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2011年1月26日 (水)

百姓一揆

渡辺浩先生が書いた名著「日本政治思想史」は一度は必読かもしれません。誤解しやすい点を中心に儒学思想を解説してくれています。江戸時代の儒者は、俳諧師、芸人、蘭学医師らと同様に道楽でやっていたんですね。儒学者・林一族だけが徳川から給料をもらっていただけで、あとは道楽。お弟子さんが来なければ貧乏困窮生活が待っていました。同じ道楽なら、まだメシが喰える医師になれと親は子に言っていました。

「男は度胸、女は愛敬。」と言われた時代で、イエを守ることがもっとも優先されました。夫婦仲をよくするためには、まずは女性側に愛敬が要求され、女性の手本は艶かしい遊女でした。遊女といっても現代とはちがい、教養や芸事に長けた優秀な女性でした。

日本政治思想史

日本政治思想史
著者:渡辺浩
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社中(会社)ができる前の江戸時代でしたが、お家(イエ)制度、寺請制度、五人組制度(=危険思想抹殺装置)が高度に発達した日本社会を支えていました。徳川は「御威光」と呼ばれた空威張りで虚勢を張っており、その舞台装置がきらびやかな大名行列でした。天皇は御所から一歩も出ることを許されず、行幸も禁止。天皇は「禁裏」と呼ばれ、徳川が外国に対し、公的文書で「日本国王」を名乗っていました。そんな体制、まちがっているんじゃないのと言った儒者が江戸幕府開始早々からすでにいて、それが浅見絅斎(あさみけいさい)でした。

大名に仕えた武士、ご家来衆は江戸時代前半、戦国時代の到来をまだ信じており、平和な時代のなかで、イライラがつのっていました。そんななか、武士がストレス解消・ひまつぶしではじめたのが、医師になること、儒者になることでした。武士はみんな悩んでいました。

ちょっと、ニッポンって、中国より実はすごいんじゃないの?と言い出したのが、伊藤仁斎以下の儒者の面々。お師匠さんがいなかったので、自由に四書五経を解釈し放題でした。もしお師匠さんがいたら、正統学説を否定して異端説を唱えるようなヤカラは破門されてメシを喰ってはいけないところです。犬公方・徳川綱吉のおかげで、徳川将軍家は100年もたたないのにもうガタガタ。徳川は1700年に滅んでいるはずのところ、反動政治家にして儒学者・新井白石が登場。綱吉の子がなかったり、ゴタゴタが続くのは、公家と同じように有職故実に江戸将軍家が従っていないからだとのたまう始末。新しく公家ファッションを大名行列に強制したりで、地方大名の財政は窮迫。

やっぱり新井白石はまちがっているということで失脚。代わって登場したのが、徳川親戚筋の徳川吉宗。荻生徂徠は、新井同様、自分を取り立ててくれると信じていたのに、吉宗からいっこうにお呼びがかかりません。たくさんのお弟子さんたちも路頭に迷い、荻生徂徠の説はおかしいんじゃないのと疑い朱子学に寝返った者たち、俳諧の世界でのんびり生きますわ宣言した者たち、世の中が変だから革命を起こそうと考えた山県大弐、日本は中国の学説に合わない立派な国だぜと主張する国学者・賀茂真淵を生み出しました。俺を起用しない江戸時代はもうすぐ戦国時代に逆戻りすると遺言した荻生徂徠でしたが、見事にその予言ははずれました。まあ荻生徂徠のせいで、民衆の道徳観念が乱れまくりました。

地方財政は逼迫の一途をたどり、給料が削られる一方の武士・ご家来衆。金のかかる決まりごとにがんじがらめになっていました。借金まみれ!それに比べて、商人は自由だし道楽し放題でいいよなぁ。給料をもっと上げろと武士が怒りをぶつけた先が百姓でした。

