷都。

672年 壬申の乱。飛鳥浄御原宮遷都。

683年 富本銭。

684年 八色の姓。

685年 冠位48階

686年 天武天皇崩御。大津皇子暗殺。

689年 草壁皇子病死。飛鳥浄御原令。

694年 藤原京遷都。

696年 高市皇子(持統天皇?)死去。

697年 文武天皇即位。

701年 大宝律令。冠位30階

710年 平城京遷都。

木簡写真を拡大してみますと、「ア」というカタカナが・・・。これはカタカナのアではなく、「部」の略字だそうです。へぇ!

嶋評

戸主 建ア 身麻呂戸。又附去○○○。

政丁。次得麻呂。兵士。次伊支麻呂。政丁。

占ア 恵○。川ア里。占ア赤足○○○○

建部とは大工さん、占部とは占い師のことかな。学者さんのコメントでは、奈良の律令制が北九州にまで及んでいた証拠とか。これって、逆で、北九州の律令制度が奈良に来たんじゃないの。白村江の戦いに多数の兵士を駆り出すのに戸籍は必需品ですから。大宝律令以前の戸籍木簡が奈良で一つも見つかっていないというのはヘンだよ。奈良の豪族たちは白村江の戦いに不参戦なんだから、戸籍はいらんでしょ。とにかく「最古」の栄誉は当分の間、絶対的です。

木簡の「進大弐」は冠位48階だそうで、43番目の身分です。

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2012年6月12日 (火)

幕末の尾張藩

徳川幕府の親藩は次の三つですね。

紀州藩、水戸藩、尾張藩

伊勢商人の出資金で鳥羽伏見の戦いを制した西郷隆盛が、無一文になって、大坂・京商人を服従させ、その出資金でいよいよ江戸へ攻め上らんとしたとき、東海道、中山道で大きな壁になったのが、親藩の尾張藩でした。なぜ幕臣中の幕臣である尾張藩が、薩長維新軍に無血開城したのか、不思議に思いませんか?

幕末の尾張藩

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著者:桜井芳昭
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初代尾張藩主は家康9男・義直(よしなお)で、9代藩主・宗睦(むねちか)で断絶。一橋家や将軍家のこどもが養子に入りました。ところが、みなさん、倹約知らずの贅沢三昧で、尾張藩の財政は傾く一方。家老以下の武士たちの不満は増すばかりでした。

尾張藩にはいずこも同じ、2派閥がありました。

家老・成瀬派 vs  家老・竹腰派

慶勝+金鉄党(反幕攘夷) vs  弟・茂徳(もちなが)+ふいご党(佐幕開国)

金鉄党が中心になって、幕府に訴え、水戸藩から養子として徳川慶勝(よしかつ)を、1851年、14代藩主に迎え入れることに成功。もうこのころから、反幕の機運が藩内に高まっていたのです。

1791年 寛政令 異国船の監督は厳重に行う

1806年 文化令 食糧・薪・水を与えて穏やかに異国船を打払う

1825年 文政令 フェートン号事件を受けて、発砲して打払う

1842年 天保薪水令 アヘン戦争を受けて、穏やかに打払う

名君・徳川慶勝は、自ら倹約に勉め、知多半島の漁民・農民に警戒を怠らないように訓告。武士といっしょに軍事訓練を開始していました。農兵は高杉晋作の奇兵隊だけではありません。長州征伐・敵方の徳川慶勝もはじめていたのです。

1858年 大老・井伊直弼が朝廷の許可なく、日米修好通商条約締結。

水戸藩・徳川斉彬(なりあきら)、越前藩・松平慶永(よしなが)、尾張藩・徳川慶勝が、不時登城して、蟄居謹慎を食らいました。親藩や譜代の大名とはいえ、勝手に江戸城に登城することは、将軍家に対する謀反とみなされたのです。

