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2011年7月26日 (火)

明治新政府・参議メンバーの変遷(1)

いま関心があるのは、明治元年、江戸城入城後の明治新政府の権力メンバー、参議がどういうメンバーで構成されていたのかということです。ひとりの暗殺、ひとりの渡航で勢力図がめまぐるしく変わるさまにいま興味があります。

大久保利通

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文久年間、島津斉彬の持論どおり、公武合体論に動いた大久保利通と西郷隆盛。倒幕攘夷派を鎮圧すべく、薩摩藩が京都警護に当たる際、越前・松平春嶽とタッグを希望しました。が、結果、慶喜に組まされた相手は会津藩・松平容保(まつだいらかたもり)でした。島津久光と衝突し失脚した西郷の助命嘆願をした大久保。

三条実美・長州藩・土佐藩の下級武士 → 倒幕・攘夷

幕府・薩摩藩・会津藩・桑名藩・土佐藩の上士 → 佐幕・開国

孝明天皇・朝彦親王 → 佐幕・攘夷

明治天皇・明治新政府(薩長同盟軍) → 倒幕・開国

お公家さんは、ちゃんと自分の意思を表明してほしいものです。黙っていればいいものではない。このカードの組み合わせのズレのせいで、武市半平太以下、いったい何人死んだことでしょう?さきの大東亜戦争でも同じことの繰り返しでした。

元治元年、薩摩藩が大嫌いだった一橋慶喜と薩摩藩の公武合体論タッグチームに亀裂が入りました。さすが心細さを感じた久光が、沖永良部島に島流ししていた西郷を再び呼び戻し、京都・寺田屋で「西郷隆盛歓迎パーティ」を開いたそうです。「まあまあ昔のことは水に流してよろしくたのむわ。」薩摩藩は五代友厚(ごだいともあつ)をヨーロッパに密航させ、本格的に薩摩藩の近代化を図りました。その間、下士・大久保は、いまさら攘夷論に戻すわけにもいかず、薩摩藩が孤立した幕府のいいカモ役になってしまうというマイナスポイントの修復に乗り出し、勝海舟に雄藩連合による倒幕案を授かる。慶応元年、大久保は、上士であった小松帯刀(こまつたてわき)とともに、朝彦親王に対し、幕府の懲罰から長州藩を救うよう嘆願。さらに幕府が朝廷を武力制圧しようとしている計画を密告。大久保は朝廷の信頼を勝ち得ました。第二次長州征伐、兵庫開港をめぐって、朝廷工作において慶喜に敗北したものの、大久保は善戦。坂本龍馬、中岡慎太郎の仲介で、慶応2年、薩長同盟。年末、孝明天皇の急死のため、幽閉されていた岩倉具視が復帰。大久保とタッグを組むことになりました。慶応3年暮れ、岩倉は錦旗の作成を開始。倒幕の密勅を発布。龍馬発案の大政奉還に走る後藤は、大久保と対立しました。

慶応3年、間一髪大政奉還して二条城入りした慶喜に、薩長の王政復古クーデター計画を密告した、土佐藩・後藤象二郎。12月9日、宮門警備の会津・桑名藩を二条城に退去させる。王政復古の大号令を発布。ここまでは慶喜の思うつぼでした。兵庫港に停泊する軍艦・開陽を筆頭とする圧倒的な幕府海軍力。慶応4年1月2日、鳥羽伏見の戦い。そのさなか、1月3日、薩長軍に錦の御旗が立ち、幕府軍が朝敵となってしまうまで、形勢は幕府有利でした。大坂・京の商人が薩長につき、経済基盤も確保。1月11日、三宮神社で攘夷派によるフランス水兵傷害事件で、新政府は主犯者に切腹を命じ、諸外国にアピール。

(1)版籍奉還

 賛成 → 木戸

 反対 → 岩倉・大久保 (=藩主を知事にして世襲させる)

(2)徴兵制

 賛成 → 木戸・大村益次郎

 反対 → 大久保

藩士出身の参議は、藩と新政府との二つの主従関係に悩んでいました。藩にとどまっていた、たくさんの士族は、自らの運命を藩代表参議に賭け、これが藩閥政治を生む結果となりました。