徳川 「サムライらしく、決まりは守らんかい!(フ・フ・フ、敵・外様大名の戦力を削ぎ、忠誠心を試す。これ兵法の説く一石二鳥の策なり。)」

武士 「ははぁ、かしこまりました。ごめん、また金貸して。」

商人 「お武家はん、そろそろ借金返しておくれやす。」

武士 「借金きついで、もっと年貢をあげろ!給料を増やせ!」

百姓 「不作の年じゃ、もっと年貢を下げろ!商人はもうけすぎ!」

商人 「上様、ご注文の鯛3匹お持ちしました。1匹1,200万円。」

徳川 「先祖供養のため仕方なし。柳沢吉保、田沼意次、あとはたのんだぞ。」

なんと百姓の税率は40~50%!ところが百姓は大名の大切なメシの種、大切なお道具でした。大名からはヒトではなくモノとして考えられていましたが、そこはしたたかに生きていました。まず手はじめに下手に出て、「年貢下げてもらえまへんやろか?」お役人様が「あかんで。」といったとたん、強訴がはじまります。ただし強訴は死罪のご法度!ご神前で杯をくみかわして、農民しか持つことが許されなかった鍬やら鋤をかかえて、商人の店をうちこわしたり、武家屋敷に談判に押しかけました。ことを荒立てて、江戸幕府に知れたらお家とりつぶしになるかもしれない大名たち。もう百姓の要求を呑んでおくしかありませんでした。「よかった、よかった。」と胸をなでおろして帰宅した農民たちに待っているものは、責任者の捜査逮捕。だいたい庄屋さんが罪をかぶることが多かったそうで、川原で斬首されました。ただそこはメシを食べさせてくれている大事なお百姓さまでしたので、斬首は一人までにせよとのお触れが幕府から出ていました。村人のために犠牲になった人たちは、村の鎮守の神様と並んで、義民として代々祭られました。

百姓一揆は、既存の権力者を転覆させようとする革命ではないし、犠牲者は出しこそすれ、一人くらいが妥当とされたのでしょう。一種のイベントだったんじゃないかな。

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2011年1月18日 (火)

日本政治思想史

国士舘大学の倉山満先生によれば、現代の日本の政治家には4種類いるそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=Xv444Helwg0

第1グループ→ 日本国がきらい、日本政府がきらい

第2グループ→ 日本国がきらい、日本政府が好き

第3グループ→ 日本国が好き、日本政府がきらい

第4グループ→ 日本国が好き、日本政府が好き

(1)はソ連の亡霊を追っかけ中共に服従する極左で、(1)が(2)の官僚を支配しているそうです。(2)は(4)の極右と協調して政党をつくっており(国共合作?)、(3)こそ日本国が存続するために重要なグループだとのことです。たとえば、民本主義を唱えた吉野作造氏が(3)でした。つまるところ、政党は合体・分裂をくりかえし、どの政党に投票しても金太郎飴ということか。

青葉の笛

http://www.youtube.com/watch?v=DrQn01ePrzQ&feature=related

東大退官教授による、よさげな本が発刊されていましたので紹介します。わたしは中江藤樹、伊藤仁斎、荻生徂徠に興味があります。江戸時代から文明開化にかけて、日本人思想家による代表的な思想がわかりやすく解説された文章だというコメントもありますし、私も本屋に注文しました。

阪大教官による、懐徳堂の概説です。懐徳堂は大坂商人がつくった学校で、江戸の学者・荻生徂徠によってかく乱された儒学の古き伝統を守り、発展させた江戸日本の命脈です。大坂で学んだ福澤諭吉の漢学の知識の深さをみてもわかるように、洋学発展の裏に漢学の真摯な勉強が基礎にあった(和魂洋才!)というお話しで、これも注文しました。京大リーディング大学院で漢学の講義がなされないとすると、嘆かわしい事態です。二畳庵主人の出番ですね。

徳川将軍家には、日本国全土を統治する高度な思想をもち合わせていなかった。かれらにとって身近でかつ実戦的な兵学こそ、彼らの思想の根幹であったというお話。

外来語研究の第一人者が説いた蘭学の本です。蘭学者が「役立たず」として、大衆から蔑まれていたお話。

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2011年1月16日 (日)

