« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月31日 (木)

心合寺山(しおんじやま)古墳を訪ねて

大仙古墳(仁徳天皇陵)にまさるとも劣らない、5世紀前半につくられた前方後円墳、心合寺山古墳に行ってきました。午前診療を終え、近鉄各停で学園前から乗り瓢箪山で下車。瓢箪山商店街を徒歩で南下してみようと思い、外環状線のもうひとつ内側の道、東高野街道を歩きました。商店街を抜けたところで、東大阪市立埋蔵文化財センターを発見。少し寄り道がてら入場しました。閲覧入場は無料。特に目新しいものはなく、こどもの歴史勉強館といったところでしょうか。東大阪市の遺跡をまとめたガイドブックはよくできていましたので、2冊(\400)を買いました。あとはひたすら汗をかきかき歩くのみ。m'sドラッグを通り、貴島病院を左に、マンダイ百貨店を右に見て、老人ホーム寿光園を左折すれば、ズドーンと生駒山地を背景とした前方後円墳に出会いました。駅から50分はゆうにかかりました。

201103311516000

201103311517000

201103311519000

201103311520000

円筒埴輪、朝顔形埴輪がお出迎え。ここは中臣氏のふるさと。

201103311526000

蓋形(きぬがさがた)埴輪もきれいです。

心の目で見ましょう!河内湖の向こうに難波京が見えませんか?

201103311527000_2

201103311528000

3体の被葬者が円墳墳頂に埋葬されてあり、死者目線で高安山(たかやすやま)をみると、絶景かな!

短甲(たんこう)、冑(かぶと)、板錣(いたしごろ)、太刀、鏡がここから出土しました。板錣とは、首を防御するための鉄板です。

201103311533000

方形壇と呼ばれる祭壇が、方墳墳頂につくられています。

201103311535000

方墳の祭壇から円墳を眺めるとこうなります。

201103311538000

地上から方墳を眺めると、いかに大きい古墳かがわかりました。

八尾市立しおんじやま古墳学習館はあいにく工事中で、レプリカしか置けないとのこと。次回は八尾市立歴史民俗博物館に行ってみたいと思います。

帰りはさすがに疲れましたので、貴島病院の向かい側のバス停・楽音寺(がくおんじ)から瓢箪山まで、20系統近鉄バス(\240)で帰還しました。 

    

|

2011年3月27日 (日)

相国寺(しょうこくじ)、京都市考古資料館を訪ねて

201103270949000

西大寺から京都まで近鉄特急、京都から今出川まで地下鉄を乗り継いで、同志社大学を横目に通り、相国寺に行ってきました。相国寺は栄西・臨済宗のお寺で、金閣寺・銀閣寺は相国寺の末寺になります。冷泉家貴族出身の藤原惺窩(ふじわらせいか)が相国寺の禅僧となり、五山僧の教養に過ぎなかった儒学を学びました。そのころの相国寺の師は、相国寺の復興に大きく貢献した西笑承兌(せいしょうじょうたい)。相国寺は朝鮮通信使と関係が深く、儒学をさらに深く学ぶにはもってこいの環境でした。藤原惺窩の弟子が京学派として繁栄し、徳川家康からも重用されました。藤原惺窩自身は江戸へは行かず、弟子の林羅山を派遣し、神田・昌平坂学問所にて、徳川将軍家や上級武士子弟に朱子学を講義することとなります。

藤原惺窩の弟子たちが、のちに朱子学派vs陽明学派に分かれ、幕末志士たちにどれだけ寄与したことか!

