「学問のすすめ」の続編といわれる本著です。教養のバイブルとされている名著を、混濁の世に読む意義は深いと思いました。
混濁よ其れ人の世か 紛乱よ其れ世の様か
されど悲歌せじ徒らに 我らの使命重ければ
街の叫びをよそにして 永久の理想に進まなむ
前著「学問のすすめ」の中での基礎知識
権理通義=理(自然法則)を権(はか)り、義を通す。朱子学で言う性即理とは性(人間の心の本性)を研究すれば、理(世の中の仕組み)がわかるということ。東洋では理の習得めざして心の研鑽に努めるだけであったが、西洋での理の研究は、仮説を立てて証明を一つ一つ重ねていくという帰納・演繹法をとった。
権↔礼 権とは君子が手心を加えてさばくこと。小人がやると世が乱れるのでやってはいけない。礼とは一切の例外を認めず、決めた規則を厳守すること。融通が利かないのが難点。
第一巻の要旨
文明とは、その国民の精神的成熟度が具現化したもの。外国文明を取り入れるときは、難を先に、易を後にせよ。何千年とかけて培われた精神spiritは一朝一夕に変わることがなく、文明を易きところから輸入すると、自らの精神spiritに適合するかどうか、わからない。輸入相手の精神spiritをよくよく吟味してから、輸入しなさい。
*私の意見:spiritを具体的に考えてみるとこうなるかな。
日本 → 大倭・筑紫・大和(ヤマト)精神=和 (古くはヲシテ?)
アメリカ合衆国 → ピルグリム精神
ヨーロッパ諸国 → フランク精神
インド → ウパニシャッド哲学 (古くはマヌ法典)
中国 → 中華精神
イスラム諸国 → イスラム精神 (古くはゾロアスター精神)
第二巻の要旨
文明すなわち智徳の深さは、智者一人だけをみて論じてはいけない。全体をみて論じるべきだ。国家の文明はときに深くもなりときに浅くもなるものだ。しかし、統計学確率論的観点からみれば、文明の深浅を論じることができる。やぶ医者は目につきやすい近因だけを治そうとし遠因を治そうとしない。名医は見えにくい遠因も見通して治療するものだ。だから文明を論ずる場合も、近因(物質文明)だけを見るのではなく、遠因(精神文明)まで見通して論じなさい。その時代時代の時勢(社会における文明の平均的高さ)に応じて、せっかくの智者を生かしもするし、殺しもする。智者も智者で時勢を悟らず、無駄に嘆いているだけだ。悪い政治家が出るのは、その政治家の責任じゃないよ。衆論(社会の智的レベル)が悪い政治家を生むんだよ。いったん権力を握った政治家は衆論に媚びて政権を保とうとするものだ。衆論の強弱は、人数の多い方が勝つのではなく、智力の合計が多い方が勝つのだ。また、せっかく智徳が備わったすばらしい衆論があっても、組織だった徒党を組まなければ、なんの効力も持たない。本居宣長も中井竹山も平田篤胤も滝沢馬琴も大田南畝も一度は徳川御三家の「御威光」に逆うような批判をしたのに、いったん政府側の官僚に抜擢されるや否や、幕府の犬となり、せっかくの智力を生かせなかった史実を見てもわかる。衆論の力は、智者ひとりの力ではなく、名もない賛同者みんなの力なのだ。沈黙は金という日本人の習慣を捨て去り、いまこそ議論を戦わせるべき時なのだ。
第三巻の要旨
智intellectと徳moralには次の4つがある。
私徳=潔白・謙遜・律儀など一身上だけにとどまる徳目
公徳=廉恥・公平・中正など社会における徳目
私智=ものの道理を究めようとする働き
公智=社会的事案の軽重大小をわきまえ、重大を先に、軽小を後にし、タイミングを計ることができる働き
智力に劣る民、無知無学の小児にはまず、私徳を教えることが重要です。徳は不要だと教えると、智が大事なんだと勘違いして、しかも自分勝手な私智に走ってしまう。究極の教育目標としては、私徳よりも公徳、私智よりも公智を教えることが大切です。有徳の士が社会と交わらず智を追求しない態度は、悪人ではないものの、無用の愚者と言ってもいい。本来、「徳義の風化」といって、徳は言葉で教えるものではなく、師自ら態度で示すものである。徳は無形ゆえ試験することはできない。自称・有徳の士の心の中なんて何を考えているかわかりゃしない。対して「有形の智教」といって、智は形で教え、大いに社会に発表すべきものだ。徳は古今東西変わることはないが、智は日進月歩する。智は有形ゆえ、試験することができる。世にいう実学がそうで、算数は計算させてみる、航海術は船を操縦させてみる、商いは商売をさせてみる、医学は患者の治療をさせてみる、経済学は貯蓄額の多さをみるといった具合に。自称・経済学者が破産したり、自称・航海術師が船を操縦できなかったり、自称・大学外科教授が患者を死なせてしまうという事態は言語道断だ。徳無くんば智無し。智無くんば徳無し。智も徳も文明の両輪として大切なものだ。