藤原宮を訪ねて

春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

藤原宮に行ってきました。なんとか小雪すら降らず、晴れ間も見え隠れするというまあまあの天気で助かりました。近鉄電車で大和西大寺駅乗車し、畝傍御陵前駅を下車してテクテク徒歩で藤原宮に向かいました。なにせ風がきつくて、とても寒く、藤原京の人たちも大変じゃなかったかな。途中、薬師寺跡に立ち寄りました。いまの薬師寺は藤原京から平城京に遷都した際、移されたものです。

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まず、藤原京資料室に向かいました。CGで藤原京の再現ビデオをみましたが、改めてすっごい・ごい・ご・ごいと思いました。(←ダイアン津田の今年イチオシギャグ)

藤原京の道端には水洗の公衆便所が備え付けてありました。

藤原京CG再現プロジェクト

http://www.nara-su.ac.jp/archives/fujiwaracg/index.html

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きれいな白鳳美女も迎えてくれていました。

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次に藤原宮大極殿を見学しました。鴨公(かもきみ)神社のご神木が1本あるだけでしたが。平安京の水脈・鴨川を支配した、渡来系の鴨氏が藤原京建設に加担していたんですね。

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大和三山のひとつ、セブンイレブンの駐車場から見た耳成山。

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朱雀大路跡からみた耳成山。

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次に、藤原京から見た天の香具山。

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最後に、本薬師寺から見た畝傍山。

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藤原京から見た畝傍山です。

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私が一番好きなのは、天の香具山かな。長屋王の父・高市皇子の豪邸や、九重の塔をもつ大官大寺=高市大寺が建てられていました。畝傍山に眠る神武天皇は、天の香具山の土をナガスネヒコ打倒の勝利祈願に用いました。

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2011年1月14日 (金)

赤塚不二夫展を観ました

昨日は、午前診を終え、奈良市1歳半集団健診をやって、なかむら小児科に戻ったのが午後3時半。そこから、近鉄電車、地下鉄御堂筋線と乗り継いで、心斎橋の大丸百貨店に行ってきました。人手はすいていました。

目的は、ニャロメの元気な姿を拝見すること。感想をひとこと、「なつかしい!」少年サンデーも展示してあって、なつかしさ倍増。主人公”もーれつア太郎”より圧倒的に主役だった、強烈な個性の脇役たち。公園にニャロメ、ケムンパス、べし、ココロの親分がそろえば、毎度お騒がせギャグストーリーはもう完成したようなものでした。

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とくに笑ったのが、「ニャンゲンにニャリたい」。カワイ子ちゃんに恋したニャロメ。どろぼうネコを追っ払ったニャロメは、八百屋の親父から人間だったら娘をやれるのにと言われ、人間になろうとします。両耳を切って、背を引き伸ばして、背広を着て、人間になったつもりのニャロメが発した第一声。「ニャンゲンにニャッてきました、ニャロメ!」ことば使いまでは改造できませんでした。当然、女の子からふられます。その言葉がまたおもしろい。「いやよ、こんなネコ!」全然人間になりきれていませんでした。ニャロメがむなしく切り返します。「ネコでない!ニャンゲンだ!」ニャンゲン≠人間なのにね。

赤塚氏は昭和10年満州に生まれ、終戦後帰国。昭和22年ころ、奈良郡山の小学校、中学校に通っていたそうです。オドロキ!

このニャロメの本をおみやげに買って帰りました。シェーのイヤミはたまにア太郎にも登場していましたが、私はおそ松くんをリアルタイムで読んでいません。6歳年上の明石屋さんまが熱烈なイヤミのファンだったことは有名です。シェー教に次いで、ニャロメ教の教祖様だった赤塚不二夫でした。その後、天才バカボンがアニメ化されて、バカボン教の教祖様にもなられました。ちなみにバカボンのパパのほうが圧倒的に主人公の息子より有名ですね。

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2011年1月11日 (火)

全寮制リーディング大学院(5年制)

なにやら京大が、リーディング大学院構想を打ち出したようです。1学年定員は16~20人で、全寮制。第二外国語必修。2012年4月に入学学生を募集開始するそうです。あと京大の吉田キャンパス周辺に寮を建てるそうですね。あのボロボロの吉田寮の隣にできるのかな?寮には教職員も住まわせて、学生と教授の裸のお付き合いができるそうです。欲を言えば、温泉風呂があれば、もっといいのですが。ストームはやってOKなのかな?

