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2012年2月16日 (木)

日本書紀は日中合作

すごい大作が出たものです。漢文原文に対する明哲な眼がすごいと思います。上には上がいるようで、江戸時代、懐徳堂の五井蘭洲は漢文の誤用のみならず、著者の文筆癖を見破っていました。

日本書紀成立の真実

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681年、天武天皇は歴史書発行の詔勅を発布します。さっそく複数の日本人官僚は、草稿を書きます。拙い漢文力ゆえ、誤用はあるは、日本人癖はあるわ。日本人癖のことを倭習といいます。どれも朝鮮半島なまりが色濃く出ています。朝鮮半島にはいってきた中国漢文は、当時としては時代遅れ、いや流行遅れの骨董品でした。だから日本書紀研究には好都合なわけですね。草稿の著者の中には、663年白村江の戦いで滅んだ百済の亡命者や、668年に滅んだ高句麗の亡命者もたくさん含まれていたことでしょう。

データも集まったところで、いよいよ編纂にあたったのが、唐から来た音博士。続守言(しょくしゅげん)薩弘恪(さつこうかく)。中国人には日本の神話なんてわかりません。とりあえず、日本書紀全30巻のうち、第14巻(雄略紀)から本場正統派の中国漢文で、編纂を開始しました。日本人の書いた草稿文の中の、明らかに間違った表現は正しく添削し、妹(いも)は日本じゃ妻のことなんか、へぇ、これはまあ残しとこうという具合に、日本人癖がところどころに残りました。691年、ふたりは持統天皇から表彰されました。

中国人が書いた部分はα群と呼ばれ、続守言が第14~21巻を担当、薩弘恪が第24~27巻を担当。続守言は白村江の戦い(663年)で百済に捕らえられた唐人ゆえ、もう大年寄り。薩弘恪も結構なお年。第22、23巻(推古、舒明紀)は、続守言が死んでしまって未完成のままでした。第27巻(天智紀)も、720年、時の最高権力者、藤原不比等の臨終が差し迫っているため、天皇にできました!と報告する上撰を急ぎ、ずさんなつくりのまま。

699年、文武天皇は、壬申の乱(672年)で負けた側の斉明天皇・天智天皇の御陵を建設し、復権を図りました。701年、大宝律令を発布。続守言も死んでおり、薩弘恪も引退していたのでしょう。日本人の山田史御方(やまだのふひとみかた)を日本書紀編纂の責任者として召し上げました。彼は新羅の留学仏僧で、仏典お経なまりの漢文の使い手でした。渡来系かもしれないけど、一応日本人みたいです。彼の担当はβ群と呼ばれ、第30巻(持統紀)以外をすべて補筆しました。707年、大学教授お勤めご苦労さんの表彰。721年、漢文の日本人大家として表彰されました。といっても本場中国人にはかなわないし、倭習という日本人なまりはきついし、間違いだらけの文章を書いていたんですがね。第13巻(安康紀)を書く段になってさすがに疲れを感じたのか、もうここは続守言と薩弘恪が第14巻を書いている通りですわと簡単にスルーする始末。

仕上げはおかーあさん

NHKの赤ちゃんの歯磨きデビュー番組流に言えばこうかな。714年、政治色濃厚なあやしげな日本人がふたり登場。紀朝臣清人(きのあそんきよひと)が第30巻(持統紀)を担当。ずっと身分が低い三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)が全体ところどころに加筆しました。倭習ふんぷんとした日本人なまりの漢文で。

第22巻(推古紀)では、聖徳太子の十七条憲法も三宅の加筆。第25巻(孝徳紀)だって三宅の修正跡が・・・・・。三宅、あやしいーぞぉ。

721年、藤原不比等の死後翌年、日本書紀が官僚の日本史教科書として制定されました。

真実の古代史が知りたいよー!!

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