百姓一揆
渡辺浩先生が書いた名著「日本政治思想史」は一度は必読かもしれません。誤解しやすい点を中心に儒学思想を解説してくれています。江戸時代の儒者は、俳諧師、芸人、蘭学医師らと同様に道楽でやっていたんですね。儒学者・林一族だけが徳川から給料をもらっていただけで、あとは道楽。お弟子さんが来なければ貧乏困窮生活が待っていました。同じ道楽なら、まだメシが喰える医師になれと親は子に言っていました。
「男は度胸、女は愛敬。」と言われた時代で、イエを守ることがもっとも優先されました。夫婦仲をよくするためには、まずは女性側に愛敬が要求され、女性の手本は艶かしい遊女でした。遊女といっても現代とはちがい、教養や芸事に長けた優秀な女性でした。
![]() 日本政治思想史 |
社中(会社)ができる前の江戸時代でしたが、お家(イエ)制度、寺請制度、五人組制度(=危険思想抹殺装置)が高度に発達した日本社会を支えていました。徳川は「御威光」と呼ばれた空威張りで虚勢を張っており、その舞台装置がきらびやかな大名行列でした。天皇は御所から一歩も出ることを許されず、行幸も禁止。天皇は「禁裏」と呼ばれ、徳川が外国に対し、公的文書で「日本国王」を名乗っていました。そんな体制、まちがっているんじゃないのと言った儒者が江戸幕府開始早々からすでにいて、それが浅見絅斎(あさみけいさい)でした。
大名に仕えた武士、ご家来衆は江戸時代前半、戦国時代の到来をまだ信じており、平和な時代のなかで、イライラがつのっていました。そんななか、武士がストレス解消・ひまつぶしではじめたのが、医師になること、儒者になることでした。武士はみんな悩んでいました。
ちょっと、ニッポンって、中国より実はすごいんじゃないの?と言い出したのが、伊藤仁斎以下の儒者の面々。お師匠さんがいなかったので、自由に四書五経を解釈し放題でした。もしお師匠さんがいたら、正統学説を否定して異端説を唱えるようなヤカラは破門されてメシを喰ってはいけないところです。犬公方・徳川綱吉のおかげで、徳川将軍家は100年もたたないのにもうガタガタ。徳川は1700年に滅んでいるはずのところ、反動政治家にして儒学者・新井白石が登場。綱吉の子がなかったり、ゴタゴタが続くのは、公家と同じように有職故実に江戸将軍家が従っていないからだとのたまう始末。新しく公家ファッションを大名行列に強制したりで、地方大名の財政は窮迫。
やっぱり新井白石はまちがっているということで失脚。代わって登場したのが、徳川親戚筋の徳川吉宗。荻生徂徠は、新井同様、自分を取り立ててくれると信じていたのに、吉宗からいっこうにお呼びがかかりません。たくさんのお弟子さんたちも路頭に迷い、荻生徂徠の説はおかしいんじゃないのと疑い朱子学に寝返った者たち、俳諧の世界でのんびり生きますわ宣言した者たち、世の中が変だから革命を起こそうと考えた山県大弐、日本は中国の学説に合わない立派な国だぜと主張する国学者・賀茂真淵を生み出しました。俺を起用しない江戸時代はもうすぐ戦国時代に逆戻りすると遺言した荻生徂徠でしたが、見事にその予言ははずれました。まあ荻生徂徠のせいで、民衆の道徳観念が乱れまくりました。
地方財政は逼迫の一途をたどり、給料が削られる一方の武士・ご家来衆。金のかかる決まりごとにがんじがらめになっていました。借金まみれ!それに比べて、商人は自由だし道楽し放題でいいよなぁ。給料をもっと上げろと武士が怒りをぶつけた先が百姓でした。
徳川 「サムライらしく、決まりは守らんかい!(フ・フ・フ、敵・外様大名の戦力を削ぎ、忠誠心を試す。これ兵法の説く一石二鳥の策なり。)」
武士 「ははぁ、かしこまりました。ごめん、また金貸して。」
商人 「お武家はん、そろそろ借金返しておくれやす。」
武士 「借金きついで、もっと年貢をあげろ!給料を増やせ!」
百姓 「不作の年じゃ、もっと年貢を下げろ!商人はもうけすぎ!」
商人 「上様、ご注文の鯛3匹お持ちしました。1匹1,200万円。」
徳川 「先祖供養のため仕方なし。柳沢吉保、田沼意次、あとはたのんだぞ。」
なんと百姓の税率は40~50%!ところが百姓は大名の大切なメシの種、大切なお道具でした。大名からはヒトではなくモノとして考えられていましたが、そこはしたたかに生きていました。まず手はじめに下手に出て、「年貢下げてもらえまへんやろか?」お役人様が「あかんで。」といったとたん、強訴がはじまります。ただし強訴は死罪のご法度!ご神前で杯をくみかわして、農民しか持つことが許されなかった鍬やら鋤をかかえて、商人の店をうちこわしたり、武家屋敷に談判に押しかけました。ことを荒立てて、江戸幕府に知れたらお家とりつぶしになるかもしれない大名たち。もう百姓の要求を呑んでおくしかありませんでした。「よかった、よかった。」と胸をなでおろして帰宅した農民たちに待っているものは、責任者の捜査逮捕。だいたい庄屋さんが罪をかぶることが多かったそうで、川原で斬首されました。ただそこはメシを食べさせてくれている大事なお百姓さまでしたので、斬首は一人までにせよとのお触れが幕府から出ていました。村人のために犠牲になった人たちは、村の鎮守の神様と並んで、義民として代々祭られました。
百姓一揆は、既存の権力者を転覆させようとする革命ではないし、犠牲者は出しこそすれ、一人くらいが妥当とされたのでしょう。一種のイベントだったんじゃないかな。
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