« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »

2011年10月30日 (日)

第63回正倉院展をみました

Dsc_0187


昨夕は、正倉院展に行ってきました。300円安いオータムレイトチケット(700円)を買って、17:30過ぎに入場。昨年は、五弦の琵琶の人気で、えらい大混雑していましたが、今年は人出が少ないと思いました。

今年の目玉出品は、聖武天皇が愛用していた金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうからたち)です。19時終了時間間際でも、目の前で見ようと人が集まっていたほどです。わたしもそのひとりでしたが。水晶玉、ガラス玉が散りばめてあり、鮫皮の鞘、いまだに錆びずに光沢を保っている驚異の刀身。すばらしいの一語に尽きます。

紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)も人気でした。象牙を赤く染める技術はすごいと思いました。虎、鹿、狐が模様として描かれていました。

黄熟香(おうじゅくこう)という香木に、織田信長と足利義政が一部パクッた痕があり、これも人気でした。たしか信長は正倉院から碁石もパクっていたような記憶があります。お経の容器だった沈香末塗経筒(じんこうまつぬりのきょうづつ)の表面に、この香木の粉末を漆に混ぜてまぶしてありました。お経のありがたみが、得も言えぬ香りとともに実感できたのでしょう。まあこのふたつがワンセットでした。

献物箱だった碧地金銀絵箱(へきじきんぎんえのはこ)、それに献物用の台であった蘇芳地金銀絵花形方几(すおうじきんぎんえのはながたほうき)と、粉地彩絵几(ふんじさいえのき)の脚の色彩は見事です。濃淡をつけて色彩のグラディエーションを描く技術が今回の正倉院展のテーマだと思いました。

聖武天皇は遷都がお好きな天皇でした。働いている人夫からは愚痴が聞こえてきそうですが。紫香楽宮を増設するとき、工事現場事務所になったのが甲可寺(こうかでら)。いまの甲賀寺です。その甲可寺から平城京に人夫の給料を要請する文書が心に残りました。

19時半ころ会場を出てすぐにある「志津香(しづか)」で、奈良名物釜飯を食べました。秋限定の若鶏入り栗釜飯です。

Dsc_0190

|

2011年10月28日 (金)

国内政治の現状

G20で消費税増税を10%に引き上げることを、野田佳彦総理は公約するようです。しかし日本に帰国して、「世界で公約してしまったから、増税はしなければならない。」という論法は通りませんね。国内のマニフェストを守れないのに、海外の目を気にする必要はありません。

親中国・北朝鮮 = 日本銀行

親アメリカ・台湾 = 財務省

倉山満先生によれば、2大権力抗争が、いま霞が関&永田町で繰り広げられているそうです。財務省は日銀に全戦全敗しているとか。

http://www.youtube.com/watch?v=iNmnc2xsUt4

中国国内でも、青年団(たたき上げ政治家グループ)の代表・李克強氏と、太子党(2世・3世政治家グループ)の代表・習近平氏の対立があるようですし、人民解放軍が第三勢力として台頭してきているそうです。政友会、憲政会、軍部の三つ巴となった戦前の日本を彷彿させます。物騒なことにならなければいいですが。

|

2011年10月23日 (日)

第2回日本胡琴祭を観て

今日は、西宮北口駅の兵庫県立芸術文化センター(略称:芸文センター)に、二胡を聞きに行ってきました。奏者は、いま大人気らしいWei Wei Wuu(巫謝慧)さんでした。自由席でしたので、開演15分前に入場したら、1階席はほぼ満員で、2階席サイドで座ることにしました。

上海出身の指揮者、コンリン(龔林)さんが、15年前に来日して、日本人二胡愛好家を中心に、日本華楽団を設立しました。今回、ゲストとして萩尾有紀子さんのほか、ウェイウェイウー(巫謝慧)さんとチャンレンシャン(張連生)さんが呼ばれていました。なにやら、いま大人気のお二人とは知らず、気軽にコンサートに参加しました。