禅僧は漢文が読め、漢詩が詠めましたので、中国・朝鮮との外交には欠かせない存在でした。法華宗と天台宗の仲が悪く、比叡山僧兵に対抗するため、京中の法華宗の寺は守りが固く作られていましたので、織田信長は京都の宿代わりに法華宗の寺を利用しました。

豊臣秀吉は寺社を征服すべく、刀狩の要領で、寺社の領地を一回召し上げて、忠誠心の厚い寺に、ごほうびとして多くの領地を与えました。相国寺の西笑承兌(せいしょうじょうたい)は、「秀吉御伽衆(おとぎしゅう)」と呼ばれた秀吉のブレインとなり、火事で消失した相国寺の復興発展に尽くしました。また、文禄慶長の役(朝鮮出兵)の後始末を、買って出ました。秀吉は字の読み書きができませんでした。

秀吉の死後、徳川家康に接近し、関が原の戦いの前、なんとか戦争を回避できないかと奔走したりしました。家康は近畿一円の寺社をもっと強く掌握することを望み、西笑承兌を奈良京都の寺に派遣し、家康の代役として、暮らしている僧侶の数に応じて領地の取り分を再配分させました。1607年、西笑承兌が死ぬと、家康は南禅寺の以心崇伝(いしんすうでん)と親交を深め、南禅寺は相国寺の領地を奪っていきました。

201103270957000

これは法堂(はっとう)です。雲水たちの修行場で、床は石が敷き詰められ、座禅の修行がいっそう厳しいものになっています。天井には狩野光信作の「蟠龍図(ばんりゅうず)」が書かれてあり、釈迦如来を祭ってある鐘の横で拍手を打つと、龍が鳴いているような音の響きが聞こえました。鳴き龍と呼ばれ、凹面鏡の上に絵が描かれているから、響くようです。龍の目はどこから見ても自分を見つめています。

201103271015000

開山塔のみごとな前庭です。開祖・夢窓疎石や、スポンサー・足利義満の像があります。このあと、浴室を見学しました。ゆっくりつかる浴槽はなく、白い浴衣を着て、勺でかけ湯をするだけの施設です。のんびり湯につかることは修行僧には許されません。入り口横には違反者がいないか見張り役が座っていました。

201103271045000

相国寺は、承天閣(じょうてんかく)美術館をもっています。今回は、伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)の特別展でした。京都錦市場の八百屋さんの生まれだった伊藤若冲。相国寺の僧侶に可愛がられていたようで、金閣寺大書院の襖絵を任されました。筆のタッチは一言で言って自由奔放。誰も気づかないような視点から、鶏や鶴などを描きました。まさに江戸時代の漫画家!特に、えさをついばむ鶏の顔はこっけいです。これがほんとの「うこっけい」?

201103271505000_2

今出川通りを西へ行き、堀川通りを越えたあたりに、京都市考古資料館があります。ここの先生方がたまに奈良・帝塚山大学に講演に来られますね。

201103271403000_3

201103271404000_3 201103271400000_2

最後は石製の耳栓だそうです。痛そう!

201103271410000 201103271409000

平安時代につくられた白色土器です。平安京独特の土器なのか、はじめて見ました。白色はどうやって出すのでしょうか?

201103271404001

京都盆地の古代豪族です。秦氏、賀茂氏といった渡来系に混じり、粟田氏もいたんですね。大宝律令作成にたずさわった粟田真人(あわたのまひと)が生きたのは、則天武后(そくてんぶごう)が易姓革命によって、唐を乗っ取り、周を建国した時代。奈良・平城京では元明・元正天皇と、女帝が続いており、則天武后は日本に親近感を抱いていたようです。

出雲からやってきた出雲氏にも注目したいですね。出雲狛(いずものこま)は壬申の乱で、大海人皇子側について活躍しました。

|

2011年3月26日 (土)

古いヤツだとお思いでしょうが

古いヤツこそ、新しいモノを欲しがるものでございます。

http://www.youtube.com/watch?v=NyCG6epl1m8&feature=related

鶴田浩二氏の「傷だらけの人生」は、いまなお、私の心にグサッとくるものがありますね。「馬鹿と阿呆のからみあい」・・・同じ過ちを二度と繰り返さない賢明さが、今の時代、特に必要です。

|

2011年3月21日 (月)