第四巻の要旨
ものごとには時と場所を間違えると失策するように、智徳も実践すべき時代と場所をわきまえなさい。太古の昔、民は天災天幸がなぜ起きるかわからなかったので、恐怖したり喜悦したりを繰り返すしかできなかった。同様に強大な力をもつ酋長が民を苦しめても楽にさせても、どうして酋長がそうするのか理由が民にはわからなかったので、「君長の恩威」といって、民は酋長を天子(天の子ども)と崇めることしかできなかった。君長の気持ちひとつで民の苦しみは重くもなり軽くもなり、天災天幸と同様、褒罰に喜悦し恐怖するしか手立てがなかった。こんな時代に民に向かって智恵を身につけよと言う事はかえって社会の害になるやもしれぬ。「野蛮の太平」といって、君長のみが徳を身につけていれば、たとえ智恵が浅くとも世は治まったものだ。こんな時代には、徳義のみが重要で、智恵の入り込む隙間はない。
人文が開花し智力が進歩すると、民の心に疑いが生じ、ものごとの真の原因を探ろうとし、たとえ原因がわからなくても工夫を加えるようになり、天災や鬼神をやたら恐れるような幼稚性を失う。いまや民は精神の自由を受けたのだから、どうして身体の束縛に甘んじてよかろうか?民は国君が何者かを察して、その恩威とはなにかを詳細に調べ、賄賂など私恩は断り、暴力に対して恐れず、天の道理のおもむくままに生きなさい。たまたま君長として生まれたに過ぎない者を媚びへつらったり恐怖喜悦することなく、智力を備えもった者は自らの道徳に従って生きなさい。
国君(天皇)、代議士といえど、我々と同類の人間なんだから、徳を私に説く筋合いはない。そんな太古の昔では今やないのだ。私自身が身につけようと思って身につけた徳を、「無形の徳化」といって、態度で他者に示すことは社会に役に立つだろうが。一国の君主を「聖明」と仰いで拝むなんてナンセンスだ。君主がなにを考えているかなんてわからないよ。
*私の意見:福澤諭吉は不敬罪スレスレですね。
「文明の太平」といって、文明が進むにつれて、智徳の量も増し、公智公徳の行われる土地が拡大し、土地を争ったり、刑法も不要となり、借金に追われることもなく、盗難など犯罪もなく、戦争もなくなるだろう。家庭の中も、国家の中もこうして太平となる。
*私の意見:そんな馬鹿な!世界には想像もできない極悪人が共棲している以上、天下泰平は実現しない。悪人の罠を見抜く智力の養成こそ肝要なりと私は思う。
そもそも徳義は情愛のある場所で行われるべきだ。それは家族しかない。従兄弟にいたっては他人の始まりである。君主のために忠臣が切腹したり、自分の親子を殺したりするのは、本当は自分のためである。富者が貧民のために病院を建てるのも、自己満足のためなのである。いずれも従兄弟以上血筋が離れる場所で、これら徳義を行っていると勘違いし続ける者は、徳義に苦しめられる奴隷といってよい。公の場では徳義ではなく、規則によって裁かれるべきだ。規則は悪人による悪をとどめるためのものであり、善人を保護するためのものである。何千年後かに訪れるであろう文明の太平がくるまでは、今の世には規則が必要である。人智が進むにつれ、世の事務は繁多になり、規則は増加する。規則を破る術も巧みになるので、規則も密にならざるを得ない。規則は無情で徳義に反するという印象が強いかもしれないが、恩恵をこうむることも多いものである。
*このあと世界史概説がつづく。明治初期よりはるかに詳細に判明した、平成の世界史を学ぶほうがいいかも。西洋の歴史を美化しすぎている。実在人物の評価は歌舞伎役者のようには白黒はつけられない。
