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2010年11月30日 (火)

「土をこねる、瓦を焼く」 石井清司氏・講演

昼休み、恒例の奈良テレビを見ていますと、なんとタイムリーな話題の講演会録画を放送していました。

京都府埋蔵文化財調査研究センター 石井清司先生 

「土をこねる、瓦を焼く」

朝鮮から渡来した瓦博士が須恵器工人となり、450年から須恵器窯で働きました。538年、欽明天皇のとき、百済の聖明王から仏教経典が贈られました。藤原京(694~710年)では100~200万枚の瓦が使われましたが、藤原京の瓦は和泉、河内、讃岐から調達され、まだまだ不均一でした。平城京(710~784年)の瓦は都の近くでつくられ、均一となりました。

飛鳥~藤原京の時代に階段をつくって須恵器や瓦を焼いたのが窖窯(あながま)です。平城京の時代に瓦を焼いたのが瓦窯(がよう)です。須恵器は食器皿として用い、瓦はお寺の屋根に用います。平城京では500~600万枚もの瓦が作られ、用いられていたそうです。平城山(いまの高の原~中山町あたり)にあった古墳の堀を利用して、瓦が成形されたそうです。

(1)粘土・土の確保  大量の粘土が必要で、あとに池ができる。

(2)燃料(薪の確保) 窯の温度を上げるために大量の薪が必要。

(3)粘土をこねる こね場で粘土と土を混ぜて、精製する。  

(4)瓦の成形

(5)生瓦の乾燥 乾燥させた瓦を一輪車で焼き場へ運ぶ。

(6)生瓦の焼成

(7)製品の搬出

須恵器の窯は丸型でもいいのですが、瓦は規格品ですので、能率よく焼く必要があり、四角の窯にして、火盾(ひだて)をつくり、火の通り道を曲げて焼き方が不十分な瓦ができないようにして、穴を小さくし火が窯の中で長く留め、窯の温度を長く高温に保つように工夫されました。

京都府八幡市の瓦窯

http://www.youtube.com/watch?v=2WJX2t517A0

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2010年11月28日 (日)

平城宮大極殿の復原

201006171453000昨夜、奈良ホテルで催された、奈良文化財研究所・文化遺産部・建造物研究所室長の島田敏男先生の講演を聴いてきました。なかなかわかりやすいお話でした。

藤原広嗣の九州挙兵の際、平城京から恭仁京に遷都されました。大極殿は恭仁京に移され、難波京、平城京へと遷都する際、山城国分寺として朽ち果ててしまいました。第1期大極殿の隣の位置に小さな第2期大極殿が再建築されました。

発掘で残されていた情報は、地面に埋め込まれていた基壇の一番下の石(地覆石)だけでした。基壇の高さ、礎石の位置、柱の位置はわからず、1階屋根なのか2階屋根なのかすらわかりませんでした。そこで平安時代末期の大極殿を描いた「年中行事絵巻」が参考にされました。壁になっているのか、扉になっているのか、いまとなってはわかりません。基壇の高さが高すぎますと、そんな均等な石が取れるはずがなく、基壇の礎石は小さい石で2段にしました。法隆寺、薬師寺、西大寺、元興寺はみな金堂が2段屋根であり、大極殿はお寺ではありませんでしたが、当時の流行工法と考えて、2段屋根にしたそうです。

当時、瓦は北に隣接した平城山の粘土を使ったそうですが、いまはとれませんので、淡路島の粘土を用いたそうです。中国皇帝の宮殿には黒瓦が用いられており、平城宮にも黒瓦が使われていたそうです。ところが、黒色がいまの陶磁器・窯師には出せませんでした。温度を変えても銀色になってしまうのです。試行錯誤の末、瓦が完全に焼ける直前に窯のふたをあけて、空気を送り込めば、黒色の瓦が作れることを発見されたそうです。