神戸市埋蔵文化センターを訪ねて

201103201439000

北神戸7号線を前開で下りて、西神中央の神戸市埋蔵文化センターへ行ってきました。西神中央公園内にあり入場無料です。兵庫県の弥生文化遺跡がここに集められていると知り、やっと見ることができました。西神中央には、縄文遺跡が栄えており、引き続き弥生時代も繁栄を極めていたようで、たくさんの古墳遺跡が発掘されています。先日訪れた五色塚古墳もそのひとつにすぎないようです。

201103201518000

見どころはコレ。埴輪棺です。鰭付円筒埴輪と盾形埴輪をくっつけて遺体を納めています。頭が盾形埴輪、足が鰭付円筒埴輪です。

201103201519001

仕上げは蓋形(きぬがさがた)埴輪でふたをします。6世紀の古墳とのことですが、6世紀くらいになると、こういう芸当もできるのですね。

201103201456000

201103201457000

201103201458000

701年大宝律令まで、ここも郡ではなく評と呼ばれていたようです。おそらく696年大化改新にて、高市天皇(高市皇子ではなく)が、藤原京で藤原不比等に暗殺されて、天武天皇の妻・鸕野讚良(持統天皇ではなく)が孫の文武天皇を即位させ、大宝律令を制定しました。九州王朝滅亡に対する民衆の憤懣が、蝦夷の反乱、藤原広嗣の乱、道鏡の天皇即位未遂といった大事件、そして万葉集を生みました。

201103201453000

|

2011年3月16日 (水)

バンカラ賛歌

バンカラの妙味を知らない人に、一服の清涼剤とならんことを。反面、少数精鋭の校舎では大学院レベルの語学授業がハイピッチで進行しました。弊衣破帽、白線帽、朴歯下駄、マント、長髪族、オンケル、ダスキン、寮雨、ストーム、蝋勉、ドッペる、記念祭、寮デコ、逍遥、ロンド、エスケープ、代返、対抗戦応援合戦、沈潜、賄い征伐、赤点、赤電、青電、リーベ、メッチェン、バクシャン、エルステ、ゲルピン・・・。この意味、いくつおわかりでしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=TUFC6hoNssI

|

2011年3月14日 (月)

東日本大震災

このたび、東日本大震災の被災者の方々にお見舞い申し上げます。どうしても16年前の阪神大震災のことが思い出されます。阪神大震災2ヵ月後、電車が分断されるなか、シャトルバスやタクシーを乗り継いで、火事で変わり果てた長田や地割れの道路を横目に、東京世田谷の国立小児病院から須磨の兵庫県立こども病院に転勤しました。早く復興されんことを願っております。こども手当支給や高校授業料無料化を直ちに廃止して地震被災者復興資金に全額当てるべきだと思いますが、菅直人総理大臣はいかがお考えでしょうか??伊達直人はきっと同じ意見だと思います。

わたしは、あの時間ちょうどクリニックビル3階で、インターネット中でした。フラーフラーとしためまい感に襲われ、1分間くらい長くて大きな横揺れを感じました。青森県八戸の友人宅は幸い無事であることを知らされ、ホッとしております。

高知市、南国市、安芸市に親戚がおりますが、大陸プレート移動という同じメカニズムによる、近い南海大地震のことを考えますと、沿岸区域中心に鉄筋コンクリート高層ビル建設を切望します。このままでは高知県の陸地のほとんどが津波に飲み込まれること必至でしょう。桂浜にそびえる坂本龍馬像が流されるかもしれません。ビジネスホテルや観光ホテル10軒くらいでは被災者収容はできません。

|

2011年3月 6日 (日)

五色塚古墳へふたたび

201103061328000

はにわに関する基礎知識を得て、再び神戸垂水の五色塚古墳に行ってきました。去年の真夏に訪れたときと比べ、受付がきれいに改築されており、出土した埴輪が展示されていました。