明治4年、山県有朋、鳥尾小弥太(とりおこやた)、野村靖の建議に、多くの御親兵とともに政府に復帰したばかりの西郷隆盛が賛同し、半月足らずで、廃藩置県を実現。知事・士族の給料と、藩の債務を新政府が肩代わりすることになりました。

宮さん宮さん♪

http://www.youtube.com/watch?v=DVc-UNU48g0

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2011年7月21日 (木)

やまとなでしこ

大和撫子(やまとなでしこ)。日本女性の美をひと言で表しています。日本男性の美を表す言葉に、大和魂(やまとだましい)があります。ともに和服や着物が似合う絶滅種です。

「やまとなでしこ」の必要条件を自分なりに考えてみました。

1. 目立たない

2. 凛としている

3. 忍耐強い

そばを通り過ぎてもわからないくらい、決して目立たず、小さくてきれいで清楚な存在。なのに、どんな逆境にも負けず、地中に根を深く張った頼もしい存在。自分に自信を持ち、自分を大切にする女性。それでいて他人への気遣いを忘れない。「傘かしげ」がその一例。

目立ったら、恥じらいを秘めた「やまとなでしこ」ではなく、自己主張が強い「椿(つばき)」になってしまいます。外国の方に正しい日本語を伝えるべきでしょう。

患者さんの女の子の名前に、奈良の奈を入れたり、凛を入れたりしているのを、よく見かけます。大人になって結婚しても、生まれた奈良のことを忘れない、清楚な凛とした女性になってほしいという親の気持ちを感じます。

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2011年7月19日 (火)

竹内街道歴史資料館、飛鳥資料館を訪ねて

昨日は、台風の風雨にめげず、湾岸線、阪和道路、南阪奈道路を通って、竹内街道歴史資料館に行ってきました。二上山のふもとに位置します。二上山は死火山で、縄文時代から石器の原料サヌカイトをたくさん産出しました。二上山の礫岩は古墳時代の石棺の原料として珍重されました。継体天皇の石棺も二上山の礫岩で作られていました。このあたりは、推古天皇陵、孝徳天皇陵、安閑天皇陵など、たくさんの御陵があります。竹内街道は「たけのうち・かいどう」と呼んで、推古天皇と聖徳太子の時代に作られた日本最初の官道です。推古天皇の御世に、6年かけて作られ、路面には石がきれいに敷き詰められていたそうです。初瀬街道(のちの横大路)とつながっており、難波の河内湖・湖畔と飛鳥の宮を結ぶ幹線道路でした。

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ここの見どころは、めすらしく完全な形をとどめている鶏の形象埴輪、あと日本に数個しか見つかっていない墓誌です。

聖徳太子の墓は、街道沿いの叡福寺に安置されています。母親の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとひめみこ)、嫁の膳大娘(かしわでのおおいらつめ)と、3人いっしょに葬られています。聖徳太子はいないとか、二人だとかいう説が最近みられますが、この地に来ると、聖徳太子の存在を実感することができました。

孝徳天皇陵は円墳とされていますが、実は八角形の八角墳ではないかと言われています。天武天皇陵も八角墳ですし、ともに道教を信奉していたのでしょう。古墳壁画に描かれる天文学的知識は道教においてもっとも発達しました。最古の仏教寺である飛鳥寺は、(百済式ではなく)高句麗式の伽藍配置。高句麗は仏教より道教が盛んでした。

久しぶり飛鳥に寄って行こうと思い、飛鳥資料館に行きました。ここは蘇我氏の本拠地だったところ。向かいのレストランがつぶれ、道路は幅広く拡張され、一昔前の面影はなくなっていました。サイクリングで回っていたころの田舎びた明日香がなつかしく感じられます。

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キトラ古墳と、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)ゆかりの山田寺の復元が展示されていました。ちょっと物足りなさを感じました。飛鳥古墳群展示の大部分は、畝傍御陵前駅下車すぐの橿原考古学研究所付属博物館にありますので、展示の充実さを重視される方はそちらに行かれるほうがいいと思います。

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わたしの好きな都の変遷図です。なんでこれを日本史の教科書に載せないのかわかりません。推古天皇の竹内街道、斉明天皇の亀形石造物。女帝は石を使った土木事業がお好きみたいです。

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2011年7月15日 (金)

江藤新平 vs 大久保利通 vs 伊藤博文

なかなか明治元年~10年くらいの歴史はおもしろいですね。すっかりマイブームになりました。この3人の共通点は?