柱の色は瓦の遺物に残されたベンガルの赤が用いられました。瓦は無子葉→単子葉→複子葉と時代が経るにつれデザインが複雑化しましたが、大極殿の瓦のデザインは真ん中の単子葉でした。当時、天井や壁の絵が描かれてあったかどうかはわかりませんが、薬師寺や法隆寺の手法を採用して、上村淳之 画伯の手によって、直接描かれました。

せっかくつくった大極殿が地震で倒壊しては、元も子もありません。最新式の免震装置が備え付けられています。今後、内裏、朝堂院などすべて復元していく計画だそうです。残念なことに朝敵?(死後すぐ汚名返上した)長屋王邸宅の復原は計画には入っていません。

私が信じている説ですが、木簡で親王と呼ばれた長屋王は、695年大化改新で即位した高市天皇の息子にして、滅びゆく九州王朝の希望の星でした。

さすが予算面で文化庁管轄では手に負えなくなり、国土交通省管轄で計画が進められていることはご存知でしょうか?奈良市から当選を果たした馬淵澄夫国土交通大臣の腕の振るいどころです。いま問責決議案可決で揺れに揺れていますが・・・大和西大寺駅や近鉄奈良線が地下にもぐる計画も進行中です。さすが、国土交通省には計画を動かせる予算がたくさんあるようです。古墳づくり→寺院づくり→城づくり→鉄道づくり→舗装道路づくりと古代から現代まで利権が脈々と流れていますね。

平城山

http://www.youtube.com/watch?v=QI6DDUyswQE&feature=related

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2010年11月24日 (水)

江夏・田淵の黄金バッテリー

最近のプロ野球はまったく面白くない。ファンと一体の試合作り、商売抜きの素朴な手作り感、鬼コーチとマンツーマンの猛特訓に立ち返るべきでしょう。巨人のV9を阻むべく、立ち向かった阪神タイガース。この試合をリアルタイムで見れたことは幸せでした。敵味方ともにみんな、教科書になる選手ばかりでした。

スリークオーターの江夏のピッチング

http://www.youtube.com/watch?v=1w1yLEAqgho&feature=related

田淵の芸術的なアーチ

http://www.youtube.com/watch?v=RAo2MXxWrCw

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2010年11月23日 (火)

近つ飛鳥博物館を訪ねて

201011231150000

近(ちか)つ飛鳥は大阪河内の飛鳥、遠(とお)つ飛鳥は奈良の飛鳥のことだそうです。「鉄とヤマト王権」の秋季特別展を見てきました。湾岸線、泉北自動車道を使えば1時間ちょっとで行けました。偶然、ミニシンポジウムの整理券が配られていましたので、聴講することにしました。

「鉄の流通と国家形成」 豊島直博氏 文化庁文化財調査官

鉄器の出土数は3世紀まで圧倒的に北九州に集中している。3世紀後半、前方後円墳の登場により、次第に近畿の鉄器出土数が増加逆転した。3世紀までは隣国へゆっくり伝わり、九州から日本海を経由して近畿、関東に伝わった。前方後円墳ができる3世紀以降、鉄の生産は、畿内中央政権が全国に配布した。とは両刃の刀のこと。は片側しか切れない。鉄剣も鉄刀も日本で生産されず、韓半島から輸入した刀身を把からはずして用い、把(つか)は日本製で、西日本は木製、東日本は鹿角製。3世紀以降、把のデザインも近畿風に統一されてきた。把をみれば、その国が畿内中央政権下にあることが一目瞭然であった。

刀、槍はともに近畿中心に分布している。世界的にみると青銅器より殺傷能力の高い鉄器を所持すること、すなわち国家権力掌握となるが、日本の場合は事情がちがう。日本の国家形成に、鉄器は関与していない。征圧された国が、賞与として近畿から鉄器を受け取ったと考えるべきだ。

