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2011年7月 8日 (金)

知の閃光、静岡学問所

明治元年、徳川慶喜は江戸城無血開城を許諾し、新政府によって駿府城(←もともと今川氏の居城)城下の宝台院→元代官屋敷に蟄居を命ぜられました。江戸のブレインであった、ヨーロッパ留学生、開成所、蕃書調所、洋書調所、横浜語学所などの要人を引き連れて、静岡入りしました。もちろん、新政府の許可をとりながら、静岡学問所と沼津兵学校を創設。佐幕派の頭首・慶喜は潔く、学問への道を明治元年すでに開いていました。刀、鉄砲、大砲をもって敵味方に分かれて騒いでいたのは、学問がなかったからか。時代の大局に立てない人間が、西南戦争まで死を賭けて戦っていました。彼らのかつぐ神輿の神様、徳川家はとっくに時代に順応していました。

いまの日本の大局はなにか?知的活動でいくら利潤をあげても、円ドルレートを下げられているために、アメリカに利益が回ってしまう仕組みですね。犯人はFRBと、FRB出先機関である日本銀行です。デコイ特許で日本が利益をあげても、砂漠に水が沁みていくように、利益は残りません。

日本近海の海底に眠るエネルギー源、天然ガス、メタンハイドレート、レアメタル泥を掘れば一挙に日本経済は再生するのに、アメリカ・中国から採掘許可が下りない、非独立国日本。

静岡学問所

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学問には、洋学、国学(皇学)、漢学がありました。漢学は洋学との派閥争いに負けたのか、小学校の読み書きの先生に貶められ、多くの先生が辞めていったそうです。徳川将軍家おかかえの儒学者・林又三郎も罷免されたのです。

沼津兵学校の校長が西周(にしあまね)、静岡学問所の校長が津田真道(つだまみち)でした。前者は兵学や数学が中心、後者は英語とフランス語が中心に講義されました。前者を卒業すれば陸軍士官への道が保証されていましたが、後者を卒業しても官僚文官への道はなんの保証もつきませんでした。ただただ、超一流の教授陣のもとで、純粋に学問にはげむことができました。理工学の学校は、東日本のゴタゴタ戦火を避けるべく、大阪に築かれました。これが大阪舎密局(せいみきょく)、つまり旧制第三高等学校の前身でした。

オランダ留学生は文久年間から留学していましたので、充分勉強して帰国しました。西周、津田真道、それに静岡学問所招聘を蹴って函館戦争に走った榎本武揚、新撰組の沢太郎左衛門など。榎本武揚は昌平黌時代は漢学の劣等生でしたが、オランダ留学中は洋学の才能を発揮し、オランダから軍艦・開陽を持って帰りました。

その他の留学生は慶応年間から留学しましたので、学業を中断して急遽帰国しましたので、勉学がまだ不十分な点があったそうです。イギリス留学生は、中村正直(なかむらまさなお)、外山正一(とやままさかず)。フランス留学生は、小出有秀、神原操。小栗上野介(←明治元年に処刑死)が窓口となって、旧幕府はフランスと親交が深かった縁で、横浜語学所から田中弘義や成島譲吉らも静岡入りしました。ロシア留学生は静岡入りせず、メンバーからはずされました。ドイツ語担当は岩倉使節団の一員であった近藤鎮三(こんどうやすぞう)、それに吉見義次。

国学(皇学)担当は、三田葆光(さんだかねみつ)。神社復権の世の中とはいえ、静岡藩では、廃仏毀釈のような極端な行動はとられなかったそうです。西周も津田真道も、国学者・平田篤胤の門下生だったこともあって、校長自らも国学を担当していたようです。

明治4年廃藩置県後、アメリカからクラーク博士が来日。静岡学問所が苦手だった理工学の教授をつとめました。彼は札幌農学校に1年間しかいなかった、「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士とは別人の、「もうひとりのクラーク博士」と呼ばれています。

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