第一部は、胡琴祭序曲、長城随想曲、彩衣姑娘。

第二部は、巫謝慧さんの再会の記憶とリベルタンゴ。それに張連生さんの駿馬之歌。

張連生氏の演奏は、馬のいななきが見事に音に変えられていましたし、すばらしいものがありました。巫謝慧さんの演奏は、全然他を寄せ付けない迫力とうまさがありました。

数回のアンコールで演奏された最後の曲は、文部省唱歌「故郷(ふるさと)」。

「故郷」こそ日本のエーデルワイスだったのですね。

http://www.youtube.com/watch?v=m3sPcq8bxuk&feature=related

|

劇団四季「サウンド・オブ・ミュージック」をみました

昨夜は友人2人と大阪四季劇場へ、「サウンド・オブ・ミュージック」を観てきました。ナチス・ドイツがオーストリアを併合しようとしていた時代。とはいってもヒトラーはもともとオーストリア出身の売れない画家。(プロイセンを母体とする)ドイツで一旗あげて、ふるさとを傘下に治めたというのが正しいでしょう。

プロイセンもオーストリアもそうですが、古き伝統的な良さがナチスのせいでいっぺんに汚されてしまいました。プロイセンの学生歌や民謡はとても心にしみるものが多く、ムシデンなどは若い男女の恋の歌だったのに、ナチスは軍歌に塗り替えてしまったのです。許せない。そう思うドイツ人は多いのではないでしょうか?わたしは、ドイツを好きなのではなく、ナチスに汚される以前のプロイセンの大ファンです。

オーストリアは誇り高きカトリック・ハプスブルク家の国。ポーランド人など多民族からなる新興プロテスタント・急成長国プロイセンを卑しい下衆な国とみて、真っ向から対立しました。プロイセンのフリードリヒ大王の時代には、オーストリアの女帝・マリアテレジアとプライドと存亡を賭けた大戦争を起こしました。別名、ペチコート戦争といわれ、マリアテレジアは周辺の女帝と連合を組んで、じわじわとプロイセンを圧迫。フリードリヒ大王を尊敬してやまないロシア皇帝の撤退で、起死回生したプロイセンでした。

オーストリアはワルツの国。

さてさてザルツブルク出身の主人公トラップ大佐が、オーストリア海軍の名将としてのプライドを捨てず、ナチスの指揮下に入ることを嫌って、隣国スイスに亡命を果たすお話です。愛妻を失って、こどもに軍事教練を強いていた主人公が、シスターたちとトラブルの多かった修道院見習いの娘マリアを家庭教師に招いたのをきっかけに、愛を育み結婚にいたりました。前妻とのあいだの7人のこどもたちも自分の気持ちに正直に生きていけるようになりました。笛を吹いてこどもを行進させる大佐こそ、ナチスそのものではないですか?自分がナチスと同じ道を歩んでいることを気づかされた大佐は、深く反省し、歌と踊りにあふれた以前の家庭生活を取り戻すことができました。

オーストリアの人たちが生きていくために次から次へとナチスに加担していくなか、トラップ大佐は最後まで逆らいました。7人のこどもたちがウィーンで歌や踊りを披露し、そのなかで「エーデルワイス(気高き白、純潔)」をうたったときは感動しました。子役さんたちはとても上手な演技でした。オーストリアの誇りだけは最後まで忘れてはいけないよとオーストリア人たちに呼びかける、命を賭けた渾身の歌でした。

http://www.youtube.com/watch?v=EhkXJn8EOug&feature=related

領土と主権を侵略されつつある日本。その日本に、この「エーデルワイス」と同じくらいの歌があるか考えてみました。「さくらさくら」かな?みなさんも考えてみてください。

|

2011年10月11日 (火)

時艱にして義を思ひ

時艱にして義を思ひ 塵世に節を偲ぶ哉

嗚呼新興の気を負ひて 浮華の巷に我立てば

思ひは馳する木訥の 流風薫る銀杏城

http://www.youtube.com/watch?v=QzESWC-gLJg&feature=related

|

2011年10月10日 (月)

紀伊風土記の丘を訪ねて

連休二日目は、湾岸線、阪和自動車道と、1時間ちょっとかけて、和歌山市の紀伊風土記の丘に行ってきました。特別展「大王の埴輪・紀氏の埴輪:今城塚と岩橋千塚」を見ました。