第五巻の要旨
日本は西洋に比べ貧しいのはなぜか?財が乏しいからではなく、財を蓄える智力に欠けるからだといえよう。智力は持っている。ただ開闢以来、財を生む階級と財を費やす階級を二分する社会構造のせいなのだ。財を生むだけではダメ、財を費やすだけではダメ。各個人が財を生んで費やさなければ、経済は発展しないのだ。習慣というものは恐ろしいもので、日本人は他人にペコペコすることを恥とも思わないなんて、性(人間の本質)にまで影響が及んでいる。まあ仕方ないと思うけど、西洋じゃありえないね。西洋にも日本にもいろんな階層が存在することは同じだ。しかし、西洋では均等にばらまかれて各階層が自由であり、お互いに相手を生かすような社会構造だ。対する日本は、「権力の偏重」といって、上層が絶対権力を持って下層を殺し上層に這い上がってこられない社会構造になっている。しかも江戸時代には、徳川将軍家の既得権益を長く独占する目的で何千と細分化された階層に閉じ込められ、各階層がお互いに交流が持てず、才能があるのに生まれた家柄によってその才能が生かせなかった。まったく最悪の事態である。たしかに自由は不自由な環境に置かれて初めて生まれるものだ。西洋のように不自由なれど各階層が平均的にばらつきがある社会構造なら、まだ自由が生まれる余地がある。しかし日本のように、(ほんの一握り少数の)勝者が、(大多数の)敗者を絶対権力で抑圧し奴隷化する場合は、自由が生まれる余地など残っていない。下層は上層の奴隷にすぎない。
財を成せる者は、財に見合った智力を身につけなさい。智力が伴わない上流の人は、つまらないものに浪費する癖が付く。美徳たる活発敢為とは程遠い。智力が伴わない下流の人は、なににカネを使っていいかわからず、貪欲ケチになる。美徳たる節倹勉強とは程遠い。
学問もまた然り。上層の武士は戦乱のため落ち着いて学問を修めることができず、後鳥羽上皇の宣旨が読めず、領内の農民わずか一人だけが字が読めたという、由々しき事態も起こった。下層は家業に追われて学問どころではなかったことは周知の事実であろう。平安時代は上流貴族だけしか学問に触れられず、鎌倉時代になってようやく民間に儒学者が出現したが、彼らは政府に登用され、人民の中に学者は生まれなかった。戦国の世には、仏寺に儒学者が身を寄せたのだが、もともと仏寺は官の建立物であり、仏僧は官吏であって、結局儒学者も江戸幕府に登用されてしまい、(林羅山は身分が低く幕府と距離を置いて付き合っており、ちったぁ見込みのある人物と思われるが)、学問は独立の地位を築くことができなかった。僧侶は政府の奴隷であり、信者が拝んでいたのは仏教の光明などではなく、政権の威光である。僧侶が戒律を破ったという咎めで、政府に逮捕されて市中引き回しの上、流罪になったことがあった。また政府が僧侶に妻帯肉食を許可するおふれを出したこともあった。戒律を破りたくないからではなく、政府の許しがないから妻帯肉食はやめてましたなんて、日本に宗教なんかないと言ってもいいんじゃないの。本来学問を修めるべき立場の武士たちが戦乱に明け暮れ学問を修めず、専らこんな僧侶に学問をゆだねてしまったことは、学問に対する恥辱と言わざるを得ないね。
西洋にも戦乱があり日本と事情は同じだったが、そのあとがちがう。西洋では人民の間に学問が起こり、学問は官私の別なく学者の手にゆだねられたのだ。日本の場合は、政府の中に学問が起こり、学問は政治の一部となってしまい、独立の地位を築けなかった。
*私の意見 かくして慶応義塾は明治政府の要請に応じず、私立学校として学の独立を図りました。しかし、人材が官に流れず官吏が悪質になれば元も子もない。横井小楠が唱えたように、学は官から独立を保ち、かつ学が官を教授するシステム構築を望みます。現行の官・民・学共同はとかく学が官民の下僕と化し独立を保てないことに変わりないので、最悪のシステムだと思います。小楠曰く、「官がつくった学校が、これはという人材を輩出したことはない。」 独立した学はカッコイイんですが、官の目が行き届かない分、とかく反日思想家の逃げ場・温床・たまり場となります。幕末・明治の人たちが現状の日本を見てどう思うだろうか?
