明治新政府・参議メンバーの変遷(1)
いま関心があるのは、明治元年、江戸城入城後の明治新政府の権力メンバー、参議がどういうメンバーで構成されていたのかということです。ひとりの暗殺、ひとりの渡航で勢力図がめまぐるしく変わるさまにいま興味があります。
![]() 大久保利通 |
文久年間、島津斉彬の持論どおり、公武合体論に動いた大久保利通と西郷隆盛。倒幕攘夷派を鎮圧すべく、薩摩藩が京都警護に当たる際、越前・松平春嶽とタッグを希望しました。が、結果、慶喜に組まされた相手は会津藩・松平容保(まつだいらかたもり)でした。島津久光と衝突し失脚した西郷の助命嘆願をした大久保。
三条実美・長州藩・土佐藩の下級武士 → 倒幕・攘夷
幕府・薩摩藩・会津藩・桑名藩・土佐藩の上士 → 佐幕・開国
孝明天皇・朝彦親王 → 佐幕・攘夷
明治天皇・明治新政府(薩長同盟軍) → 倒幕・開国
お公家さんは、ちゃんと自分の意思を表明してほしいものです。黙っていればいいものではない。このカードの組み合わせのズレのせいで、武市半平太以下、いったい何人死んだことでしょう?さきの大東亜戦争でも同じことの繰り返しでした。
元治元年、薩摩藩が大嫌いだった一橋慶喜と薩摩藩の公武合体論タッグチームに亀裂が入りました。さすが心細さを感じた久光が、沖永良部島に島流ししていた西郷を再び呼び戻し、京都・寺田屋で「西郷隆盛歓迎パーティ」を開いたそうです。「まあまあ昔のことは水に流してよろしくたのむわ。」薩摩藩は五代友厚(ごだいともあつ)をヨーロッパに密航させ、本格的に薩摩藩の近代化を図りました。その間、下士・大久保は、いまさら攘夷論に戻すわけにもいかず、薩摩藩が孤立した幕府のいいカモ役になってしまうというマイナスポイントの修復に乗り出し、勝海舟に雄藩連合による倒幕案を授かる。慶応元年、大久保は、上士であった小松帯刀(こまつたてわき)とともに、朝彦親王に対し、幕府の懲罰から長州藩を救うよう嘆願。さらに幕府が朝廷を武力制圧しようとしている計画を密告。大久保は朝廷の信頼を勝ち得ました。第二次長州征伐、兵庫開港をめぐって、朝廷工作において慶喜に敗北したものの、大久保は善戦。坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で、慶応2年、薩長同盟。年末、孝明天皇の急死のため、幽閉されていた岩倉具視が復帰。大久保とタッグを組むことになりました。慶応3年暮れ、岩倉は錦旗の作成を開始。倒幕の密勅を発布。龍馬発案の大政奉還に走る後藤は、大久保と対立しました。
慶応3年、間一髪大政奉還して二条城入りした慶喜に、薩長の王政復古クーデター計画を密告した、土佐藩・後藤象二郎。12月9日、宮門警備の会津・桑名藩を二条城に退去させる。王政復古の大号令を発布。ここまでは慶喜の思うつぼでした。兵庫港に停泊する軍艦・開陽を筆頭とする圧倒的な幕府海軍力。慶応4年1月2日、鳥羽伏見の戦い。そのさなか、1月3日、薩長軍に錦の御旗が立ち、幕府軍が朝敵となってしまうまで、形勢は幕府有利でした。大坂・京の商人が薩長につき、経済基盤も確保。1月11日、三宮神社で攘夷派によるフランス水兵傷害事件で、新政府は主犯者に切腹を命じ、諸外国にアピール。
(1)版籍奉還
賛成 → 木戸
反対 → 岩倉・大久保 (=藩主を知事にして世襲させる)
(2)徴兵制
賛成 → 木戸・大村益次郎
反対 → 大久保
藩士出身の参議は、藩と新政府との二つの主従関係に悩んでいました。藩にとどまっていた、たくさんの士族は、自らの運命を藩代表参議に賭け、これが藩閥政治を生む結果となりました。
明治4年、山県有朋、鳥尾小弥太(とりおこやた)、野村靖の建議に、多くの御親兵とともに政府に復帰したばかりの西郷隆盛が賛同し、半月足らずで、廃藩置県を実現。知事・士族の給料と、藩の債務を新政府が肩代わりすることになりました。
宮さん宮さん♪
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