1861年 和宮降嫁。警護で莫大な人件費を使用。大赦で、慶勝の蟄居が解かれ、藩主に復帰。

1864年 水戸藩・天狗党を追っ払うのに莫大な人件費。

1864年 慶勝を大将として、第一次長州征伐。莫大な軍事費。

1865年 家康250回忌。隊列を組んでいかねばならず、莫大な人件費。

1865年 第二次長州征伐に反対。経費をこれ以上かけたくない思いで。

1865年 師崎、内海の2か所に砲台・台場完成。

1866年 薩長同盟。

1867年 慶勝が中心となって、公武合体を推進。

1867年 王政復古クーデター。会津藩・桑名藩を打払って、薩摩藩・土佐藩・安芸藩・越前藩・尾張藩が御所を警護。徳川慶喜を締め出そうとする動きに、旧幕臣たちが二条城で大激怒。徳川慶勝と松平慶永が二条城の怒る幕臣たちをなだめにはいりました。

1868年元旦 示現流を誇る薩摩藩士による江戸放火に対し、「討薩の表」を朝廷に提出することが決定。徳川慶勝と松平慶永の仲介の甲斐あって、御所での発砲は厳禁とし、徳川慶喜を御前会議に加えることを承諾決定。

1868年1/2 フランス式徳川陸軍と新撰組を筆頭に、幕府軍が御所に進軍開始。鉄砲の中には弾丸をこめていなかった。

1868年1/3 鳥羽で一発の銃声が発せられ、鳥羽伏見の戦いがはじまった。

1868年1/4 数で劣勢だった薩長軍に錦の御旗が立ち、徳川慶喜は朝敵となった。形勢を日和見していた土佐藩と肥前藩が薩長に加勢開始。アームストロング砲が炸裂。慶喜は、足利尊氏にだけはなりたくなかったので、徳川海軍の軍艦で江戸に帰ってしまった。多くの幕臣は、淀藩による入城不許可に加え、津藩の裏切りによる幕府軍への大砲攻撃などを浴び、近代装備の幕府軍が総崩れ。

1868年1/6 青松葉事件。尾張藩の佐幕派が幼藩主をかついで籠城を決行。怒った慶勝が佐幕派を討伐一掃した。

1868年1/7 徳川慶喜追討令。

1868年1/15 幕臣・小栗忠順(ただまさ)が慶喜によって罷免された。

1868年1/24 伊勢商人から供出された軍資金で江戸への進軍準備を固めた新政府から、尾張藩に褒美金が下った。尾張藩は隣接する東海の諸藩に新政府側に味方するよう説得した。

1868年2/7 尾張藩を新政府軍の先頭に据えて、江戸へ進軍。

1868年2/25 幕臣・小栗忠順(ただまさ)と親しかった京・大坂商人から新政府に軍資金供出の願いが出された。遅いわ!!

1868年4/4 江戸城無血開城。

1868年4/6 小栗忠順斬首。

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2012年6月11日 (月)

チョイと姐さん、一節うなっとくれ

じめじめとイヤな梅雨の季節になりました。ホタルの梅雨が明ければ、花火が打ちあがり、姐さんの小唄が聞こえてきます。

マイベスト3はこれかな。

松の木小唄

http://www.youtube.com/watch?v=P8fNiuWT9_c

芸者ワルツ

http://www.youtube.com/watch?v=C8tjNOWCS_s

トンコ節

http://www.youtube.com/watch?v=xOO3fDxxUhM

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2012年6月 8日 (金)

任那(にまな)を復活した歴史観

中国も韓国も好き勝手に歴史解釈したり、歴史捏造をしているのに、なぜ日本だけが向こうに合わせる必要があるのか?

隣国にご迷惑をおかけしたから?そう思われる方は歴史の勉強不足でしょう。

日本史も戦前の生徒たちが学んでいた歴史観に戻るべきであろう。自国の歴史を隣国と相談して決めるような国は世界にはない。

日本国は倭国の歴史を抹殺することで、絶妙な外交バランス感覚を完全に失ってしまった。敵にするか味方にするか、それとも目耳口をふさいで他人行儀を固守するか。

第一期 南無イギリスで親英一色 

1865年薩英同盟~1923年日英同盟破棄

第二期 南無ソ連で親ソ一色 

1924年スターリン体制~1945年敗戦革命

第三期 南無アメリカで親米一色 

1945年敗戦革命~1972年日中国交正常化

第四期 南無中国で親中一色 

1972年日中国交正常化・台湾(中華民国)断交~

いまの日本史教科書にはこの第二期が抹殺されている。東大主導のもとで行われている文科省の隠ぺい工作も崩壊間近ですが。

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2012年6月 6日 (水)

AKB48総選挙

大島優子さん、第1位おめでとうございます。冷静に判断すれば、投票総数が昨年より2万票減っているみたいですが、ライバルがいないということかな。まゆゆはじわっと1万票以上伸ばしていますし、来年の総選挙が楽しみだね。

お祝いに駆け付けたあっちゃん、なんだかまた一段ときれいになったな。

SKE48、松井玲奈がんばれ!