「鉄鋌40枚と谷那鉄山」 徳島大教授 東潮氏

倭の外に、高句麗、百済、新羅、加耶、任那以外に、百済に従属しない百済=慕韓、新羅に従属しない新羅=弁辰が存在した。その各国が、鉄鋌(てつてい)と呼ばれ、鍬、刀、剣、槍、鎧など何にでも簡単に加工できる規格品を大量生産して、倭に輸出していた。かわりに倭から韓には、槍に付ける筒型銅器を輸出していた。つまり倭は、原料の鉄を韓から輸入して、加工品を逆に韓に輸出していたのである。鉄鋌は一束40枚単位で売られ、貨幣と同価値であった。茨木市の紫金山古墳がもっとも注目すべきで、鉄鋌がたくさん出土しているなか、日本特有の鉄製加工品がはじめて作られた形跡がある。鋳型をつくるための石の加工技術、鉄を溶解するために必要なフイゴをつくるための土器の加工技術も、鉄器自主生産に不可欠要素である。

施設会場は1階かららせん状に3階建になっており、ゆっくり見学できました。奈良大学名誉教授の水野正好氏も今年夏の奈良テレビ講演会で言っておられましたが、瓦の存在は仏教寺がそこにあったことを示すもの。神社には瓦は使われなかった。瓦は、仏教伝来があったのちに建てられた寺の専売特許であった。奈良県明日香の飛鳥寺の瓦が日本最古だそうです。588年、飛鳥寺建立。決して九州王朝があったとされる大宰府には最古の瓦は存在しない。その瓦のデザインである花弁のパターンが時代ごとに複雑化しており、寺の瓦に描かれる花弁のデザインを見れば、その寺がいつ建てられたかがわかるという趣旨の展示があり、興味が惹かれました。

仁徳天皇のころのような鉄器時代にも、土師(はじ)氏の里で土器加工がさかんに行われましたし、その勾玉加工、鉄器加工、石加工など部落ごとに生産工の住む里が天皇陵周辺を固めていました。

日本史に詳しい嫁の解説を紹介したいと思います。霊力が宿ると古来日本から信じられていた勾玉の原料は翡翠(ひすい)です。日本国中に出回っていた翡翠はすべて富山県糸魚川でしかとれませんでした。神道などシャーマニズムが信じられていたころは、東日本と西日本のあいだに戦争もなく、鉄剣の把(つか)は各地方の諸事情でつくられ、勾玉も各地方で翡翠から加工され、決して他国から強制されることはなかったはず。しかし、儒教、道教、仏教など外国の宗教が伝来し、邪馬台国・卑弥呼をピークとするシャーマニズムの効力が疑問視されるようになると、翡翠を媒介とする平和外交が破綻をきたし、東日本と西日本のあいだに戦争が勃発しました。その最たるものが、大王を頂く大和朝廷と、倭王を頂く九州王朝のあいだの戦争の数々でした。

日本の国家形成の原動力は、中国・朝鮮のように鉄器ではなく、銅鐸・銅鏡・翡翠などのシャーマニズム文化だったのでしょう。覇道ではなく、王道を重んじた日本人の先祖に誇りを感じました

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2010年11月21日 (日)

興福寺執事長 森谷英俊先生 講演会

昨日、奈良公園興福寺南円堂横にある、興福寺会館で、講演を聞いてきました。由緒正しき寺社文化を有する奈良市では、医師と僧侶は親交があります。ほかの医師会に誇れる点でしょう。今回も医師会幹事と興福寺とのお付き合いの縁で、特別講演を聞くことができ、大変感謝しております。

「奈良から生まれた伝統文化」 興福寺執事長 森谷英俊先生 

玄奘三蔵がインドから持って帰った唯識論を慈恩大師が大成。奈良時代、玄昉が唐から法相宗を持って帰り、興福寺に伝えました。

いま興福寺は、中金堂を再建工事中です。興福寺は藤原氏の氏寺であり、春日大社は藤原氏の氏神です。日本で最も権勢を誇る氏だけに、この二つは大いに栄えました。対する東大寺は天皇の寺です。

