江戸時代の日本は、中国・清とオランダのみと交易し、例外的に朝鮮からは京都の禅寺・相国寺経由で通信使を受け入れていました。長崎・出島だけを開港しました。
1800年ころ、ロシア船による日本侵攻や、オランダ(←ナポレオンに一時期滅ぼされたので、正式にはバタヴィア共和国。1815年ウィーン会議で再興。)船と偽り入港を試みたイギリス・フランス・プロイセン船などに、警戒を強めた江戸幕府は、外国船打払令を短期間発令しましたが、清が欧米列強によって植民地化されアヘン中毒患者であふれてしまう状況をみて、老中・水野忠邦は薪水給与令に切り替えました。
1854年(安政元年) 日米和親条約
アメリカ大統領 フランクリン・ピアース(民主党)
アメリカ全権総督 ペリー 59歳
朝廷 孝明天皇
征夷大将軍 徳川家定 (摂政や関白ではない)
老中首座 阿部正弘 34歳
この下に日本全権・アメリカ応接掛5人衆がいました。
1 林復斎 (昌平坂学問所・大学頭) 53歳
2 井戸覚弘 (町奉行) 50歳
3 鵜殿長鋭 (目付)
4 松崎満太郎 (儒者)
5 伊澤政義 (浦賀奉行) 41歳
そして通訳は、大秀才だった長崎蘭通詞・森山栄之助を、はるばる長崎から呼び寄せました。通訳も大事ですよ。ペリーの恫喝の意味を最初に理解したのは通訳ですし、決して動じない肝っ玉は、なかなか持てません。
1855年(安政2年) 日露和親条約
日米和親条約締結後、下田・函館が新たに開港され、ロシア来航。日本全権・下田ファイブは次の通り。
ロシア プチャーチン 51歳
1 筒井政憲 (西丸留守居・学問所御用) 77歳
2 川路聖謨(としあきら) (勘定奉行) 53歳
3 松本十郎兵衛 (目付)
4 古賀謹一郎 (儒者)
5 村垣与三郎 (勘定吟味役)
通訳はわれらがスーパースター・森山栄之助。
対等外交(←最初は不平等条約ではありません!)の先鋒を切れたのは、昌平坂学問所の儒学教授と、長崎私塾の蘭学者のおかげでした。そして日本に正確な国際情勢を迅速に伝えてくれた出島オランダ商人に感謝しなくてはいけません。この誇るべき事実が教科書に載っていないのは、自虐史観の戦後教育の一環でしょう。
1851年5月
フィルモア米大統領が、日本との条約交渉を東インド艦隊に指示。その目的は・・・
(1)イギリスに独占された郵船事業の一角を崩すべく、太平洋郵船航路を開設する。
(2)アメリカ捕鯨船の難破に際して、難破船の保護をする。
1852年1月
ペリーが東インド艦隊司令長官に着任。
1852年4月
オランダ商館長クルチウスが、アメリカ来航を長崎奉行に伝達し、阿部正弘がその極秘情報をキャッチ。
1852年11月
ペリー艦隊が中国駐留の東インド艦隊と合流すべくアメリカ出航。太平洋横断ではなく、大西洋→アフリカ沿岸→インド洋と迂回航路をとった。
1852年12月
阿部正弘が、琉球を支配していた薩摩藩・島津斉彬の協力を求める。ペリー日本出航の極秘事項が世界に知れる。アメリカに対抗意識を燃やしたロシアがプチャーチン派遣を決定。ペリーの頭の中では、日本がもし条約締結を拒否した場合、琉球の港を武力占拠する予定でした。
1853年3月
米大統領がフランクリン・ピアースに交代。
1853年4月
ペリー艦隊がマカオ着。オランダ語通訳ポートマンを雇用。弁務官マーシャルがペリーの許可なく、東インド艦隊を上海に派遣していたため、日本出航が遅れる。上海在住のアメリカ人アヘン貿易商を太平天国の乱から保護するため。
1853年5月
琉球・那覇に入港。
1853年6月
将軍・徳川家慶が逝去。
1853年7月
幕府による大砲発砲を避けるべく、浦賀沖に停泊。黒船の周囲を警備担当の小舟が囲む。蘭通詞・堀達之助と浦賀奉行所与力・中島三郎助が、小舟から「I can speak Dutch!」と叫び、乗船を許可される。中島三郎助は自分を副奉行だと詐称。
「国書を渡したい。奉行を呼んでくれ。」
ペリーの申し出を受けて、堀達之助は翌日、浦賀奉行所与力・香山栄左衛門を呼び寄せ、香山を奉行だと詐称。
「国書を受け取らないのなら、江戸へ軍艦を進める。」
香山栄左衛門はいったん井戸弘道(浦賀奉行)と相談すべく、黒船から小舟に乗り換えて江戸入りしたが、幕閣が決断できず、再び黒船に帰還。国書を許可なく受理しました。ペリー艦隊は、日本国皇帝の返答をあらためて聞きに来ることを約束して、計10日間の滞在ののち浦賀退去。琉球・那覇に入港し、恫喝外交で琉球との自由貿易を確保。
1853年8月
ロシア・プチャーチンが交易を要求すべく長崎来航。長崎奉行所でロシア国書を受理。幕閣は、水戸藩・徳川斉昭の攘夷論が通り、交易拒否の姿勢を崩さず。露土戦争勃発が功を奏し、給油地確保困難となり、プチャーチン退去。
1853年10月
阿部正弘が大型船解禁令を発令。オランダから蒸気船を購入し、長崎海軍創設を計画しました。そのひとつが咸臨丸。あとは観光丸と朝陽丸。自国船の造船も許可。オランダ商館長クルチウスと、長崎奉行だった水野忠徳(ただのり)と大沢秉哲(のりあき)が交渉にあたった。通訳は西吉兵衛と森山栄之助。クルチウス曰く、「清は開港しなかったから戦争になって強制的に開港させられた。だから日本も開港したほうがいいですよ。」と。
1853年11月
徳川家定が将軍位に就く。
1854年1月
ロシア・プチャーチンが長崎へ緊急来航。あわてて筒井政憲と川路聖謨が応接。洋通詞の箕作阮甫の活躍で時間稼ぎ。幕府公認・蘭通詞の森山栄之助も加わり、オランダ語で正式交渉し、引き延ばし策を成功させる。
1854年2月
プチャーチンが長崎を離れた3日後に、ペリー艦隊がボートで水深測量しながら江戸湾深くに進行。浦和奉行所組頭・黒川嘉兵衛とアダムス参謀長の間で折衝を開始。交渉場所をどこにするかで大モメ。
「香山を呼べ。」
林復斎を筆頭とする応接掛(和親ファイブ)に香山栄左衛門を加える。結局、横浜村に応接所をわざわざ新設することで合意に至る。工事を待っている間、香山栄左衛門、中島三郎助、堀達之助が晩餐に招待され、友好に寄与しました。黒川、香山、森山栄之助が乗船して、アメリカ黒船艦隊の秘密に探りを入れる。
1854年3月
横浜応接所で交渉開始。祝砲連発だの、恫喝だのにめげず、冷静沈着な和親ファイブがペリーに対して奮闘。通商事項のない友好条約で逃げ切り成功。
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