「この身ふたつありせば、いかによからまし。」

のセリフですね。それぞれ、佐賀県、鹿児島県、山口県の人物です。西郷隆盛ドンなぞは、あれかこれか、道はひとつの人でした。時代の落とし子・ラストサムライとして死に場所を求め歩いたような印象です。

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旧幕府がつくった開成校、医学所の上に、新政府は大学校を位置づけたまではよかったのですが、国学(皇学)、次いで漢学の学者たちがのっとってしまい、洋学者の入り込む隙間はありませんでした。徳川慶喜の静岡学問所が洋学者の面倒をみることになったわけですね。東京に学制が整った明治5年秋、静岡から東京へ一流の先生や学生が出ていきました。「東京へみんな行ってしまうー!」と慶喜の美賀子夫人が叫んだとか。

三条実美 藤原氏ゆかりの上級貴族。長州への七卿落ちのひとり。首謀者は、佐幕攘夷派の青蓮院宮・朝彦親王と孝明天皇。

岩倉具視 村上源氏ゆかりの下級貴族。三条に頭上がらずだったが、公家にしては珍しく向こう気の強い人。

当初、三条と大隈重信が欧米使節団に少人数で参加予定だったのに、その栄光を妬いた大久保利通が、岩倉具視をかついで、ちゃっかり使節団代表を奪いました。開いてみれば、津田梅子ら女子も含めた大人数。野蛮な国に娘を洋行させるなど、当時では考えられなかったのに。薩摩としては西郷ドンがいるから実権は維持してくれるかと信じちゃって。アメリカに行ったのはよかったのですが、参議同士の申し合わせ違反で、予定外の日米不平等条約の修正を口走ってしまい、日本全権代表として出直すべく、一時帰国。結局交渉は失敗。次は大幅に予定が遅れてイギリスへ行ったのですが、あいにくビクトリア女王は夏季休暇中。散々待たされることになりました。次のパリでは、サムライ姿の日本人ではなく、洋装のかっこうだったのでガッカリ。おまけに待たされたことにカンカン。

大久保利通、それに「函館戦争の主犯・榎本武揚を殺せ。」とうるさい木戸孝允といった古い頭の老参議たちを岩倉使節団として明治4年、まんまと海外追放した、佐賀県と高知県の若手たち。前者は、弘道館卒業の江藤新平、大木嵩任、大隈重信。後者は、板垣退助、後藤象二郎。とくに「アラビア馬」と揶揄された江藤新平がカミソリのような実権行使。明治4年、廃藩置県。文部省を設置して、国学者や漢学者を排除し、洋学者を文部省官僚に据えました。「学問には道学と芸学とがある。国学者や漢学者は道学を教えてくれ。新政府の学校では芸学を教える。つまり西洋のまねをするのだ。」とわずか17日間の文部大臣勤務で、反対派の有無を言わさず強行突破。あとを佐賀県同志の大木嵩任(おおきたかとう)にまかせて、明治5年小学校を設立。国学者や漢学者を高等教育機関のメンバーからはずして、子供相手のあいうえお読み書きレベルに落とし込みました。次はかねてから興味のあった法務大臣に就任。フランス法典をまねて民法を起草。身分を撤廃して、「人権の父」と呼ばれました。長州の井上馨・大蔵大臣と予算をめぐって大激突。長州人って、権力をにぎったら金権汚職に走るみたいです。池田隼人しかり、佐藤栄作しかり。大蔵大臣・井上馨も、陸軍大臣・山県有朋も汚職疑獄で失脚・辞職しました。息巻く江藤は、さあ、次は憲法制定だという仕事の途中で、岩倉使節団として洋行帰りした大久保の目の敵にされ、子飼いの佐賀県知事を使い、佐賀の乱(←佐賀県武士の自己防衛に過ぎない。仕掛けたのは大久保。)を誘発させ、江藤新平に罪をなすりつけて、切腹を禁じ、狙いどおり斬首。江藤のつくった、東京での公平な裁判は許されず、さらに武士としての本懐すらとげさせませんでした。西郷隆盛に助けを求めましたが、「殺される部下を見捨てるような奴とは会いたくない。」と冷たくあしらわれ、高知県の潜伏先で逮捕。佐賀県に送られ、裁判もなく即刻処刑。