奈良時代、日本国民の大半が竪穴式住居に住んでいましたが、奈良平城京は50mを超える大建築物がニョキニョキ建っている夢の都市でした。しかも天平の瓦つきで。猿沢池は当時沼地で、その良質な粘土を焼いて天平の瓦を大量生産したのです。掘った跡に水がたまっていまの猿沢池になりました。

たとえば、五重塔。森谷先生が五重塔をいまの建築会社が作るとしたら、何年かかってお金はなんぼかかると計算してもらったことがあるそうです。そうしますと、一層あたり10億円、五層で50億円かかり、5年はみといておくれやすとの返事があったそうです。ところが古代の文献を調べますと、光明皇后が730年春に五重塔建設の詔を発し、同年秋に完成したとあります。それだけ寺建設にたずさわる高技術者集団が存在していたことがあらためてわかりました。寺を建てるぞと言われて、あいよと答えて半年で作り上げるだけの大工が奈良にはいました。

平安、鎌倉、室町時代、興福寺は大和一国を完全に治めました。さらに、伊賀上野、河内長野までその支配は広がっておりました。大和の長は春日大社の神事をもあずからねければならないという重職ゆえに、当時のぽっと出の国司に勤まるわけがないと、政府が派遣した国司を追い出しました。

これだけの寺に住む大勢の超エリート集団であった僧侶たちを養うために、まず清水が必要です。坊さんが住む場所を院と呼び、大乗院、一条院、相応院などたくさんの院がつくられました。いまの県庁あたりにあった相応院の長を務めていたのが、東大寺仁王像をつくった運慶、快慶でした。そしてそのそれぞれに仏さんが安置されていたのです。また院には井戸がたくさん掘られました。全国から税として集められた良質の米がありました。

水と米とくれば、酒が生まれます。ところが飲酒戒(おんじゅかい)といって、坊さんは修行の妨げになるという理由で禁酒。酒を飲めば僧職を失い俗世間に追放処分となりかねません。ビールがだめなら、日本酒はいいだろう。日本酒がだめならウィスキーはいいだろう。こんな風に戒律を掻い潜ろうとする呑兵衛坊主が続出したために、こういう製法でつくった飲み物は一切禁止するという書物が残されました。そこには実に詳細な酒の製法が書かれてありました。それを興福寺は河内長野の杜氏たちにつくらせました。「白酒」はいまのどぶろくみたいなもの。「黒酒」は竹を焼いた墨を混ぜた苦い酒でした。これらの酒は2,3日もすれば腐って酸っぱくなって飲めなくなるのが大きな欠点でした。遠くまで運べなかったからです。そこで興福寺の僧侶はいろいろ工夫を重ね、火を入れる工程を加えたところ、保存期間が著しく伸びたのです。フランスのパスツールが滅菌を発見する数百年前のできごとでした。

興福寺の僧兵と平家の確執は有名です。平重盛はいくたびか夜襲をかけましたが失敗。いまの般若坂あたりの民家に火を放ち、風に火の粉が乗って、東大寺と興福寺は焼打ちに会いました。漆は金と同じくらい貴重なもの。漆を大量に使った乾漆造りの軽い仏像であったからこそ、焼失をまぬがれたのです。

織田信長は大の貴重品好き。誰も見たことがない黒人と語らい、誰も口にしたことがないワインを愛飲していました。国産でなんとかつくれんのかという御布令が出たとき、手を挙げたのが興福寺と河内長野の杜氏でした。豊富な醸造技術を有していただけに、ワイン製造などお茶の子さいさいでした。

奈良が誇る産物には、墨があります。油芯の煙から出る墨を集めて作られました。室町時代に有名だった工場が、いまは春日大社一の鳥居近くのトイレになってしまっているそうです。応仁の乱の日野富子もここの墨を愛用していました。

この1時間の講演が終わって、特別公開されている五重塔初塔に安置されている12体の仏像を見学しました。水晶を割って黒目をつくっていました。中心柱の下に安置されている仏舎利も見ました。次は東金堂見学。本尊薬師如来像を筆頭に、その背後を守護する仏さんも何十年ぶりかに帰ってきたそうでして、普段は見られない薬師如来の裏も見ました。

