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2011年7月15日 (金)

江藤新平 vs 大久保利通 vs 伊藤博文

なかなか明治元年~10年くらいの歴史はおもしろいですね。すっかりマイブームになりました。この3人の共通点は?

「この身ふたつありせば、いかによからまし。」

のセリフですね。それぞれ、佐賀県、鹿児島県、山口県の人物です。西郷隆盛ドンなぞは、あれかこれか、道はひとつの人でした。時代の落とし子・ラストサムライとして死に場所を求め歩いたような印象です。

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旧幕府がつくった開成校、医学所の上に、新政府は大学校を位置づけたまではよかったのですが、国学(皇学)、次いで漢学の学者たちがのっとってしまい、洋学者の入り込む隙間はありませんでした。徳川慶喜の静岡学問所が洋学者の面倒をみることになったわけですね。東京に学制が整った明治5年秋、静岡から東京へ一流の先生や学生が出ていきました。「東京へみんな行ってしまうー!」と慶喜の美賀子夫人が叫んだとか。

三条実美 藤原氏ゆかりの上級貴族。長州への七卿落ちのひとり。首謀者は、佐幕攘夷派の青蓮院宮・朝彦親王と孝明天皇。

岩倉具視 村上源氏ゆかりの下級貴族。三条に頭上がらずだったが、公家にしては珍しく向こう気の強い人。

当初、三条と大隈重信が欧米使節団に少人数で参加予定だったのに、その栄光を妬いた大久保利通が、岩倉具視をかついで、ちゃっかり使節団代表を奪いました。開いてみれば、津田梅子ら女子も含めた大人数。野蛮な国に娘を洋行させるなど、当時では考えられなかったのに。薩摩としては西郷ドンがいるから実権は維持してくれるかと信じちゃって。アメリカに行ったのはよかったのですが、参議同士の申し合わせ違反で、予定外の日米不平等条約の修正を口走ってしまい、日本全権代表として出直すべく、一時帰国。結局交渉は失敗。次は大幅に予定が遅れてイギリスへ行ったのですが、あいにくビクトリア女王は夏季休暇中。散々待たされることになりました。次のパリでは、サムライ姿の日本人ではなく、洋装のかっこうだったのでガッカリ。おまけに待たされたことにカンカン。

大久保利通、それに「函館戦争の主犯・榎本武揚を殺せ。」とうるさい木戸孝允といった古い頭の老参議たちを岩倉使節団として明治4年、まんまと海外追放した、佐賀県と高知県の若手たち。前者は、弘道館卒業の江藤新平、大木嵩任、大隈重信。後者は、板垣退助、後藤象二郎。とくに「アラビア馬」と揶揄された江藤新平がカミソリのような実権行使。明治4年、廃藩置県。文部省を設置して、国学者や漢学者を排除し、洋学者を文部省官僚に据えました。「学問には道学と芸学とがある。国学者や漢学者は道学を教えてくれ。新政府の学校では芸学を教える。つまり西洋のまねをするのだ。」とわずか17日間の文部大臣勤務で、反対派の有無を言わさず強行突破。あとを佐賀県同志の大木嵩任(おおきたかとう)にまかせて、明治5年小学校を設立。国学者や漢学者を高等教育機関のメンバーからはずして、子供相手のあいうえお読み書きレベルに落とし込みました。次はかねてから興味のあった法務大臣に就任。フランス法典をまねて民法を起草。身分を撤廃して、「人権の父」と呼ばれました。長州の井上馨・大蔵大臣と予算をめぐって大激突。長州人って、権力をにぎったら金権汚職に走るみたいです。池田隼人しかり、佐藤栄作しかり。大蔵大臣・井上馨も、陸軍大臣・山県有朋も汚職疑獄で失脚・辞職しました。息巻く江藤は、さあ、次は憲法制定だという仕事の途中で、岩倉使節団として洋行帰りした大久保の目の敵にされ、子飼いの佐賀県知事を使い、佐賀の乱(←佐賀県武士の自己防衛に過ぎない。仕掛けたのは大久保。)を誘発させ、江藤新平に罪をなすりつけて、切腹を禁じ、狙いどおり斬首。江藤のつくった、東京での公平な裁判は許されず、さらに武士としての本懐すらとげさせませんでした。西郷隆盛に助けを求めましたが、「殺される部下を見捨てるような奴とは会いたくない。」と冷たくあしらわれ、高知県の潜伏先で逮捕。佐賀県に送られ、裁判もなく即刻処刑。

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伊藤博文が槍で、佐幕攘夷一色の孝明天皇を厠で串刺ししたとかしないとか?明治天皇が実は暗殺されていて、長州藩力士隊の大室寅之祐と入れ替わったとかいないとか?切腹斬首されて本当に死んだのか不明(←頭部がみつかっていない)の西郷は実はロシアに亡命していたとかいないとか?明治維新にまつわる陰謀論は尽きませんが。

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明治6年の政変。朝鮮が日本との国交を拒んだことに端を発する。西郷隆盛は征韓論に立つと言われたがその実は?礼節を重んじる儒教国・朝鮮が、全権大使・西郷を殺したかどうか?自分が殺されることはないと踏んで、自分を派遣してくれと頼んだのかどうか?西郷が殺され日朝戦争になった公算が強いとも言われるし、クリスチャンなった西郷が、多くの不満武士を道連れに、自分の死に場所を探していたのだろうか。西郷の座右の銘「敬天愛人」とは、洋行帰りの中村正直が紹介した概念でした。洋行帰りの大久保と岩倉が、西郷の怒号に負けず頑として征韓論をねじ伏せ、西郷が陸軍大臣の身分のまま、鹿児島県へ下野したことはご存知でしょう。まさか本当に有職のまま下野するとは思わなかった親友・大久保。そもそも長州の山県有朋が汚職で陸軍大臣を辞めたため、江藤の剛腕ぶりに嫌気がさして下野していた西郷が、不満勢力鎮圧のために東京へ召喚され陸軍大臣に就任していたのに。大久保は明治6年、権力を集中させた内務省を設置。伊藤は明治18年、古代からつづいた太政大臣を廃止しました。

明治六年政変

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江藤の人権運動は、大隈重信の自由民権運動にひきつがれたものの、明治14年の政変で参議側から、富裕農民層中心の国民に歩み寄り憲法制定を公約。狐につままれた感の強い大隈は下野することになりました。維新功労者はみんな死んでいましたので、伊藤博文の天下となりました。

数冊の本の読後感として、清廉潔白な江藤新平と、汚職陰謀色の強い伊藤博文の、ふたつの人物像が私の脳裏に対比的に浮き出ています。弘道館武士道の星・江藤新平の汚名返上あれ。

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