Dsc_0160

今城塚(いましろづか)古墳は高槻市にある継体天皇の墓です。私は今年4月に訪れ、ブログにも掲載しました。対する岩橋千塚(いわせんづか)古墳は、紀伊風土記の丘にある紀氏の古墳群です。

ここでしか見られない日本唯一の埴輪出土品が、「両面人物埴輪」です。前後の両面に顔がある国内唯一の人物埴輪で、両耳の脇で束ねた美豆良(みずら)を前後で共有しています。ほほやひたいに線刻で文様がほどこされており、一方の頬は矢羽根、もう一方は鏃が表現されています。

初期の埴輪は円筒埴輪、朝顔形埴輪です。1年前くらいのブログにも記載した通りです。今回、学んだこと。円筒埴輪には畿内型と紀伊型がある。畿内型は1次調整(縦ハケ)のみほどこした粗雑な工法で、円筒がピザの斜塔のように傾いてしまう傾向にある。紀伊型は1次調整(縦ハケ)をほどこしたあとに2次調整(横ハケ)できれいに形大きさを整えており、そのおかげで大型の埴輪をつくることができるようになりました。

家形埴輪では、5世紀後半に部品を焼いてから組み立てる工法が編み出されました。

人物埴輪では、王、貴人、顔に入れ墨を彫った盾持ち人、武人、巫女、力士、鷹匠、狩人、農夫、楽人などがモデルとなっています。おもしろかったのは、地面を這いつくばる人物が埴輪になっていたことですね。

Dsc_0179

これは複製ですが、地面につけた手の部分が出土しています。

器材埴輪では、盾、靫(ゆぎ)、胡籙(ころく)、甲冑(かっちゅう)、大刀(たち)、鞆(とも)、蓋(きぬがさ)などです。靫は矢じりを上にして入れます。胡籙は矢じりを下にして入れます。鞆は大刀を入れる容器です。

おもしろい埴輪たちを紹介しますね。

Dsc_0168

Dsc_0169_2

Dsc_0170_3
Dsc_0171
Dsc_0172
Dsc_0173
Dsc_0175
Dsc_0176
Dsc_0181
Dsc_0182_2

|

熱田神宮参拝

知る人ぞ知るリゾート地、芦屋浜のグラースグラーツィアで、ヨットと別荘群をみながらブランチ。

Cimg1302

昨日連休1日目、生まれてはじめて、尾張氏にゆかりの深い熱田神宮に参拝してきました。新神戸駅近くに1時間100円の安いパーキングに駐車。詳しい場所はヒミツのアッコちゃんです。新幹線で名古屋駅を下車し、名鉄特急に乗り換えて、3駅目の神宮前を下車。徒歩数分で到着。

Cimg1307

12代景行天皇のこども、ヤマトタケルが使った草薙(くさなぎ)の剣が祭られています。奥さんのミヤズヒメがヤマトタケルの死後、形見の草薙の剣を熱田神宮に奉納しました。草薙の剣は、もともとスサノオが出雲で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した時に、オロチのしっぽに付いていたものだと神話は語っています。

Cimg1311

今回は写真撮影の規制はないようでした。何組もの新婚カップルが、1チームにつき神官1人+巫女2人に先導されて歩いていました。結婚式の流れ作業!さすが冠婚葬祭の街、名古屋ですなぁ。

Cimg1313

宝物殿には、南北朝時代の、熱田神宮所蔵の古事記が展示されていました。


Cimg1334

隣の名鉄金山駅に移動して、鳥開(とりかい)総本店で名古屋コーチンに舌鼓を打ちました。身がプリプリして大変おいしかったです。

|

2011年10月 7日 (金)

宇治市歴史資料館「巨椋池」を訪ねて

昨日、午前診を終え、学園前駅から近鉄奈良駅を下車。三条通りを歩いてJR奈良駅から、みやこ路快速に乗って、JR宇治駅を下車。JRバス(片道200円)で宇治文化センター下車し、宇治市歴史資料館に行ってきました。特別展「巨椋池」が開かれていました。

Cimg1298

巨椋池といえば、古代から交通の要所でした。しかも平城京、平安京と深いかかわりをもっていました。宇治川、木津川、桂川の大きな3本の川に囲まれ、時代によって姿かたちを変えていったのです。巨椋池の地理を知らずして、日本史の細部は理解できないと思います。