最後は国宝館見学。釈迦の十弟子像のなかには情けない顔をした像がいて笑ってしまいました。童顔の仏像もよくできていて、その中の一つが阿修羅ですね。5時半に行ったのですが、10分程度待ってやっと正面から顔を拝めました。白鳳時代の貴重な仏頭もいいお顔でした。

201011201749000外に出ると満月が三笠山にかかっていました。五重塔と満月というナイスなコラボもよかったです。とことこ飛鳥荘の宴会に出席。おいしい料理の数々と春日大社の銘酒「春鹿」をいただきました。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

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2010年11月19日 (金)

イッヒ ハット アイネン カメラーデン

18~19世紀ごろのプロイセンは、横に長く並んで、足並みを揃えながら歩兵が進んでいくという戦闘方法をとっていた。

http://www.youtube.com/watch?v=vKnRLUqynds&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=ehl6F90rj3U&feature=related

Ich hatt' einen Kameraden,
Einen bessern findst du nit.
Die Trommel schlug zum Streite,
Er ging an meiner Seite
In gleichem Schritt und Tritt.

僕には戦友がいた。あいつほどいい奴はいない。戦闘の合図の太鼓が鳴って、あいつは俺の横で足並みをそろえて歩みをすすめていった。

Eine Kugel kam geflogen:
Gilt sie mir oder gilt sie dir?
Ihn hat es weggerissen,
Er liegt zu meinen Füßen
Als wär's ein Stück von mir.

一発の弾がとんできた。標的はぼくなのか、それともおまえなのか?弾はアイツを粉々に引き裂き、奴はぼくの足元に横たわったんだ。まるでぼくの体の一部のように。

Will mir die Hand noch reichen,
Derweil ich eben lad'.
"Kann dir die Hand nicht geben,
Bleib du im ew'gen Leben
Mein guter Kamerad!"

ぼくが弾をこめていると、アイツは手をぼくに差し伸べようとした。「お前にいま手を差し伸べることはできない。永遠に安らかな眠りについてくれ。俺のよき戦友よ。」 これが、アイツとの最後の別れだったんだ。

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フェアシュトーレン ゲート デア モント アウフ

ある男が、レーベンブルクに住む酒場のお嬢さんに思いを寄せて、月を静かに眺めているのであろうか。レーベンブルクまで昇れと月に願う。なかなかあの子に会いにいけないけれど、月は男と娘を見ている。冷たく青い光を放ちつつ。

Verstohlen geht der Mond auf,
blau, blau Blümelein!
Durch Silberwölkchen führt sein Lauf;
Rosen im Tal, Mädel im Saal, o schönste Rosa!

月が忍び足で昇る。青い、青い、花よ!銀色の雲のかけらを貫いて、月がすすんでいく。谷間のバラよ、酒場の娘よ、おお、もっとも美しきバラよ!

Er steigt die blaue Luft hindurch,
blau, blau Blümelein!
Bis dass er scheint auf Löwenburg.
Rosen im Tal, Mädel im Saal, o schönste Rosa!

冷たく青く澄んだ空気を貫いて月が昇る。青い、青い、花よ!レーベンブルクに月が輝くまで。谷間のバラよ、酒場の娘よ、おお、もっとも美しきバラよ!

O Schaue, Mond, durchs Fensterlein!
Blau, blau Blümelein!
Schön Trude lock mit deinem Schein!
Rosen im Tal, Mädel im Saal, o schönste Rosa!

おお、小窓から月を見て!青い、青い、花よ!美しき(月の)妖精が、月の光で手招きをしている。谷間のバラよ、酒場の娘よ、おお、もっとも美しきバラよ!

Und siehst du mich und siehst du sie,
blau, blau Blümelein!
Zwei treure Herzen sahst du nie.
Rosen im Tal, Mädel im Saal, o schönste Rosa!