幕末維新と佐賀藩

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伊藤博文が槍で、佐幕攘夷一色の孝明天皇を厠で串刺ししたとかしないとか?明治天皇が実は暗殺されていて、長州藩力士隊の大室寅之祐と入れ替わったとかいないとか?切腹斬首されて本当に死んだのか不明(←頭部がみつかっていない)の西郷は実はロシアに亡命していたとかいないとか?明治維新にまつわる陰謀論は尽きませんが。

西南戦争

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明治6年の政変。朝鮮が日本との国交を拒んだことに端を発する。西郷隆盛は征韓論に立つと言われたがその実は?礼節を重んじる儒教国・朝鮮が、全権大使・西郷を殺したかどうか?自分が殺されることはないと踏んで、自分を派遣してくれと頼んだのかどうか?西郷が殺され日朝戦争になった公算が強いとも言われるし、クリスチャンなった西郷が、多くの不満武士を道連れに、自分の死に場所を探していたのだろうか。西郷の座右の銘「敬天愛人」とは、洋行帰りの中村正直が紹介した概念でした。洋行帰りの大久保と岩倉が、西郷の怒号に負けず頑として征韓論をねじ伏せ、西郷が陸軍大臣の身分のまま、鹿児島県へ下野したことはご存知でしょう。まさか本当に有職のまま下野するとは思わなかった親友・大久保。そもそも長州の山県有朋が汚職で陸軍大臣を辞めたため、江藤の剛腕ぶりに嫌気がさして下野していた西郷が、不満勢力鎮圧のために東京へ召喚され陸軍大臣に就任していたのに。大久保は明治6年、権力を集中させた内務省を設置。伊藤は明治18年、古代からつづいた太政大臣を廃止しました。

明治六年政変

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江藤の人権運動は、大隈重信の自由民権運動にひきつがれたものの、明治14年の政変で参議側から、富裕農民層中心の国民に歩み寄り憲法制定を公約。狐につままれた感の強い大隈は下野することになりました。維新功労者はみんな死んでいましたので、伊藤博文の天下となりました。

数冊の本の読後感として、清廉潔白な江藤新平と、汚職陰謀色の強い伊藤博文の、ふたつの人物像が私の脳裏に対比的に浮き出ています。弘道館武士道の星・江藤新平の汚名返上あれ。

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2011年7月11日 (月)

伊弉諾神宮、高田屋顕彰館・歴史文化資料館を訪ねて

梅雨が明けました。サザンがよく合う真夏の日差しが、いよいよやってきましたね。

レトロな曲調の「ホテルパシフィック」、のりのりの「みんなのうた」が好きですね。

http://www.youtube.com/watch?v=GN_3Wv8_-mU&feature=related

再び伊弉諾神宮を参拝しました。最初にできた日本が淡路島だと、神話では伝えられています。

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かわいい巫女さんでした。売店で買い物して会話しましたよ。神主さんの祝詞があがったとたん、白鳥がゆっくり本殿の上を飛んでいきました。神秘!!

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ロシアの人質・高田屋嘉兵衛と、松前藩の人質・ゴローニンの交換を記念して建てられた記念館、菜の花ホールもついでに再訪しました。

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船乗りたちはこんな木の枕で寝ていました。イテテ、イテテ。

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淡路島といえば、淡路サンセットロードです。琵琶湖の湖岸ロードもいいけど、ここもドライブには最適です。

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淡路下りインターで休憩。ここからの明石海峡大橋の眺めは絶品です。対岸は、須磨と舞子です。

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五色塚古墳をアップしてみました。真ん中の海岸すぐあたりに位置しています。砂色のプリンに見えますが、どれかおわかりですか?