最初記事を見たときは、やっと超名門・旧制第三高等学校の復活かと思いました。昭和25年3月に滅亡した旧制高校は3年制で満17~20歳が通学する学校。理系3クラス、文系3クラスで、1クラス30人ですから、1学年180人、全校で600人。他校より高めの授業料を払っていました。「自由」を絶対的スローガンに掲げていましたので、授業に出ようが出まいがどうぞご勝手に主義でした。飲酒喫煙やフーゾクで鉄拳制裁や退学処分を受けることはなし。試験さえ合格すればよしでした。2年留年で放校処分。教職員と寮生は別々の生活圏でしたが、よく教授の家に遊びに行っていました。

今回のリーディング大学院は5年制で満22~27歳が通学する学校。オヨヨ、授業はすべて英語でやるのですか。1学年20人で、全校で100人足らず。最初の2年間は研究室配属ですから、修士課程ですよね。入学資格は理学部卒生と文学部卒生だけなのかな?

2年で修士論文を仕上げて、3年目に文系理系の垣根を除いた、芸術も含め幅広い教養を講義するようです。教養はやっぱりアカ色の強いものになるのかな?出席が厳しいのかな?なにせ1人年間300万円支給されるそうなので、義務は厳しく要求されるでしょう。4年目で海外留学。たった1年間では短すぎて実験論文は書けないですね。いろんな人間関係を結んでくるのかな?5年目で官公庁研修。結局エリート官僚養成が目的なのかな?官僚を嫌って民間企業に入っても必ずトップリーダーになるでしょう。

60年以上風化してしまった日本発エリート教育が、よちよち歩きをはじめました。もう少し若ければ、私も行ってみたいのですが、暖かく見守っていきたいと思います。

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2011年1月10日 (月)

橋本武先生の「表解徒然草」

元旦の朝日新聞記事によれば、「銀の匙」の遅読が脚光を浴びているようで、私のブログも橋本先生に関心をもたれている方に見ていただいているようです。

先生には「もうひとつの銀の匙ノート」とも言える「表解徒然草」という名著があります。本文は傍線通釈方式によって書かれており、各段ごとに表解、解説、語句、参考、設問の順に解説されています。銀の匙に並行して、中学1~2年で口語文法・文語文法、中学2年に宇治拾遺物語・今昔物語・枕草子ときて、たしか中学3年~高校1年のとき橋本先生の徒然草の授業を受けました。高校2年から源氏物語だったかな。高校1年で松岡剛夫先生が助っ人に入られて、現代国語と文学史の授業がすごくよかったです。二葉亭四迷、坪内逍遥といった明治文語文を読みました。高校3年で理系クラスになり国語はしばしご無沙汰しました。

いま解説を読むだけでも五十歳前のオンケルには楽しいものです。はしがきを紹介します。

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太平洋戦争も終結直後、物心両面ともに荒廃しきっていたとき、ザラ紙にガリ版印刷の手製のテキストを使って、古典の勉強をした頃の卒業生が、大学を出て会社勤めをするようになっても、文庫本の「徒然草」をポケットに入れて、繰り返し読んでいるという話をきいたことがあります。

そうかとおもえば、勉強にあけくれる受験生の、「徒然草」みたいな本があるから、自分たちは苦しめられるのだ、兼好はわれらの仇敵であるという溜息まじりの嘆声が、耳に入らないわけでもありません。

それは冗談にはちがいないけれども、冗談にしても、そんな受け取り方しかされないとすれば、兼好が可哀そうにも思えます。六百何十年をへだてて、受験生を苦しめることになるなどと、兼好はおもいもしなかったでしょうし、それはまた兼好の罪でも責任でもないからです。

受験のための「徒然草」なら、目的をはたしてしまえば捨ててかえりみられなくなるでしょう。しかし、「徒然草」の味読が、自然に受験につながるという読み方だってできるはずです。ようするに、考え方、心構えの問題となるのでしょうか。

