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2012年4月 7日 (土)

山口、下関、長府、門司を訪ねて

新幹線新山口駅を下車し、JRで山口駅へ行ってきました。まずは大内義弘の菩提を弔っている瑠璃光寺。もとは香積寺と呼ばれていました。もともと長州を治め、百済・琳聖太子の子孫と伝えられる勇猛果敢な大内氏は足利義満の天下取りに恩功が認められ、恩賞として紀伊和泉の所領をいただきます。しかし応永の乱で、たった7年で所領を義満に召し上げられました。分家・陶氏、大友氏との確執はとても激しいものでした。大内氏の敵方になった陶弘房の菩提も弔われています。

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室町時代に作られた五重塔です。桜が満開でした。

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湯田温泉にはいってきました。

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ケガを癒していた白狐をみて、温泉のありかを知ったそうです。

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下関に移動し、カモンワーフと唐戸市場をみました。

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日清戦争で、伊藤博文と李鴻章が下関条約を結んだ春帆楼(しゅんぱんろう)に宿泊しました。

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もともと広島城で停戦条約を結ぶ予定でしたが、関門海峡を2隻の軍艦を行ったり来たりさせて、まだまだ日本には戦う余力が残っているんだぞと演出するために、下関を停戦条約の地に変更しました。

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前菜です。鯛の臓物塩漬けが珍味でした。

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安岡ねぎと呼ばれる、漁師さんが砂浜で育てているふく専用のねぎをつつんで、てっさを食べました。

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ふくの天ぷらです。

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こんぶ包みで蒸した白子です。とてもおいしかったです。

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てっちりは仲居さんが取り分けてくれるのが、春帆楼流です。

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昭和20年の空襲で、春帆楼は焼失しましたが、下関条約のときに使用されたイスとテーブルは蔵の中に保存してあったために、実物が今なお現存しています。最古の平家物語です。

春帆楼はもともと眼科医の診療所でしたが、廃院になった跡地に伊藤博文が旅館として再生させました。

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壇ノ浦の戦いで、平清盛の妻・時子(二位の尼)にしっかり結びつけられた安徳天皇の死を悼んで、阿弥陀寺が作られました。明治維新の廃仏毀釈で、赤間神宮に変えられました。安徳天皇の遺体はなく、実は少し離れた岸に二位の尼の遺骸と、子供の遺骸が打ちあがりました。その子供こそ安徳天皇にちがいないと漁師たちは思い、厚く葬っているそうです。ここだけの話、宮内庁がひそかに安徳天皇の墓を管理しているそうです。

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海峡ゆめタワーの展望台からみた壇ノ浦です。

なぜ壇ノ浦で平家は源氏に決戦を挑んだのか?

平知盛は忠盛・清盛以来築かれた下関の利権だけは源氏に渡したくなかったからです。倭(九州王朝)の残党がいた九州で戦いを展開できれば、平家は勝っていた可能性があります。私も伊豆から宮崎日向へ落ち延びた平家落武者の末裔です。

なぜ源義経は頼朝に戦功を認めてもらえなかったのか?

舟師や馬を射るなど、卑怯な戦法を用いて勝ったこと。三種の神器のひとつ、草薙剣を失ったこと。義経が安徳天皇と知って二位の尼を殺そうとしたこと。

安徳天皇死去前に後鳥羽天皇はすでに即位しており、後白河法皇が義経の乱行に関与していたのかもしれません。

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長府に移動し、下関市立博物館をみました。狩野の書いた毛利家大名の肖像画や馬関戦争の弾丸がありました。現在、下関市と高杉晋作末裔が不仲になっており、晋作の遺品はすべて萩市に移されたそうです。

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高杉晋作が奇兵隊を立ち上げた功山寺です。内部公開されており、地蔵菩薩と二十八部衆立像を直接見ることができたのはラッキーでした。都から長州に落ちた七卿に謁見した晋作は奇兵隊とともに勝どきをあげました。
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毛利元就のとき、萩の本家と、長府の分家にわかれました。

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すばらしい日本庭園です。

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関門連絡船で下関から門司港に移動。門司港レトロ展望室からみた壇ノ浦です。

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なつかしの日本食堂(にっぽんしょくどう)の展示がありました。食堂車は旅のロマンをそそりますね。

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博多に移動。華味鳥(はなみどり)中洲本店で、水炊きを食べました。とてもおいしかったです。

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