201103061335000_2 201103061335001 

上の二つは、五色塚古墳で出土した埴輪で、鰭付(ひれつき)円筒埴輪といいます。底部の脚は退化しており、透孔は、半円形、楕円形、三角形、長方形です。弧帯文ははっきり見えません。

201103061335002

これも五色塚古墳で出土した埴輪です。一見、朝顔形埴輪ですが、わずかに鰭が付いており、正式には鰭付朝顔形埴輪といいます。底部の脚は退化しており、透孔は三角形、弧帯文ははっきり見えません。このころになると、弧帯文の本来の意味も理解されていなかったのでしょう。

201103061342000_2

復原された鰭付円筒埴輪と鰭付朝顔形埴輪が、円墳と方墳の辺縁に配列されています。こういったビジュアル重視に変わったのは4世紀のことです。淡路島と明石海峡大橋を臨む場所に、五色塚古墳は君臨しています。昔から、海運の要所でした。

桜の季節、東大阪・瓢箪山の心合寺山(しおんじやま)古墳を訪れてみたいと思っています。乞うご期待。

|

特殊壺、特殊器台、埴輪

橿原考古学研究所附属博物館の特別陳列「埴輪のはじまり~大和の特殊器台とその背景」に、3月3日木曜日に再び勉強に行ってきました。基礎知識を改めてメモってきましたので公表したいと思います。

埴輪の前身は特殊壺と特殊器台というセットでした。もともと吉備で、銅鐸を叩きながら祭祀に用いられていたものが、五斗米道(道教異端派)を奉じた卑弥呼の生きた3世紀に大和に持ち込まれ、銅鐸は加熱後叩き割られ、もっぱら葬儀に特殊壺と特殊器台とが用いられるようになりました。大和で特殊壺と特殊器台が大量生産されるようになり、都月型と呼ばれる特殊器台形埴輪という移行期を経て、埴輪に進化しました。

3世紀では、円筒埴輪、朝顔形埴輪が主体で、ほかに珍しい形の埴輪として、壺形埴輪、楕円筒(だえんとう)埴輪、柵形(さくがた)埴輪がつくれました。朝顔形埴輪の朝顔は、特殊壺の二重口縁の名残です。楕円形を弥生人が認識していたのにはすごく興味が惹かれます。

4世紀になると、家形埴輪、靫形(ゆぎがた)埴輪、蓋形(きぬがさがた)埴輪、鰭付円筒(ひれつきえんとう)埴輪がつくられました。靫とは矢を納める袋です。今年2月24日、桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳で、4世紀末日本最古の盾持ち人埴輪が公開されました。

5世紀になると、水鳥、鶏、馬、鹿、猪、武人、巫女、船といった形をまねた形象埴輪がつくられました。今年4月1日に大阪府高槻市の今城塚古墳(継体天皇陵)に「いましろ大王の杜」がニューオープンしますが、形象埴輪がたくさん出土しています。

特殊器台は次のように進化しました。

立坂(たてざか)型→向木見(むこうぎみ)型→宮山(みややま)型→都月(とつき)型

大阪府八尾市の 東郷遺跡は例外ですが、初期の立坂型と向木見型の二つは吉備にしか出土せず、大和には存在しません。ということは、吉備から大和に特殊壺・特殊器台文化が流入したことの傍証とされます。

