中国自動車道の西宮北インターから津山インターを下りて、岡山県津山の洋学資料館に行ってきました。片道2時間半の旅でした。平成22年新規オープンしたきれいな記念館で、客もまばらでした。しかし政治に失望した人たちが振り返るのは日本の原点ですから、蘭学・洋学ブームは必ず近日やってくるはずです。
まずは杉田玄白(1733~1817)、前野良沢(1723~1803)の「解体新書」から展示してあります。オランダ語を読めなかった杉田玄白。内科は漢方!外科は蘭方でなくちゃいけん!と叫んだ杉田玄白でしたが、実際にオランダ語医学書「ターヘルアナトミア」を訳したのは、前野良沢と、徳川幕府御用蘭方医・桂川甫周(1751~1809)でした。また実際の腑分けは、ヒトの解剖に詳しかった虎松が行いました。ちなみに最初に日本で人体解剖したのは、京都の漢方医・山脇東洋(1705~1762)でした。東洋のふたりの弟子、伊藤友信、小杉玄適とともに解剖し、東洋は解剖記録「蔵志」を著しました。小浜藩藩士・小杉玄適が同じく小浜藩藩士・杉田玄白に京都での解剖の様子を語り、玄白の解剖意欲を沸き立たせました。
漢方・古方派のバイブルは、「傷寒論」と「金匱要略」のふたつです。前者は急性疾患、後者は慢性疾患の治療について書かれています。古方派の当時の権威は、山脇東洋と吉益東洞(1702~1773)でした。吉益東洞のふたりの弟子、鶴田元逸は「医断」を著し、佐野安貞は「非蔵志」を著し、ともに解剖不要論を唱え山脇東洋を辛辣に非難しました。
8代将軍徳川吉宗は青木昆陽(1698~1769)、杉田玄白らを重用し、儒学の解釈を離れ科学的なものの見方をする習慣を支持しました。古代中国のことばで儒教を解釈しなければならないとする荻生徂徠を筆頭とする当時江戸流行の一派を退けました。青木昆陽は九州のシラス台地にサツマイモ栽培を推奨して飢餓を防いだことで有名ですよね。
江戸幕府が自ら建て直しを図っていた、徳川吉宗の時代、以下の三大潮流がありました。
江戸の蘐園(けいえん) →荻生徂徠(1666~1728)
*木村蒹葭堂(1736~1802)が大坂にサロン「混沌社」を開く。
大坂の懐徳堂(かいとくどう) →中井竹山(1730~1804)
*弟・履軒(1732~1817)が「水哉館(すいさいかん)」を設立。
*富永仲基(1715~1746)が儒学を相対視して破門される。
京都の石門心学 → 石田梅岩(1685~1744)
杉田玄白は中華思想に染まっており、儒学に疎い分だけ蘭学者を下に見ていました。前野良沢は朱子学など中国思想全般にわたって浸食していた陰陽五行説を誤りとみて、蘭学を学び、「和蘭訳文略」を著しました。この当時、オランダ語を読めたのは、青木昆陽と前野良沢くらいでした。
大槻玄沢(1757~1827)は前野良沢に弟子入りし、中国も辺境の一国に過ぎないと主張し、中華思想を否定し、オランダを西夷視することを非難しました。蘭学とはなにかを説いた「蘭学階梯」を著しました。師匠・前野良沢はオランダ語の解釈は、漢文訓読法を応用すればよいと説きましたが、大槻玄沢は、代名詞・冠詞・前置詞を理解できれば、返り点を付けなくても上から下、左から右へ読めると説きました。宇田川玄随と桂川甫周ともに、「蘭学階梯」のあとがきを寄稿していますが、漢学者に馬鹿にされたくない意図で、漢文の知識を必要以上にひけらかしています。岩手県一関市出身の大槻玄沢は江戸の私塾「芝蘭堂」を開き、オランダ正月と呼ばれる蘭学者たちのサロンの場を提供しました。のちに仙台藩に転籍され、芝蘭堂は東北大医学部の前身となります。
これなくして洋学研究はできなかった蘭和辞書が二つあります。
波留麻和解(はるまわげ) 1796年
稲村三伯(1758~1811)が、蘭通詞・石井庄助の援助で、フランソア・ハルマの「蘭仏・仏蘭辞書」を訳して著した。三伯は、宇田川玄随・玄真にオランダ語を学び、大槻玄沢の芝蘭堂でオランダ医学を学んだ。
ヅーフハルマ 1833年
長崎出島商館長(カピタン)ヘンドリック・ヅーフと、蘭通詞・吉雄権之助(1785~1831)が著した、膨大な辞書。権之助は長崎で、シーボルトの鳴滝塾に出入りしていた。
長崎通詞に語学の大天才がいました。その名は、馬場佐十郎(1787~1822)。志筑忠雄にオランダ語、ヘンドリック・ヅーフにフランス語、ジャン・コック・ブロンホフに英語を学び習得し、さらに高田屋嘉兵衛と交換・返還されたゴロウニンにロシア語を学びました。1810年、日本初の日蘭辞書「蘭語訳撰」を著しました。35歳で死去は若すぎました。
宇田川玄随、玄真、榕庵と3代にわたり、蘭学が津山で発展しました。津山は日本蘭学研究のアレキサンドリアでした。玄随は漢方医から蘭学医に転向し、桂川甫周にオランダ語を学び、「西説内科撰要」を著しました。内科にも蘭方を適用すべきだとする先進的な考え方を持った偉人でしたが、わずか42歳でこの世を去りました。その養子、玄真は「医範提綱」を著しました。これは学習に便利な医学用語辞典で、「膵」「腺」「小腸」「大腸」などといった訳語を新しく作りました。玄真の養子、榕庵はマルチな才能の持ち主で、「植学啓原」で植物学を、「舎密開宗」で化学を確立しました。榕庵の養子、興斎は、同じく津山の箕作阮甫とともに、ペリーとの通商外交の通詞として活躍しました。イギリス英語の「英吉利文典」を著しました。その子、準一は物理学が得意で、「物理全志」を著しました。
津山の箕作阮甫は、宇田川玄真に学び、「和蘭文典」を著し、江戸の蕃書調所(東大の前身)の初代教授に就任しました。大槻玄沢の弟子、稲村三伯の「ハルマ和解」はオランダ語辞書として有名ですが、ボリュームがすごくて初心者向きではありません。緒方洪庵が開いた適塾では、まず阮甫の「和蘭文典」をオランダ語入門書として学ばせてから、ハルマ和解を用いさせたそうです。
英学塾 慶応義塾 vs 三叉学舎
慶応義塾に対抗すべく、阮甫の子、箕作秋坪は三叉学舎を開き、東郷平八郎元帥、原敬首相など卒業生を送り出し、津山出身の津田真道、福沢諭吉、中村正直、西周、加藤弘之、西村茂樹らとともに「明六社」を設立しました。
日帰りでしたので、津山城の備中櫓を見学しました。天守閣はないのですが、その跡地から見下ろした備中櫓もいいものです。
最近のコメント