駿台英語名物講師の竹岡広信先生の講演会に、最近出席しました。その場で竹岡先生はこうおっしゃいました。
「教師が生徒を育てるのは大変だ。しかし教師が生徒をつぶすのは簡単だ。教師のたった一言でつぶすことができる。」
勉強すればするほど、読めば読むほど、バカになる学習参考書が昔からけっこういっぱいありますね。
ブログ「三高私説」によれば、旧制三高・西洋史の鈴木成高先生も、陸軍士官学校でなされたアンチョコ能率重視の暗記詰め込み教育は、どんな大秀才もそのせいでバカになると、おっしゃったそうです。暗記中心主義なんて目の前いたるところにありますやん。恐ろしいことに、最近の医師の卵も暗記漬けにされています。医療ミスを犯さない研修医を即席栽培すべしのスローガンのもとに。
誰が正解を決めるのでしょうか? 百歩譲って、もし正解通りやってうまくいかないときはどうしますか?
12月3日、灘高の教壇に立って、橋本先生が32回生OBを相手に、「銀の匙」の授業をされました。私は、診療のため、授業にも同窓会にも出席できませんでしたが、同級生がUstreamで録画してくれていましたので、授業風景を拝見しました。
今月新刊で出たばかりの本を、11月末に三宮のブックファーストでみつけて読みましたが、授業の内容は、この本の内容と大差がないと思いました。いつもいつも橋本先生の生きる情熱には感服させられます。
そんな折、古本屋でたまたま安価に入手した、三省堂から昭和40年に発刊された「現代国語の新研究」を読む幸運を得ました。著者の成瀬正勝先生は、旧制一高卒の東大教授。長年、東大受験生の現代国語答案の採点に携わってこられた方でした。現代国語とはなにか、なぜ学ばなくちゃいけないのかという基本的疑問にやさしく答えることからはじまり、いろんな文体の文章を読ませ、その要旨をわかりやすく自分の言葉で解かせていきます。またコラムの文章も非常に味わい深いですね。この本はこう読めと・・・・・本文を何度も読んでひととおりの理解が成立したと思ったら、まず全文の要約文をまとめ、次に脚注欄にあるいくつかの設問を見てその答えを考え、考えをできるだけ煮つめて、ていねいに解答を書く。
”現代文が、あるいはその現代文を根底においてささえている現代の思想や文化が依って立っているのは、簡単なことばでいえば人間主義であり、個人主義であるといっていい。そして人間の尊厳を主張し、個人の価値に重きを置く考え方そのものが、実際には先進ヨーロッパの思想や文化からの刺激によって成立したものであったという事情を考えてみるとよい。また、このようにヨーロッパの刺激によってうながされた現代文化・現代思想であったからこそ、その上に立つ現代文は、従来の伝統的な表現形式のわくを破って、その内容にふさわしい自由な表現形式を手に入れることができたのであった。”
”現代文は現代人の思想や感情を的確に表現することができるものであるのだからこそ、そこにはまた、現代人の生き方が反映しているといってよい。”
”明治初期の啓蒙家たちの唱えた漢字廃止論の誤りは、まず第一に、文明の未開を学問の方法にあるとしないで、漢字そのものの罪だとしたことにある。当時の中国には、自国を他のいかなる国家よりも優秀であるとする、いわゆる中華思想があったが、日本でも封建社会を維持して行くために、過去の風俗習慣を守りつづけようとした保守思想があった。これらの思想の基本は、儒教である。そこで彼らはこの数千年前の古代思想を探求し、そこに人間の行動の基準を置こうとすることを、学問の道だと考えたのである。そしてそのためには、その思想を表現してる媒体としての漢字の意味を明かにしなければならない。(中略)この場合、文字の研究が学問の方法となる。これは西洋でも同様である。(中略)しかし東洋における古典学は、前述のように中華思想や保守思想にささえられて、それだけを学問だとする方向をとった。元来孔子の思想は同じ東洋思想でも仏教や道教と違って、かなり現実主義的なもので、自然科学を導き出すような人間精神をはらんでいたように思われるが、それが実を結ばなかったのはなぜか。これはいま指摘したような中華思想や保守思想、またはそれを形成していた政治形態にあるのであろう。しかし不幸にして、目前に西洋の文明開化の状態をながめて驚嘆した明治の啓蒙家たちは、このような事情に十分な考察を試みる余裕なく、漢字こそ開花をはばむ敵だと思い込んだのである。それは前述のように、自分たちが子供のときから、これこそ学問だと信じてきたものが、漢字の研究に明け暮れするものであったからである。彼らは漢字さえ追放すれば、万事はうまく行くと考えたのである。”
*竹岡先生も、「人は自分が教わってきたやり方で、人を教えようとするものだ。」とおっしゃっていました。
第一節 何が書いてあるか
第二節 段落の発見
第三節 段落と段落との関係
第四節 大意の把握
第五節 要旨の把握
第六節 主題の把握
第七節 主体的な読み取り
第八節 この章のまとめ
なんか銀の匙の授業に似ているな。何が書いてあるかって、題名をつけることと同じやん。へぇ、大意と要旨はちがうのか。その本の中で、成瀬先生はこう言われています。
「書くことによる人間形成」
このように書くということには、自分の思想や感情を確かめてみるという重要な働きが見られる。自己反省の手段として日記をつけるというのも、それによって自己の内部を検証することができるからであろう。このような書くという体験から、われわれは自分の真実の姿を見出すことができる。前述のように、一方には、孤独を感ずるかもしれないが、同時に他人に頼ることなく、自身の考えのうえに立って、一人歩きのできる思想の展開が可能となるのである。
戦後の国語教育では、この書くということが、ややもすると軽視されているようだ。その代わり話すほうは、以前に比べて達者になったように思われる。これは民主主義とは話し合いの場を作ることにあるということから、学校のなかでも討議とか会議とかが多く持たれ、その指導も行きとどいてきたからであろう。あるいはコミュニケーションの手段として、ラジオやテレビが普及して、話す聞くの言語生活が豊かになったための影響であろう。そのほか、生徒の学力を試みる場合に、いわゆる○×主義の方法を採用することから、書くという練習が少なくなったせいもあると思われる。
しゃべることがうまいということも、一概に悪いとはいわない。しかしそのために、書くということが犠牲になり、作文能力が劣ってくるようになると、人間形成という点で、すなわち自立性、自主性という点で、欠陥が生ずるのではないか、十分な発言が乏しくなるのではないかと心配される。
(途中省略)
前に「自分のことばで書け」ということを述べたが、「自分のことば」もその教材から、あるいは日常接している新聞、雑誌などからでも、文字の正確な意味を理解し、それを媒体として自己の思考の表現を確実にする努力から生れる。自分にとって意味のあやふやな文字を用いるならば、その文章は自己の思想感情を表現していることにならないから、「自分のことば」とはいえない。
(以下省略)
こんな教育現場にも、国家イデオロギーは多大な影響を及ぼしているのですね!
東大にこんな生徒がほしいと言われた成瀬正勝先生と、東大に多くの生徒を送り込まれた橋本武先生。お二人の教育方針が見事に一致しているさまを見るにつけ、現役教師の方々も、今一度考え直してみられてはいかがでしょうか?
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