由緒ある宇佐神宮に参拝してきました。新神戸から小倉まで新幹線のぞみ、小倉から大分県宇佐まで特急ソニックで着きました。ソニックはゆったりしたスペースでなかなか快適でした。
大分県の線路沿線に菜の花がいっぱい咲いていましたが、ここ宇佐神宮にも咲いていました。桜は満開!すばらしいお花見でした。


池にはみごとな錦鯉が餌を競います。

これは上宮です。
これは下宮です。
宇佐神宮は上宮、下宮に分かれていて、御手水→上宮→下宮の順に参拝しました。通常は、2礼2拍手1礼なのですが、出雲大社同様、宇佐神宮は2礼4拍手1礼です。欽明天皇の夢の中に、応神天皇が現れて、宇佐神宮が571年建立されたようです。
向かって左から、一之御殿、二之御殿、三之御殿とあり、それぞれ、応神天皇、比売大神(ひめのおおかみ)、神功皇后が祭られています。左から参拝していきました。比売大神とは3人の女神の総称で、高千穂峡・天孫降臨のころの一番古い神様です。
749年、奈良大仏開眼の際、宇佐神宮の八幡大神(はちまんおおかみ)と比咩神(ひめのかみ)が神輿に担がれて奈良へ旅されました。765年、宇佐に再び戻られましたが、お告げにより隣の大尾(おおお)神社に一時滞在されました。そのとき769年、和気清麻呂がはるばる奈良の地から、称徳天皇の命でご神託を受けに大尾神社にやってきました。生駒山を超える際、和気清麻呂は何者かに暗殺されかけます。どうにかこうにか大尾神社に到着し、ご神託を受けることができました。
「わが国は開闢(かいびゃく)このかた君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだ、これあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は、必ず皇緒(こうちょ)を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除(そうじょ)をすべし。」
770年、道鏡の陰謀は敗れ去り、栃木県下野(しもづけ)に左遷されることとなります。779年、祭神は大尾神社から宇佐神宮の今の場所に戻されました。


長い階段を上って、やっと大尾神社にたどり着いて、参拝してきました。
参道で大分名物だんご汁定食をいただきました。幅広くて分厚いきしめんがはいっています。
特急ソニックをJR宇佐駅で待っていたとき、プラットホームから見た風景です。なにもない。大分で特急ゆふいんに乗り換え、由布院温泉「ゆふいん花由」へ向かいました。
窓からは由布岳が見られました。湯布院の街なみを下に見ています。ちなみに温泉は由布院、地名は湯布院と表記します。林を駆け回るうぐいすが、早朝からさかんに鳴いていました。
個室露天風呂から見た風景です。夕食は別室個室で、関アジ、地鶏、豊後牛、馬刺をいただきました。
翌日、金鱗湖(きんりんこ)に向かう途中、大分川の川べりに咲いていた桜並木です。由布岳がみれるという広々とした露天風呂・玉の湯に行きましたが、あいにく掃除のため入れず。隣の弘法の湯に600円で入湯。ゆふいんサイダー、ゆふいんプリンをいただきました。
雲をいただく由布岳です。北九州の山は急な山が多くみられます。なだらかな山波がだらだら続く大和には見られません。
湯気がたちのぼる金鱗湖です。
カモがリラックスして無警戒で寝ていました。
そば屋「泉」で、せいろそばと、どぶろくをいただきました。今泉堂の黒糖揚げまんじゅうはとてもおいしく、土産にしました。湯布院昭和館で、山下清展をやっていましたので、じっくり見ました。昔の小林桂樹演じる山下清の映画も見ました。山下清が下半身を出して歩いていると、こどもがおもしろがり、ますます面白がって出していたら、老人が「そこのものは隠すものだ。」と清を諭し、やめたという、自筆の日記には笑えました。
17時、湯布院発ディーゼル特急「ゆふいんの森」に乗車して、2時間20分くらいで博多に到着し、中洲に近いキャナルシティのホテルで1泊。ゆふいんの森は快適なゆったり空間で、女性の車掌さんが記念撮影してくれました。中洲の鳥善(とりぜん)で夕食。こじんまりとした個室で水炊きを食べられ、常客となっています。
翌日、金印を見たくなって、博多から地下鉄に乗って西新(にしじん)駅を下車。西南学院大学を横目に過ぎて徒歩10分で福岡市博物館に到着。常設展で、福岡の歴史を勉強しました。
朝鮮半島から、稲作が板付遺跡に日本で初めて伝わったそうです。
西鉄ライオンズのホームグラウンドだった平和台球場の地下から、鴻臚館(こうろかん)あとが出土して、現在発掘中とのこと。大宰府・九州王朝と、新羅・百済・高句麗との外交を語る木簡が出てきてほしいものです。鴻臚館とは外国使節を受け入れるための立派な館であり、明治文明開化の鹿鳴館みたいなものかな。
栄西が宋に渡る前、14年間ここ今津港に滞在していたそうです。栄西は日本に帰還して禅宗の一派・臨済宗を興し、茶を伝えました。
後醍醐天皇の時の活躍で、福岡を貰い受けた大友氏でしたが、長州の大内氏が進出。福岡は二分されました。大友氏は大分へ逃げ、佐賀の龍造寺氏と大内氏が福岡を支配します。大内氏は広島県吉田町から発祥した毛利氏に負け、毛利氏は大内氏を山陰へ追いやります。毛利氏が長州を支配し、九州に進出を図りますが、大友氏に負け断念。秀吉の時代、博多商人による自治が認められたのもつかの間。播磨姫路城を治めた、目薬売り商人・黒田官兵衛(如水)が、九州に進出。大友氏を破り、九州統一をめざし薩摩島津氏に迫らんとしたとき、家康から停戦命令が下ります。こうして黒田氏が福岡を支配します。織田信長によってくじかれた堺商人と同様な自治権を、秀吉が博多商人に許可したのは、文禄慶長役の際、朝鮮出兵の軍事基地にしたいと思っていたからだそうです。佐賀の鍋島藩(葉隠流武士)と福岡の黒田藩は仲が悪いのは当然で、長崎の交易利権を得るべく、隔年で福岡と佐賀が交互に長崎を支配しました。
朱子学者・貝原益軒も福岡出身です。
長崎を見ている藩にとって、開国は当たり前だったはずが、攘夷派も台頭して、藩内が二分されました。高杉晋作率いる長州の奇兵隊にも敗れる始末。佐幕派ゆえ福岡は時代の波に乗り遅れてしまいました。
晩年の北斎の自画像です。
大北斎展をやっていましたので、特別展も見ました。ペンネームが、春朗(20~35歳)→宗理(35~45歳)→北斎(45~52歳)→戴斗(53~60歳)→為一(60~75歳)→画狂老人(75~90歳)と変わっています。彼は日本の宝にとどまらず世界の宝ですね。
福岡タワーにもエレベーターで昇ってきました。百道浜、能古島、志賀島の眺めがなかなかグー!
新幹線さくらで博多から新神戸に帰還し、オリックス時代のイチローの親代わりだった牛タン屋「牛やたん平(ぎゅうやたんぺい)」で夕食。イチローは来日したとき、いつもここへ来るそうで、酒屋の兄ちゃんもイチローの練習に招待され、キャッチボールをしているそうです。三宮の「ゾウさんビル」にあり、たん平コースがおすすめ。
2次会はむかいのジャズ喫茶「ソネ」に行きました。中は広く、披露宴帰りの集団客と一緒でした。ソネに出演するのが、ジャズミュージシャンの大きな目標となっているそうです。
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