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2011年7月 2日 (土)

会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画

昨夜のNHK・BSプレミアムテレビの番組「幻の東北列藩・プロイセン連合」には腰が抜けました。プロイセン駐日大使がプロイセン本国のビスマルクと連絡をとって、武器弾薬を会津藩に売却したり、北海道をプロイセン植民地にすべく、その前段階として、北海道の土壌を調査して、じゃがいも、とうもろこしなどドイツ野菜を栽培していたとか。庄内藩・会津藩とプロイセンとの間に密約が進行しており、榎本武揚の蝦夷共和国から、北海道の土地の一部を買収していました。しかしビスマルクは、プロイセンの大国化を望まなかったように、先見の明があった人物だったからよかったものの、少しあとのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が実権をにぎったタイミングなら、まちがいなく北海道はプロイセン領になっていました。当然、ロシアも分け前を要求するでしょうし、日本が第一次世界大戦の戦場になっていたことは確実です。

プロイセン駐日大使が、超国家機密事項だった伊能忠敬の日本地図をもって、北海道を江戸末期すでに視察していたとか。北海道開拓は、アメリカのクラーク博士や札幌農学校じゃなかったのかい?実は、クラーク博士はプロイセンから北海道の情報を事前につかんでいたとのこと。そもそも日本地図はどこから手に入れたのか?やはり長崎・鳴滝塾のシーボルトの諜報活動によって、プロイセン本国にまで詳細な日本地図が手に渡っていたのでしょう。

会津藩・庄内藩が札幌以北の北海道をプロイセンに売却する提案を、ビスマルクにしていたとか。ということは会津藩大名・松平容保は読んで字のごとくの売国奴だったことになります。松平容保が京都見廻り組や新撰組といった暗殺団を創設し、京都でめったやたらに殺人を繰り返させていたのも納得できます。白虎隊の義士が真の侍だったことと、彼らの頭首・松平容保が売国奴だったことは別問題ではあるが。会津城には武器も十分備えていたわけで、薩長の会津・函館への速攻は賢明な判断であったと思います。

ポーランドが、ロシア・プロイセン・オーストリア3国に分割されたことはご存知でしょう。ショパンやキュリー夫人の伝記をお読みいただければわかります。なぜそうなったか?事の発端は、ポーランド国内の湿地帯に住む異教徒・原住民を根絶やしするよう、十字軍時代のドイツ騎士団に依頼し、そのお礼としてポーランドの国土の一部をドイツ騎士団に譲ったことなのです。もし、江戸末期に日本がポーランドのようなことをしでかしていたらどうなったか?ぞっとするようなお話でした。

ドイツ騎士団はプロイセンの前身です。こう書き換えてみてください。そっくりでしょう。

ポーランド → 日本

異教徒・異民族 → アイヌ

ドイツ騎士団 → プロイセン

事の発端は、日本国内の森林地帯にすむアイヌを根絶やしにするよう、欧米列強時代のプロイセンに依頼し、そのお礼として日本の国土の一部(=北海道)をプロイセンに譲ったことなのです。・・・

攘夷派と開国派が激しく争っているあいだに、アイヌ民族もヤマト民族も欧米列強による植民地化の危機に立たされていました。

プロイセンの歴史

http://www.youtube.com/watch?v=cJW5JATYa78&feature=related

ポーランドの歴史

http://www.youtube.com/watch?v=eAVVWlUywO0&feature=related

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