いずれにしろ、「徒然草」を読むことにはなるのですが、受験のために読むだけならば、無味乾燥、”坊主憎けりゃ・・・・・・”のたとえの通り、生臭坊主めと毒づいてみたくもなりましょう。受験をはなれて読めば、あんがい、兼好と友だちづきあいができるかも知れません。

私がはじめて「徒然草」を読んだのは、中学三年の時だったでしょう。今からもう四十年ほども昔のことです。その時にうけた清新な印象のために、教科書だけで満足できず、参考書を買って読みふけったものです。

たしか冬のこと、風邪をひいて学校を休んでいるとき、こたつにもぐりこんで腹ばいになり、兼好の真似をして、わざわざ四ツ切りにしたワラ半紙に、徒然草まがいの短い感想文を書きつけていたことが思い出されます。障子の外には柔かい雪が降り積っていたはずです。

田舎の小さな町の中学三年生には、受験などということは、まだまだ縁の遠いものでした。(←*)私は「徒然草」によって、書く喜びと古典の楽しさを教えられたと思っています。それから、中学高校の国語教師となって三十数年、「徒然草」とはずいぶん縁の深いおつき合いをしてきました。そうして、私は私なりの楽しみ方で、生徒諸君と共に「徒然草」を勉強してきました。その結果がこういう本の形をとって、あなたの前に姿を見せることになったのです。

また「徒然草」かと、うんざりされるかもしれません。まったく、「徒然草」の本はいやになるほどあります。私自身、この多くの本の恩恵を蒙ることがなければ、この本はできなかったのです。私の本が、群書中の白眉であるなどとうぬぼれる気持は毛頭ありません。けれども私は、長い間、中学高校生の諸君とおつき合いをしてきて、あなた方のより効果的な勉強のお手伝いをしたいと、それのみを念じ、その方法を工夫し続けてきました。

この本のとった傍線通釈の方式は、かならずしも私の独創ではありません。多くの先人の示唆に負うところ多大なものがありますが、この方式の便利さは私自身が痛感していますので、何とかあなた方に利用してもらいたいと願っていたものです。

これを実現するためには、とくに技術の面でも資金などの面でも、数々の障害があると思いますのに、多大の犠牲をはらって、この方式を採り上げて下さった出版社の学生社に、心からの敬意と感謝をささげるものです。また、私の原稿を見て出版をお勧め下さった、編集部の大橋繁氏にも、厚く御礼を申し上げたいと思います。

とにかくこの本が、あなたの「徒然草」への窓をひらき、ひいては生涯の伴侶たるべき古典の一冊となるならば、私のよろこびこれに過ぎるものはありません。

昭和45年6月 

* 旧制中学は5年制でしたので、中学5年生が受験生です。

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高田屋嘉兵衛公園を訪ねて

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車で淡路島・津名一宮インターを下りて、五色町の高田屋嘉兵衛公園へ行ってきました。高田屋顕彰館・歴史文化資料館(菜の花ホール)には、1769~1827年、淡路島に生まれ淡路島に死んだ高田屋嘉兵衛の業績が展示されていました。

一漁師から豪商に身を立てた人でした。北海道のニシン・マス・シャケを江戸に運んで売り、残ったニシンを魚肥に用いて菜の花を栽培。当時貴重だった菜種油をしぼって、町人にまで広く普及させ、暗い夜に明かりを灯しました。当時はくさい魚油が使われ、夜のともしびも暗いものでした。菜種油で揚げたおいしい天ぷらも庶民の口にはいるようになりました。さらに難しかった綿花栽培にも成功し、麻布を身にまとうしかなかった庶民も、綿布を安価に着ることができるようになりました。古くから利権を握っていた江差組のイジメにめげず、函館のみならず、国後島、択捉島にまで、多くの港を新築し、原住民アイヌと日本人を平等に扱いました。

現在の遠距離トラック運送業も、スピードが要求されていますが、江戸時代の廻船業にもスピードが競われていました。嘉兵衛は天才的にショートカットして、スピードある輸送を行い、利益を効率よく最大限に生んだ総合商社の開祖でした。