月よ、おまえはぼくを見ている。そして彼女を見ている。青い、青い、花よ!月よ、おまえは僕と彼女ほど二つの誠実な心をみたことはないだろう。谷間のバラよ、酒場の娘よ、おお、もっとも美しきバラよ!

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2010年11月16日 (火)

四天王とビザンツ帝国

いよいよ今週土曜は、興福寺住職の医師会講演を聞きます。懇親会もさることながら、阿修羅にも会えるそうなので、いまから楽しみです。

アレクサンダー大王が残したヘレニズム文化がガンダーラ美術として結実し、仏像彫刻がギリシャ人の手によってはじまりました。そのギリシャ人が打ち立てたのが、ビザンツ帝国でした。シルクロードを通り、新羅から倭京(大宰府)に直輸入されたビザンツ文明は、多利思北狐(タリシホコ)、天武天皇、聖武天皇らのバトンリレーで正倉院に安置されました。

東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天の見学もできるようです。わたしの想像ですが、四天王の勇壮な仏像のモデルは、当時世界最強を誇ったビザンツ帝国兵士ではなかったのかな。東大寺の仁王像も然り。ありゃインド人でも中国人でも高句麗人でも百済人でも倭人でもない。ビザンツ人じゃないのか、そんな気がします。

ゴダイゴ 「ガンダーラ」

http://www.youtube.com/watch?v=I3jq8U1hHaU

玄奘三蔵は、龍樹(ナーガルジュナ)が説いた密教「大般若経」を求めて旅に出ました。この要約が、大乗仏教の根本経典「般若心経」となりました。

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2010年11月12日 (金)

平安日本語の復元

紫式部の話していた言葉を聴くことができました。なかなか美しい音色です。

http://www.youtube.com/watch?v=5jEWDiPlxXU&feature=related

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2010年11月 8日 (月)

マイ ベスト クラシック

クラシックの中で1番好きな曲は、チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番です。本場ロシアのコンサートに行ってみたい。

http://www.youtube.com/watch?v=i30OLiGcjss&feature=watch_response

http://www.youtube.com/watch?v=Uc8o8Rq7780&feature=related

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2010年11月 3日 (水)

銀閣寺と足利義政

急に冷え込み、紅葉の季節になりました。もみじといえば、京都。京都嵐山、北山・金閣寺、東山・知恩院にはよく行きますが、今朝、NHK番組「W×W」を見て、銀閣寺の印象が一変しました。

かの応仁の乱では、古代から住み慣れていた貴族たちが日本各地に散り散りばらばらに逃亡しました。その要因となった室町将軍・足利義政。争いを憎み、京都の荒廃を悲しみ、東山に茶の湯と月見の文化を築きました。その結晶が銀閣寺だったとのことです。いまの銀閣寺からは想像もできないような月見のための別荘だったようです。壁はミョウバンを混ぜた白土でできており、まさに銀でできたような寺だったそうです。

夜が更け静かに月の出を待つ。1階に坐って山から昇る月をまず20分楽しみ、1階から見る月が見えなくなると2階に上がる。そして障子をあけ、2階から池に映る月をさらに20分楽しみ、月のかげが池をわたっていく。仏に祈りをささげ、酒をたしなみ和歌を詠んでほろ酔い気分で2階から階段を下り、隣の室につながる廊下をわたる。そこには月に真っ白く照らされた銀閣寺と、月と、池に映る月。午前3時まで満月、三日月などいろんな月三昧を味わえたそうです。

すばらしい義政のセンス、ニッポンの美の結晶が銀閣寺にこそにあると、見方がガラリと変わりました。

豊臣秀吉が利休の茶道を大名に勧めたわけ。茶の湯をともにした大名たちは、その日だけは裏切って暗殺することはできないという暗黙の了解があったからのようです。秀吉はまさにこの義政の理念を引き継いだのでしょう。

Verstohlen geht der Mond auf (ドイツの美しい月の歌)

http://www.youtube.com/watch?v=c65MZgCqAYQ

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