東の宇治川から直接、巨椋池につながっていたのを、豊臣秀吉が槇島堤、小倉堤を築き、宇治川を北方に迂回させました。淀城の北側は宇治川と桂川の合流点に接し、淀城の南側は木津川と接していました。淀城は自然の要塞に守られた堅固な城でした。

さて時は明治元年正月。鳥羽と伏見で睨み合っていたのが、薩長軍と幕府軍with新撰組。錦の御旗が突然薩長軍に掲げられて、幕府軍は徳川慶喜が陣取る西の大坂城へと敗走しました。さてその逃げ方は?

まずは宇治川を渡って、巨椋池の東に接する大和街道をいったん南下し、ぐるりと巨椋池を迂回して、とりあえず淀城に立てこもる方法がひとつ。もうひとつは、鳥羽から桂川を渡って淀川の北側を陸路敗走する方法。

ところが、中立の立場をとった淀藩は入城を許さなかったとのこと。じっとしていては城外で朝敵として新政府軍に殺されるのを待つしかなかったわけです。なんとか極寒の木津川を泳いで渡り、石清水八幡、橋本、樟葉と、淀川の南側を陸路敗走。

ここで、淀川北側、天王山を背にした山崎に陣取っていた津藩の大砲部隊が、幕府軍から新政府軍に寝返って、雨あられのごとく、敗走する幕府軍に砲弾を撃ち込んだからたまらない。あとは徳川慶喜と松平容保が連れ立って、徳川海軍の船で江戸へ敗走。

1868年(明治元年)、ご一新により京都府と淀藩は木津川を西方に付け替えます。

1900~1903年(明治33~36年)、宇治川を淀城の南に付け替え、桂川、新宇治川、木津川の3本が、石清水八幡宮をいただく男山と、山崎のあいだで合流することになりました。

宇治川と巨椋池は1.5~2mの寄洲で隔てられ、巨椋池への水の流入は、南側から古川、名木川、大谷川の3本だけ。巨椋池からの水の流出は新宇治川だけとなりました。その結果、

(1)水深が浅くなり、巨椋池周縁で暮らす漁民の、コイ、フナ、しじみ、タニシの漁獲高が減少。

(2)水質が悪化して、マラリアが発生。

(3)新宇治川の水位が上昇してしまったら、巨椋池の排水がままならず、周辺の村々が水害にあう。

しかし、いいこともあり、夏は湖面に船を浮かべて蓮見、秋は猟銃をもって鳥の狩猟に興じることができました。

1933~1941年(昭和8~16年)、ついに国家事業として、巨椋池の水を全部排水して干拓し、田んぼに変える計画が実行に移されました。

|

2011年10月 5日 (水)

エンヤトット一座

診療が終わって、草莽の志士たち(農民・神官もいた)が日本初の倒幕運動を起こした天誅組について、つらつらと考えていたら、奈良五條市にこんなバンドがあったのですね。なかなかいい歌なのでアップします。デフレ増税の世には身に染みるね。

大和五條の空の下(←天誅組の歌)

http://www.youtube.com/watch?v=b_LcVz_yZiA

貧窮問答の歌(←山上憶良の歌)

http://www.youtube.com/watch?v=1UGc4RlL2D4

友よこんな世に 父母は飢えてはないか

友よこんな世に 妻や子は泣いてはないか

天地は広しといえど 我には狭くなったか

日月は明かしといえど 我には照ってはくれぬか

|

2011年10月 2日 (日)

甲比丹も つくばはせけり 君が春

松尾芭蕉の句です。

かぴたんも つくばはせけり 君が春

徳川御威光の傘下にある江戸は、カピタン(オランダ商館長)まで這いつくばわせるほど、何から何まですばらしい

おとなによって熟成された江戸日本。

今の日本のようなこどもの社会ではなかったようです。

稚心を去れ

橋本左内先生の言葉を今日もかみしめております。

マッカーサー閣下になりかわり、わたくしめが一句。

おとなより こどものほうが こわくない

戦後民主主義の本質。

出来はいかがですか?

|

« 2011年9月 | トップページ | 2011年11月 »