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1787~1791年林子平が「海国兵談」にてロシアの脅威を説く。

1791年伊勢の大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に謁見。

1792年ラックスマン来航。

1804年レザノフ来航。

1809年間宮林蔵が樺太・シベリア間の間宮海峡を発見。

1812年、千島列島でロシア人ゴローニンを松前藩が拿捕した事件が起こりました。報復として、ロシア人リコルドが嘉兵衛を拿捕したうえ、シベリアに拉致しました。日本人の誇りを感じたロシア兵は徐々に嘉兵衛を丁重に遇するようになりました。嘉兵衛は拉致の間、ロシア語、アイヌ語を詳細に研究しました。幕府への調停を申し出て、それが許され、日露紛争の前面に立って交渉し日露戦争を回避させました。

死に際、釈放されたゴローニンが帰国船上で叫んだ言葉である「ウラー、タイショウ(万歳、大将)」と言って見送ってくれと言ったそうです。

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公園内にはログハウスがあって、温泉にも入れます。名物、淡路牛定食をおいしくいただきました。

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2011年1月 4日 (火)

奈良・初詣

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春日大社へ恒例の初詣に行ってきました。参道わきの飛火野で鹿が迎えてくれていました。奈良時代の歴史の勉強にはこの本が一番いいと思います。地図や系図が豊富でわかりやすいです。聖武遷都、蝦夷征伐、乱・事件の記述は圧巻。

白鳳時代の勢力図はこうでしょう。天武天皇の有力後継者は三人いました。右側が有力支持者です。天武は幼い頃、皇太弟(中大兄はまだ即位していないはず。誰の弟?)と呼ばれ、飛鳥浄御原宮にて即位しました。飛鳥浄御原宮には内裏や条坊がなく、京と呼べる代物ではありませんでした。

大津皇子 ← 大伴安麻呂

高市皇子 ← 石上(物部)麻呂:高松塚古墳被葬者か?

草壁皇子 ← 鸕野讚良(うののさらら):持統天皇  

唐と戦闘状態にあった新羅が、日本に対して非礼だとして、日本・新羅両国の関係が悪化しました。日本は唐の進駐状態でしたが、天武天皇が北九州・倭京の唐・進駐軍(筑紫都督府)を一掃後、壬申の乱を勝利し、672年即位。686年に天武没とされていますが、実は682年に天武は死んでいて(唐に殺されていて?)、大津皇子が難波京で大津天皇として即位し、急進的改革をすすめたとする説もあるようです。686年、高市皇子が急進的な大津天皇を貶めて殺し、高市天皇として即位したとする説があるようです。祟りが恐れられ、後日、大津皇子と後追い自殺した蘇我氏の妻・山辺皇女は二上山に手厚く葬られました。鸕野讚良の実子、草壁皇子は689年没。失意のどん底だった鸕野讚良は公務をほっぽりだし藤原京を抜け出し吉野へ幾度となく行幸しました。高市天皇を呪詛?持統天皇とは鸕野讚良ではなく、高市皇子ではなかったのかとする説もあるようです。鸕野讚良は文武(もんむ)天皇の皇太后としか日本書紀に書かれていません。

藤原京は正式には新益京(あらましきょう)と呼ばれ、9重の塔を有した大官大寺(のちの大安寺)がそびえていました。新羅の都・慶州にも9重の塔を有する皇龍寺がありました。今年は白鳳時代をもう少し勉強したいですね。

奈良時代、唐と新羅の関係が回復すると、唐と国交がなかった渤海が日本に使者を幾度となく送り、日渤交易がさかんになりました。唐・新羅vs日本・渤海が二極対立関係にありました。藤原仲麻呂にいたっては、新羅遠征を本気で計画していました。遣唐使が漂着する揚州には新羅商人がたくさんいたそうで、「政冷経熱」でした。現在の東アジア状況とよく似ています。

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2011年1月 1日 (土)

謹賀新年

明けましておめでとうございます。1/5(水曜)から診療を開始いたします。

診療の合間に、趣味の歴史の勉強を深めていきたいと思っております。過去を学べば、未来が読めると信じて。

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