第六巻の要旨
ここまで考えてみると、日本の文明は何から何まで西洋文明に及ばないという結論に達せざるを得ない。いまの日本人は先祖代々から受け継いできた重荷を下ろし、文明開化を急速に進めることで、ほっと安息を取っている状態だ。西洋の学芸をいろいろ輸入してみてはいるが、いっこうに人民の品行は悪くなっていく一方だ。
皇学を奉じる識者は、昔に戻れと宣伝しているが、誤りである。もともと人民は天皇を直接仰ぎ見て生きてきたことがあるだろうか?天皇に謁見を許された少数の封建君主を見てきたにすきないではないか。封建君主を天皇に入れ替えて、人民を再び未開の状態に戻そうとする動きは断じて許してはならない。
また神仏敬拝を失い人心荒廃した日本人の道徳観をキリスト教に入信させることで再構築すればいいという識者がいる。しかし、世界を見てみなさい。もし彼らのいうとおり、神の前の平等を説くなら、なぜクリスチャンが国に分かれて戦争を繰り返し、植民活動を続けているのだ?自国の権理通義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を修め、自国の名誉を輝かそうと努力する者を報国心と呼ぶ。報国心は一国に身を捧げ、一国を独立させることだ。政治を宗教色一色に染めて治めようとするクリスチャンは間違っている。元来、宗教は一身の私徳に口をはさむべきものであって、国のことに口出しをすべきではないのだ。
漢学者が、昔の孔孟を持ち出して人民を治めようとしているが、時代遅れもはなはだしい。同じことをいまここで繰り返しいうつもりはない。
いま人民は休息を取っている場合ではない火急の事態に陥っていることに目覚めよ。それは不平等条約をはじめとする外国交際(外交)の問題だ。国家が貧しくなる原因は、天然資源が少ないからではない。資源を加工する工業が劣っているからだ。
(1)資源の豊富な国から原料を輸入して、自国で生産した加工品を輸出しなさい。
(2)自国の人民を他国に入植させなさい。
(3)外国に余った資本を貸し付けて、利息を取りなさい。
日本はすでに外国(とくにイギリス)に金を借りてしまっていることが私は気になっている。
*実際、英国から借りた外債を完済するために、日本は日清・日露戦争を英国の肩代わりさせられたにすぎない。初めから近代日本は米英に完敗であった。
以上は外国交際の経済面の話だ。では品行面の話をしよう。人民同権の説を唱える識者(中江兆民や植木枝盛のことか)がいる。しかし、彼らは人民を支配していた武士階級なのだ。彼らの説には核心が欠けている感は否めない。虐げられてきた階級の人たちも党に加えなさい。
外人が来日して日が浅いにもかかわらず、日本に与えた経済的ダメージが大きいことに大部分の日本人は未だ気づかず、外国に対して権力を争おうとすらしない。彼らがなしている植民地活動をみるにつけて、日本の危機を感じざるを得ない。無法者の外国相手に、天地の公道なるもの(万国公法)で対応しようとするのはなんと言う勘違いか。ひとりひとりの人間同士の付き合いと、国同士の付き合いを混同している勘違いも見ていられない。臥薪嘗胆で今の不利な外国交際と立ち向かえ。
徳川時代の何百倍もの重荷が自らに覆い被さっている大変な時代であることに、人民は早く気づきなさい。人民の品行を高くするということは、修身の徳義を敬し、休まず働くということに他ならない。日本人を文明に進めるのは、日本を独立させるためなのだ。国の独立が目的であって、国民の文明は手段なのだ。国なく人なければ、これをわが日本の文明と言うべからず。
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