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2011年7月 8日 (金)

知の閃光、静岡学問所

明治元年、徳川慶喜は江戸城無血開城を許諾し、新政府によって駿府城(←もともと今川氏の居城)城下の宝台院→元代官屋敷に蟄居を命ぜられました。江戸のブレインであった、ヨーロッパ留学生、開成所、蕃書調所、洋書調所、横浜語学所などの要人を引き連れて、静岡入りしました。もちろん、新政府の許可をとりながら、静岡学問所と沼津兵学校を創設。佐幕派の頭首・慶喜は潔く、学問への道を明治元年すでに開いていました。刀、鉄砲、大砲をもって敵味方に分かれて騒いでいたのは、学問がなかったからか。時代の大局に立てない人間が、西南戦争まで死を賭けて戦っていました。彼らのかつぐ神輿の神様、徳川家はとっくに時代に順応していました。

いまの日本の大局はなにか?知的活動でいくら利潤をあげても、円ドルレートを下げられているために、アメリカに利益が回ってしまう仕組みですね。犯人はFRBと、FRB出先機関である日本銀行です。デコイ特許で日本が利益をあげても、砂漠に水が沁みていくように、利益は残りません。

日本近海の海底に眠るエネルギー源、天然ガス、メタンハイドレート、レアメタル泥を掘れば一挙に日本経済は再生するのに、アメリカ・中国から採掘許可が下りない、非独立国日本。

静岡学問所

静岡学問所
著者:樋口雄彦
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学問には、洋学、国学(皇学)、漢学がありました。漢学は洋学との派閥争いに負けたのか、小学校の読み書きの先生に貶められ、多くの先生が辞めていったそうです。徳川将軍家おかかえの儒学者・林又三郎も罷免されたのです。

沼津兵学校の校長が西周(にしあまね)、静岡学問所の校長が津田真道(つだまみち)でした。前者は兵学や数学が中心、後者は英語とフランス語が中心に講義されました。前者を卒業すれば陸軍士官への道が保証されていましたが、後者を卒業しても官僚文官への道はなんの保証もつきませんでした。ただただ、超一流の教授陣のもとで、純粋に学問にはげむことができました。理工学の学校は、東日本のゴタゴタ戦火を避けるべく、大阪に築かれました。これが大阪舎密局(せいみきょく)、つまり旧制第三高等学校の前身でした。

オランダ留学生は文久年間から留学していましたので、充分勉強して帰国しました。西周、津田真道、それに静岡学問所招聘を蹴って函館戦争に走った榎本武揚、新撰組の沢太郎左衛門など。榎本武揚は昌平黌時代は漢学の劣等生でしたが、オランダ留学中は洋学の才能を発揮し、オランダから軍艦・開陽を持って帰りました。

その他の留学生は慶応年間から留学しましたので、学業を中断して急遽帰国しましたので、勉学がまだ不十分な点があったそうです。イギリス留学生は、中村正直(なかむらまさなお)、外山正一(とやままさかず)。フランス留学生は、小出有秀、神原操。小栗上野介(←明治元年に処刑死)が窓口となって、旧幕府はフランスと親交が深かった縁で、横浜語学所から田中弘義や成島譲吉らも静岡入りしました。ロシア留学生は静岡入りせず、メンバーからはずされました。ドイツ語担当は岩倉使節団の一員であった近藤鎮三(こんどうやすぞう)、それに吉見義次。

国学(皇学)担当は、三田葆光(さんだかねみつ)。神社復権の世の中とはいえ、静岡藩では、廃仏毀釈のような極端な行動はとられなかったそうです。西周も津田真道も、国学者・平田篤胤の門下生だったこともあって、校長自らも国学を担当していたようです。

明治4年廃藩置県後、アメリカからクラーク博士が来日。静岡学問所が苦手だった理工学の教授をつとめました。彼は札幌農学校に1年間しかいなかった、「少年よ、大志を抱け」のクラーク博士とは別人の、「もうひとりのクラーク博士」と呼ばれています。

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2011年7月 7日 (木)