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2012年6月 5日 (火)

すばらしい討論会

日本の行く末を担うアラフォーの先生方の討論は、すべてうなづくことばかりです。

http://www.youtube.com/watch?v=Je2JPJHN-bQ&feature=relmfu

中野剛志先生、アラフィフに物申して曰く、

「80年代バブル期の若者の過ごし方は決定的にまずかったですね。いまのアラフィフは、レッテル貼りで簡単に知のファッション化をしてただけ。なんでもっとしっかり勉強して、既存のシステムを批判し、自分たちのシステムを作り上げなかったのか?風穴をあけることはしても、アラフィフはシステムを完成したこともなく、自分たちが作ったシステムを守ったこともない。」

たしかに、そうなんだなぁ。栗本慎一郎氏の「パンツをはいたサル」とか、土居健郎氏の「甘えの構造」なんて、いくら読んでもなにを言っているのかわからんのに、社会学の権威として大流行してたよなぁ。オレは当時から世間の騒ぎをよそにして、新制大学は旧制高等学校にもどり、真の学問の場を取り戻す必要性を強く感じていたんだが、安易な生き方を選んできたのかもしれん。旧制高等学校を卒業した教授たちがまだ生きているうちにね。高校って、学問を学ぶ「高等な」学校という意味だよね。

倉山満先生、手厳しいですね。

「適塾だけがヨーロッパの大学に匹敵した。官僚養成専門学校がいつのまにやら、おこがましくも、東京帝国大学と名乗ったが、いったいどこに学問の場があるのか?」

まったくその通りです。現在、大学教授を務めているアラフィフは下に降りてきて、2チャンネルで叩かれ慣れたアラフォーと激論を交わし、さっさと白旗を挙げなさいとまで言われました。

「東京帝大から無試験で官僚になれるのはおかしいから、京都帝大を創設し、高等文官試験を一応つくった。しかし、東京帝大の授業内容を試験したわけだから、京都帝大が東京帝大に勝てるわけがない。」

そうそう、日清戦争の戦利金で京都帝大をつくったんだね。東大法学部も京大法学部も、国民を裏切り、社会主義革命に導かんがために、太平洋戦争(大東亜戦争)をひきおこし、共産主義者が起草した日本国憲法を発布せしめた大罪にて、両校ともに切腹ですな。即時廃校を要求する。

幕末の尾張藩のように、アラフィフはただちに既得権益を捨て、アラフォーに維新の道を譲り、最後に武士としての意地を示すべき時なのだろう。

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2012年6月 3日 (日)

甦る倭国の歴史

海系のあま→ 阿毎、海人、天

山系のやま→ 邪馬、山、大

海の古代の民、阿曇(あずみ)氏は阿毎(あま)氏、息長(おきなが)氏、宗像(むなかた)氏などを分派しながら、日本国中に分散。阿曇氏の帥升(すいしょう)が委奴国を倒し、倭国をたてる。

