なんだか新益京(あらましきょう)=藤原京末期の政権争いが、なんとなくおぼろげにつかめてきた感じです。
皇帝を樹立した倭国=九州王朝があまりにも外交を手広くやっていたために、唐からも新羅からも、正統国家としてなかなか認識してもらえなかった日本国。つまり天智天皇がめざした、近畿を宗主とする中央集権国家でしたが、遣唐使も倭国と日本国の合同チームだった可能性が強くなってきています。どちらが大使になるかでケンカもしました。802年、桓武天皇の御世、新羅王から(日本国ではなく)倭国に王子の人質が送られました。遣唐使の空海は、806年、(倭国に)着岸し、807年、わが国(日本国)に帰国しました。平安時代まで倭国と日本国の並立状態が続いていました。
皇帝 ≠ 神 つまり、皇帝 = 天の子ども = 人
天皇 = 神 つまり、天皇 = 天
二つの異なる統治形態国家の激しいぶつかり合いが、飛鳥・白鳳・奈良・平安時代と長年にわたり繰り広げられました。
663年、白村江の戦いで、百済王から全幅の信頼を得ていた九州王朝最後の皇帝、中皇命=那珂皇命(なかつすめらみこと)=中大兄が死去。近畿の葛城皇子=中大兄皇子が称制を敷く。
668年、近江京で中大兄皇子が即位を果たし、天智天皇と称する。
669年、盟友・中臣鎌足=藤原鎌足が天智天皇に死を賜る。即位を誡めた罪?
671年、天智天皇が死去し、近江京で天智の大友皇子が即位し、弘文天皇となる。
672年、那珂皇命の大皇弟である大海人皇子が近畿で挙兵。壬申の乱で弘文天皇に勝利し、飛鳥浄御原宮で即位。天武天皇と称する。志貴皇子は天武方につき、鎌足の次男・藤原不比等は田辺氏とともに天智方についた。
686年、天武天皇が死去し、高市皇子が飛鳥浄御原宮で即位。持統天皇と称する。
689年、天武の妻であった天智の娘、鵜野讃良(うののさらら)の期待の息子だった草壁皇子が死去。
694年、持統天皇が新羅王宮をモデルとした藤原京に遷都。天智の第7皇子だった志貴皇子の歌。采女らの 袖吹き返す 明日香風 都を遠み いたづらに吹く
697年、持統天皇が死去。鵜野讃良は称制を敷き、クーデタによって長屋王=長屋親王の即位を阻止する。草壁皇子のこどもである軽皇子が藤原京で即位し、文武天皇と称する。鵜野讃良は太上天皇として、文武の後見役となる。
699年、斉明天皇と天智天皇の復権を図るべく、御陵を建設する。「三国史記」新羅本紀では、西日本に流血を伴う反乱が相次ぐとある。
700年、薩摩隼人の大反乱。
701年、文武天皇が大宝律令を制定し、鵜野讃良が文章博士・山田史御方(やまだのふひとみかた)に九州王朝の歴史を抹殺するように指示。まさに大化の改新ならぬ、大宝の改新ではないだろうか? 唐を滅ぼした周の則天武后(690~705在位)が、日本国天皇を承認。天智が倭を廃し、新たに日本と命名した国が中国によって正式に承認されました。大海人皇子の里親であった凡海(おおしあま)氏が滅ぼされ、大伴御行が死去し、柿本人麻呂や大伴安麻呂が失脚した年であります。
左大臣 多治比嶋(たじひのしま)78歳、701年没。
右大臣 阿部御主人(あべのみうし)67歳、703年没。
大納言 石上麻呂(いそのかみのまろ)62歳、藤原不比等(ふじわらのふひと)44歳、紀麻呂(きのまろ)43歳が中納言から大納言に昇進。みな壬申の乱での天智側。
中納言 大伴御行(おおとものみゆき)56歳、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、大伴安麻呂(おおとものやすまろ)が死去あるいは左遷。中納言は一時廃位。みな壬申の乱での天武側。
702年、評制の国造(くにのみやつこ)を郡制の郡司に格下げし、中央から地方に新たに任命した郡制の国司を派遣。
704年、鵜野讃良が死去。皇族としてははじめて火葬される。
707年、文武天皇が死去。天智の娘、阿閇皇女(あへのひめみこ)が藤原京で即位し、元明天皇と称せられる。
710年、元明天皇が平城京に遷都。
715年、草壁皇子の娘、氷高皇女(ひたかのひめみこ)が元明から譲位され、平城京で即位。元正天皇と称せられる。
720年、藤原不比等が死去。
724年、天武系を自負する首皇子(おびとのみこ)が元正から譲位され、平城京で即位。聖武天皇と称せられる。
729年、長屋王が呪詛の嫌疑をかけられて、藤原氏に殺される。
740年、藤原広継による倭国の反乱。
749年、聖武の阿部内親王が譲位によって即位し、孝謙天皇となる。
752年、大仏開眼
756年、聖武天皇が死去。
758年、藤原仲麻呂の陰謀で、孝謙から譲位された大炊王が淳仁天皇となる。
759年、倭国を認め、日本国を認めない新羅に対し、仲麻呂は新羅討伐を計画したが、未遂に終わる。
760年、光明皇后が死去。
764年、仲麻呂の乱に連座した淳仁天皇が廃位され、淡路島へ流刑となる。孝謙天皇は重祚し、称徳天皇となる。
770年、称徳天皇の死去で、志貴皇子のこどもであった白壁王が平城京で即位し、光仁天皇を称する。天武の血が混じっていない天智系の完全復活であった。
772年、聖武天皇の長女・井上内親王(いがみないしんのう)、つまり天武系と、天智系・光仁天皇のあいだのこどもだった他戸親王(おさべしんのう)が、呪詛の嫌疑をかけられて、五條市に幽閉。
775年、他戸親王と井上内親王、親子が幽閉先で毒殺され、天武系の血は完全に抹殺された。
781年、光仁天皇の山部王(やまべおう)が、光仁に譲位され平城京で即位、桓武天皇になる。
784年、桓武天皇が長岡京に遷都。
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