七夕に詠める

献血30年の思いを詠みて。

献血で 気持ちばかりの ダイエット

セミがけたたましく鳴くと、夏到来を感じますねぇ。ここで一句。

蝉鳴きて 木陰がわりの 献血車

宇宙ステーションを詠みて。男と女の出会いではなくて。

ドッキング 会えて喜ぶ 男たち

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2011年7月 2日 (土)

会津藩・庄内藩による日本国ポーランド化計画

昨夜のNHK・BSプレミアムテレビの番組「幻の東北列藩・プロイセン連合」には腰が抜けました。プロイセン駐日大使がプロイセン本国のビスマルクと連絡をとって、武器弾薬を会津藩に売却したり、北海道をプロイセン植民地にすべく、その前段階として、北海道の土壌を調査して、じゃがいも、とうもろこしなどドイツ野菜を栽培していたとか。庄内藩・会津藩とプロイセンとの間に密約が進行しており、榎本武揚の蝦夷共和国から、北海道の土地の一部を買収していました。しかしビスマルクは、プロイセンの大国化を望まなかったように、先見の明があった人物だったからよかったものの、少しあとのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が実権をにぎったタイミングなら、まちがいなく北海道はプロイセン領になっていました。当然、ロシアも分け前を要求するでしょうし、日本が第一次世界大戦の戦場になっていたことは確実です。

プロイセン駐日大使が、超国家機密事項だった伊能忠敬の日本地図をもって、北海道を江戸末期すでに視察していたとか。北海道開拓は、アメリカのクラーク博士や札幌農学校じゃなかったのかい?実は、クラーク博士はプロイセンから北海道の情報を事前につかんでいたとのこと。そもそも日本地図はどこから手に入れたのか?やはり長崎・鳴滝塾のシーボルトの諜報活動によって、プロイセン本国にまで詳細な日本地図が手に渡っていたのでしょう。

会津藩・庄内藩が札幌以北の北海道をプロイセンに売却する提案を、ビスマルクにしていたとか。ということは会津藩大名・松平容保は読んで字のごとくの売国奴だったことになります。松平容保が京都見廻り組や新撰組といった暗殺団を創設し、京都でめったやたらに殺人を繰り返させていたのも納得できます。白虎隊の義士が真の侍だったことと、彼らの頭首・松平容保が売国奴だったことは別問題ではあるが。会津城には武器も十分備えていたわけで、薩長の会津・函館への速攻は賢明な判断であったと思います。

ポーランドが、ロシア・プロイセン・オーストリア3国に分割されたことはご存知でしょう。ショパンやキュリー夫人の伝記をお読みいただければわかります。なぜそうなったか?事の発端は、ポーランド国内の湿地帯に住む異教徒・原住民を根絶やしするよう、十字軍時代のドイツ騎士団に依頼し、そのお礼としてポーランドの国土の一部をドイツ騎士団に譲ったことなのです。もし、江戸末期に日本がポーランドのようなことをしでかしていたらどうなったか?ぞっとするようなお話でした。

ドイツ騎士団はプロイセンの前身です。こう書き換えてみてください。そっくりでしょう。

ポーランド → 日本

異教徒・異民族 → アイヌ

ドイツ騎士団 → プロイセン

事の発端は、日本国内の森林地帯にすむアイヌを根絶やしにするよう、欧米列強時代のプロイセンに依頼し、そのお礼として日本の国土の一部(=北海道)をプロイセンに譲ったことなのです。・・・

攘夷派と開国派が激しく争っているあいだに、アイヌ民族もヤマト民族も欧米列強による植民地化の危機に立たされていました。

プロイセンの歴史

http://www.youtube.com/watch?v=cJW5JATYa78&feature=related

ポーランドの歴史

http://www.youtube.com/watch?v=eAVVWlUywO0&feature=related

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2011年7月 1日 (金)

開院7周年記念

奈良・学園前で小児科を開業して、今日でまる7年になります。校歌ならぬ院歌を聴きながら、祝いました。大学生のまま、いつまでも若々しくありたいものです。

オー!アルテ ブルシェンヘアリッヒカイト!

http://www.youtube.com/watch?v=rKXceLUU2aI&NR=1

ガウデアームス イギトゥール

http://www.youtube.com/watch?v=TJllP6z8jDw&feature=related

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