帥升のあと、神武天皇の子・神八井耳(かむやいみみ)の子孫が筑紫宮家(ちくしみやけ)氏となり、倭国入りして倭国乱れる。

筑紫宮家氏が道教の巫女・卑弥呼をたてて、帥升の倭国を倒し、邪馬台国をたて、倭国の当主となる。

宮家氏の倭国が五王を輩出。

522年、筑紫君磐井が宮家氏の倭国を倒して、俀(たい)国(大委国)をおこす。「善記」と建元。

526年、越王ヲオド(継体天皇)が大和朝廷を倒す。

528年、俀国入りして新羅出兵の邪魔をした磐井を倒すが、磐井の子・葛子に九州自治を認める。

532年、任那日本府滅亡。

587年、丁未の乱で、任那から帰化した蘇我氏(蘇我馬子)が物部本宗家(物部守屋)をたおす。

600年、俀国の多利思北孤(たりしほこ)が遣隋使。「日出づる処の天子」(皇帝)を、隋の煬帝に向けてはじめて号した。

607年、大和の厩戸皇子(うまやどおうじ・聖徳太子)が、小野妹子を大使とする遣隋使を派遣。

618年、多利思北孤が倭京をひらく。「倭京」と改元。この年、隋が滅んで唐となる。

643年、蘇我入鹿が聖徳の子・山背大兄王を謀殺。

644年、蘇我蝦夷が俀国の当主となる。

646年、乙巳の変で、孝徳天皇が俀国の当主を奪い返す。難波京をひらく。

652年、孝徳天皇が皇帝を号し、「白雉」と改元。

653年、中皇命(なかつすめらみこと・中大兄)が孝徳天皇にクーデターをおこし、俀国当主につく。

658年、孝徳の子・有間皇子が謀殺される。

661年、中皇命が皇帝を号し、「白鳳」と改元。

662年、白村江の戦い

667年、倭に進駐した唐が大和の葛城皇子を新しい倭の当主と認めた。

670年、葛城皇子は倭の国号を日本と改め、倭根子天皇と称した。中皇命の子・サチヤマが帰国。

671年、壬申の乱で、中皇命の弟・瀛皇命(おきつすめらみこと・大海人皇子)が、飛鳥浄御原宮で倭根子天皇に即位。

684年、天武天皇が唐の進駐軍を一掃し、倭国皇帝と号し、倭国復興。日本国を格下げとし、倭国の跡継ぎを大津皇子、日本国の跡継ぎを草壁皇子と定めた。「朱雀」と改元。

685年、天武天皇崩御。大津皇子謀殺。

686年、高市皇子が倭国皇帝に即位。草壁皇子が倭根子(日本国)天皇に即位。「朱鳥」と改元。

689年、草壁皇子崩御。

690年、鵜野讃良が倭根子天皇に即位。

694年、新益京(藤原京)に遷都。

695年、高市皇帝が大化改新を施行。「大化」と改元。

696年、高市皇帝崩御。長屋親王が廃太子。鵜野讃良が称制をひく。

697年、文武天皇が倭国皇帝に即位。鵜野讃良が文武天皇に倭根子天皇を譲位。

698年、日本国の権力者、藤原不比等が地方に国司・郡司を派遣。

699年、不比等に反抗・反乱する勢力を一掃。仏教徒・義淵が倭国国教であった道教を封じ込めるため暗躍。

701年、日本国が九州から倭国レガリアを奪取して、大祝賀会を催し、大宝律令を発布し、「大宝」と改元。

盗まれた日本建国の謎

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倭国の宗教 

  高木神(たかぎのかみ)・・・山の神

  月読尊(つくよみのみこと)・・・海の神

  道教(火葬を不可とする)・・・卑弥呼以来の「神=真人」思想

日本国の宗教 

  天照大御神(あまてらすおおみかみ)

  高御産巣日神(たかみむすびのかみ)

  仏教(火葬を可とする)

二大国家間には、政争だけでなく宗教戦争もあったのですね。日本書紀では栄光の外交史を抹殺され、万葉集では、詠み人知らずの歌とされ、DNAを根絶された倭国の恨みは今も生き続けている。

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おもしろい東洋史の勉強

http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/index.html

宮脇淳子先生のネット講義で、東洋史の勉強がおもしろい。いままでの常識を全くくつがえす学説。旦那の岡田英弘先生の座右の銘がまた感動!

群れることをよしとせず

アリストテレスを信じる御用学者を下に見たニュートンのごとく、真の学者はこうでなくちゃ。そう考えると、杉山正明・京大教授はこのご夫婦の学説をパクっているらしく、学者の片隅にもおけねぇ奴だ。モンゴル語を読めないモンゴル学者ってなんじゃ?アマゾンに類似本がぎょうさん出ていますな。

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