見るポイントは大きく3つあります。

(1) 底部の脚部 だんだん退化してくる

(2) 透孔の形

(3) 弧帯文(こたいもん)の形態

Photo

(1)立坂型特殊器台

倉敷市 楯築(たてつき)墳丘墓

総社市 立坂墳丘墓

出雲市にもみられる。

特殊壺は焼成後に底部に孔をあけられるケースが多い。

立坂型特殊器台は次の二つに分類される。

連続型 弧帯文、レンズ型透孔

分割型 綾杉文(あやすぎもん)、斜線文、斜格子文、長方形透孔

(2)向木見型特殊器台

新見市 西江墳丘墓

三次市 矢谷(やだに)墳丘墓

特殊壺は焼成前に底部に孔をあけられる。

弧帯文の中に斜線文がある。曲線文様が左下から右上に向かう。

巴形と三角形の透孔

(3)宮山型特殊器台

総社市 宮山墳丘墓

桜井市 箸墓古墳

天理市 中山大塚古墳

数条の線刻によって弧帯文が表現されている。曲線文様が左下から右上に向かう。

(4)都月型特殊器台(特殊器台形埴輪)

岡山市 都月坂1号墳

桜井市 箸墓古墳

天理市 中山大塚古墳

数条の線刻によって弧帯文が表現されており、複数の斜線文によって区切られる。曲線文様が左上から右下に向かう。

巴形と三角形の透孔

都月型の特殊壺は、特殊壺形埴輪と呼ばれ、朝顔形で二重口縁壺である。

ここで代表的な初期の古墳を列挙します。

(1)八尾市 東郷遺跡

向木見型特殊器台が関西で唯一出土している。河内と吉備との交流があったことを示す。

(2)天理市 東殿塚(ひがしどのづか)古墳

鰭付楕円筒埴輪(長方形透孔)、円筒埴輪(正形透孔)、朝顔形埴輪(辺形透孔)が出土している。

(3)天理市 西殿塚(にしどのづか)古墳

円筒埴輪(半円形透孔)、宮山型特殊器台、都月型特殊器台が出土している。

(4)京都府向日市 元稲荷古墳

宮山型特殊器台、都月型特殊器台が出土している。

(5)天理市 行燈山(あんどんやま)古墳(崇神天皇陵か?)

楕円筒埴輪、形象埴輪、土師器、須恵器が出土している。

(6)天理市 渋谷向山(しぶだにむこうやま)古墳(景行天皇陵か?)

円筒埴輪、鰭付円筒埴輪、形象埴輪が出土している。

|

2011年3月 3日 (木)

オネエ××

昼休みの番組、小堺一機氏の「ごきげんよう」に、水無昭善氏というオネエ住職が出演されていました。はじめて見ましたが、強烈なインパクトでした。真言宗の住職のようで、空海もOKなのかな?お寺は彼にとって最高の涅槃かもしれません。男子校にいましたが、オネエはいませんでした。噂のゲイは数名いらっしゃいましたが。

IKKO、カバちゃん、マツコデラックス、楽しんごなど、オネエキャラが流行のこのごろ。オネエ医師がどこかにいないものか。医療保険制度やたらいまわし医療などについて、本音トークを聞いてみたい気がします。ちなみに「オネエ医師」でググりましたら、ジャガー横田の木下医師がヒットして笑えました。

ゲイ vs  オネエ

ゲイは精悍なオトコのにおいを醸し出し、オネエはアイドルぶりっ子のにおいがする点がちがうのかな?自己認識の相違の結果か?男性を好きな点は共通ですね。

たわいもない神々の遊び??

|

2011年3月 1日 (火)

フリードリヒ・デア・グローセ

孤高のプロイセン国王、フリードリヒ大王はわたしの理想的な殿さまです。この方の下なら働きたい。国が滅ぶや否やの危機には、自ら馬にまたがり先頭を切って進軍する。愛用のフルートと1冊のギリシャ哲学書を懐に入れ、戦闘の合間には、忠実な部下に愛用のフルートを吹いて聞かせ、迷えるときは哲学書を読み自己反省をくりかえす。屈折した子供時代からは想像ができないような繊細にして大胆な性格です。

http://www.youtube.com/watch?v=UoO_qIqsbMY&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ipyqMjPniHQ&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=W5GteaSVUE0&feature=related

↑大学生が作った歌が、ハイデルベルク市民にいまも歌い継がれている。

|

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »