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2010年10月29日 (金)

第62回正倉院展を観て

201010291949000_2昨日木曜日、市の1歳半健診を終え、奈良国立博物館の正倉院展に行ってきました。今年は、なんと言っても、「螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんのごげんびわ)」がメインでしょう。聖武天皇愛用の1品です。16:20に博物館に到着。前売り券を買っていましたので、さっそく入場したところ、五絃琵琶の前に長蛇の列ができていました。最初17時に閉館と勘違いしており、第1部展示は後回しにして、比較的すいていた第2部から観ていくことにしました。まず目に付いたのは、称徳天皇が東大寺に寄進した大きな銀壺(ぎんこ)でした。えらい財産もちやなあと感心しました。次に目に留まったのは、鳥獣花背円鏡(ちょうじゅうかはいのえんきょう)。真ん中に海獣、その周囲にぶどうの木が飾ってあります。第3部には、麻でできた色紙や、木簡が展示してありました。さらに恒例の古文書コーナーを見ていてびっくり。道鏡直筆の古文書がありました。つつましやかに、「法師道鏡」の直筆サイン。称徳天皇と同等の位であった法王にまで上り詰めていた道鏡。東大寺の高僧、良弁(ろうべん)は「大僧都良弁」とサインしているのに比べ、少々わざとらしい演技のように感じられます。父・藤原不比等のために書写した光明皇后直筆のお経、父・聖武天皇のために書写した称徳天皇直筆のお経も展示されていました。字は人柄を表すといいますね。

(1)光明皇后 

墨は薄めで字体は細いが、一字一画ていねいにお書きで、夫より一歩ひいた慎ましやかにしてまじめなお人柄を感じました。

(2)称徳天皇

墨は濃く、字体は太く、最初のおさえ、終わりのハネまでしっかり書いており、我こそはと前に出る気丈なお人柄を感じました。

(3)道鏡

墨は薄く、字体は太く大きいが、雑な感じを受けました。しっかり墨をすらずに書くところは、せっかちでラフな性格じゃないかなと思いました。事実上の妻であった称徳天皇の字と正反対のように思えました。

17時をすぎても人ごみは続きましたが、意を決して第1部を観ることにしました。まず目を引いたのは、鳥獣花背八角鏡(ちょうじゅうかはいのはっかくきょう)。鳳凰が描かれていました。光明皇后愛用のボロボロの靴もありました。獣皮ではなく、麻の紙でできているそうです。10分ほど並んで、やっと五絃琵琶を拝みました。ボーリング10ピンのような絵柄、らくだに乗った人物像が描かれていました。病弱の聖武天皇が死んで余った薬の数々が展示されており、種々薬帳(しゅじゅやくちょう)には紫微中台であった藤原仲麻呂のサイン、左京大夫の藤原永手のサインなどを観ました。第1部から第3部まで行ったりきたりしているうちに、ひと気もぐっとなくなり、17:40に五絃琵琶を見に行くと、行列はすでに無く、立ち止まって見放題でした。グルリと周りを取り囲む程度の人しかいなく、おかげでじっくり観察できました。ヤコウガイの殻でできた花飾りですが、暗闇で光るのかなと思ったりしました。

閉館の18時ちょうどまで、十分堪能できました。来年以降もこの1時間前入場作戦で観ようと思います。11月後半には、医師会主催で興福寺住職による「奈良から生まれた伝統文化」の講演、さらに医師会主催で奈良文化財研究所室長による「平城宮大極殿の復原」の講演と続きます。私のような古代奈良ファンにはたまらないイベント三昧です。

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2010年10月25日 (月)

ONOKORO、夢舞台を観て

201010101402000淡路ワールドパークONOKORO、淡路夢舞台、国営明石海峡公園に行ってきました。淡路ワールドパークは、やはりこどもたちが多く来ていました。みどころは、世界中の宮殿のミニチュアでしょう。童心に返って、列車に乗って、宮殿を見て回りました。ラビズラズリの青いイスラム宮殿がきれいでした。

スレイマン大帝

http://www.youtube.com/watch?v=dET3-Kdox_A

201010241442000淡路夢舞台は、土地開発で伐採した森林を復活させるべく、人間と自然の調和をテーマに作られたものです。「奇跡の星の植物館」は温室になっており、胡蝶蘭が咲いていました。あと和風庭園がありましたが、外人向けに作られており、イマイチでした。閉園1時間前に入りましたので、人出もまばら。園内列車「夢ハッチ号」にゆったり座れて、園内を1周できました。

201010241504000明石海峡公園を小雨そぼ降るなか歩きますと、ポプラ並木にマリンゴールドがいっぱい植えてあり、とてもきれいでした。

201010241516000コスモスが満開で、記念撮影をしました。来週日曜にコスモスを刈り取るそうです。早咲きのコスモス畑、遅咲きのコスモス畑の2種類あるそうです。今週は、正倉院展に行く予定です。

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2010年10月15日 (金)

大仙古墳(仁徳天皇陵)を訪ねて

201010141608000木曜午前診を終えて、近鉄奈良線、JR環状線、阪和線と乗り継ぎ、堺の百舌鳥駅で下車し徒歩数分で、大仙古墳に到着しました。学園前から片道1時間15分くらい。日本最大の前方後円墳というだけあって、威厳のあるたたずまいでした。左の写真は、方墳正面の鳥居です。周囲は約2.8km。さっそく右回りでぐるりと古墳のまわりを歩いてみました。住宅地や大阪女子大学キャンパスと隣接しており、古墳が市民生活と溶け込んでいました。

201010141623000ちょうど仁徳天皇が眠っている円墳あたりに、なんとラブホテル「アダージョの森」が建っており、その隣に数軒、分譲住宅が並んでいたのには、ほんまビックリしました。これで世界遺産になれるんかいな?阿鼻叫喚の合戦場に居ては、仁徳天皇もおちおち寝ていられませんね。

201010141629000汗をかきかき早足で歩きますと、ちょうど半分の通過点を知らせる碑が立っていました。1周40分かかりました。こんな碑が1周10個くらい立っています。ジョギングする人、ウォーキングする人、サイクリングする人などさまざま。一度は訪れてみたい場所でしょう。墓参りするだけやのに、ようこんなに馬鹿でかいもんを建てたもんやと、実感することができました。

201010141531000道路を隔てた向かい側、大仙公園の中に堺市博物館が建っています。入場料は一般100円と安価でした。仁徳天皇が倭王讃だとすると、朝鮮半島へ出兵できるだけの軍船と水軍と武器を持っていたはずです。400年、かの高句麗・広開土王と一戦を交えているのですから。しかし、出土してきたのはお飾り程度の鉄の軍服くらい。重すぎたり動きにくかったりで、実戦向きではなく、威嚇のための軍服だという解説がしてありました。埴輪は、犬、人以外に、馬も出土しており、400年ごろには馬は河内にいたみたいです。倭の五王の時代、河内には平和ラッパが流れていたのかもしれません。

さいざんすマンボ なつかしのトニー谷

「恋をするのもソロバン勘定、おかねがなければご破算ざんす」

http://www.youtube.com/watch?v=vWxPh7W9dtA&feature=related

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2010年10月13日 (水)

・・与利、・・賛江

フジテレビ「笑っていいとも」をいま見てましたら、友達の輪テレフォンコーナーで竹野内豊が出演していました。最近また一段といいオトコになりましたね。「龍馬伝」の高杉晋作役、伊勢谷友介にも惚れてしまいましたし・・・。龍馬と晋作が海辺で語らうシーンは涙が出ました。

後ろに上戸彩の花束があり、「上戸彩 与利 竹野内豊 賛江」と札がさしてありました。与利=より、賛江=さんへ、という意味のようですが、なかなか面白いと思いました。V6森田と別れたといううわさの上戸彩ちゃんも、新しい恋人募集中で気合がはいっているのかな。夜露死苦=よろしく、なんて暴走族の漢字文化にも通じますね。上戸彩ちゃんは「李香蘭」役がいまだにかわいさの極致で忘れられませんね。

http://www.youtube.com/watch?v=SPXQiB7iCSk

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2010年10月10日 (日)

上代特殊仮名遣

上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)と読みます。万葉集で使われている万葉かなのことです。現代日本語の母音は、あいうえおの5音。現代韓国語の母音は8音あるそうです。「上代特殊仮名遣」の母音は8音ありますので、朝鮮から渡来した人たちが、古事記、日本書紀、万葉集を書いたとする説は的を得ているでしょう。飛鳥・倭京、白鳳(藤原京)、奈良(平城京)、平安京、鎌倉、建武新政、室町、戦国、安土桃山、大坂、江戸、明治、大正、昭和、平成と時代がくだるにつれ、母音が5つに退化したという考え方が有力なようです。日本語の国文法の大家は「時枝文法」で知られる時枝誠記(ときえだもとき)博士ですね。そこから東大学派・大野晋(おおのすすむ)博士と、京大学派・阪倉篤義(さかくらあつよし)博士がおられます。大野晋博士の直系が、駿台予備学校で教わった、大和物語の大家・高橋正治(たかはししょうじ)教授です。

一方、日本に漢字が百済から伝来する以前に、独自のヲシテ文字を使っていたんじゃないかという説があります。土台となる文字がなくては、倭人があんなに早く外国文化を吸収できるはずがありません。日本太古の歴史を記す「ホツマツタヱ」がその原典です。東北発祥の縄文人が使っていたヲシテ文字の母音は5音で、ことばにはすべて言霊(ことだま)が存在し、ことば自体に霊力があり、その意味を組み合わせて、日本語を創造しました。

倭(九州王朝)を支配していた、弥生人(任那、伽羅、百済と縄文人の混血)は朝鮮由来の上代特殊仮名遣を用い、ヲシテ文字を使い神事をおこなった大和朝廷と融合したと考えるのが、自然の流れのように思います。古代から現代にいたるまで、朝鮮系の文法から、日本古来の文法に先祖がえりしたのかもしれません。この最大の要因は、天智系による天武系の抹殺が関与していると、私はにらんでいます。桓武天皇による焚書に注目しています。

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2010年10月 6日 (水)

官僚ってなに

現代の官僚は、何枚も隠れ蓑を持っていて、金の流れや権力構造や出世にまつわる悲哀などが大衆には見えにくくなっています。日本で革命が起きたことはありません。ですから古代の官僚制度は現代の官僚制度と、基本構造はなんら変わりません。古代のシンプルなモデルを知ることで、現代の官僚制度の本質とその問題点を探れるかなと思って、上記の本を読んでみました。宮仕えのしんどさがよくわかりました。いい目をしているのはいつも最上層部だけなのですね。

藤原不比等・刑部親王の政策 701年大宝律令

長屋王の政策 722年百万町歩開墾計画、723年三世一身法

橘諸兄の政策 743年墾田永年私財法

大学には、明経(みょうぎょう)科、明法(みょうほう)科、文章(もんじょう)科、算科の4コースがありましたが、奈良時代は儒教を研究する明経が多人数で出世コースでした。大天才、空海も明経科を中退しています。ところが平安時代、嵯峨天皇が漢詩の才を重んじ、文章科を優遇したために、文章博士が憧れの出世コースに変わりました。算術ができても出世は望めず、これが文系有利理系不利社会の原型となりました。

階級は30段階に分かれ、正1位(しょういちい)から少初位下(しょうそいのげ)にいたります。無位の庶民は死んで墓に入ることは許さぜず、清水寺などに死体が放置され、野良犬やカラスがついばみました。貴族は火葬、皇族は土葬でした。従3位以上が上流、正4位~従5位が中流、それ以下が下流。3位以上になれば、給料はうなぎのぼりでした。5位になれば、国司として地方で威張ることができました。しかし国司として地方を凱旋しても、都の流行を忘れ、まったくの田舎もんになりさがってしまうので、貴族のお嬢様からは軽蔑されていました。国司が死ぬと、5位のポスト志願者が群がる様子を清少納言はあさましと軽蔑しています。貴族の身の回りの世話をする女房のいるところまで通い詰めて、就職活動をしました。女房はそんな惨めな姿をあざ笑っていました。

紫式部 「いやしげなものは五位」

清少納言 「物の数でもない五位」

ところが女房たちが奉仕するお姫様が年とって、貴公子が通わなくなりますと、経済的援助が途絶え、家や春を売らなければ女房もお姫様も共倒れという事態に陥りました。

財テクに走り、経費節約で自ら田を耕した国司がいました。そうして都から美女を呼び寄せ、名を捨て実を取り、逆に左京区に家すら買えない都人を下に見ていました。また金を払って位を買った国司は、モトをとるために領民から税を搾り取って私腹を肥やしました。不三得七の法といいまして、中央に7割だけ税を納めれば、3割は自由に着服できました。俗に手間賃、ピンハネといわれます。現在の地方公務員の隠し持つ「金庫」といったところです。

国司にも大国、上国、中国、下国の4段階のランキングがありました

大国→ 大和、河内、近江、越前、播磨、伊勢、常陸、肥後など。

上国→ 山城、摂津、紀伊、阿波、尾張、美濃、出雲、筑前、筑後など大半。

中国→ 能登、若狭、土佐、長門、日向、大隈、薩摩、石見など。

下国→ 和泉、飛騨、淡路、伊豆、隠岐、壱岐、対馬、伊賀、志摩。ひとことで言えば流刑の地。

従五位下(げのじゅごいのげ):地方の金持ちが従5位を1億円で買った場合で、実際にはもっと身分が低い

従五位下(ごんのじゅごいのげ):仮の従5位という意味で、実際にはもっと身分が低い

まず公務員であれば、土地と住居が支給され、税金は全額免除でした。持てる土地は1町まで。1町=100m×100m。ただし、退職金と失業手当はなし。初期荘園では、土地の売買はされても農民を含みませんでしたので、買田は荒れ放題でした。給与には、位に付く固定給(位禄いろく)と、ポストに付く職務給(職封しきふ)があります。そのほかボーナス(季禄きろく)がもらえました。ポストに付けない窓際族でも固定給だけでなんとか暮らしていけました。官僚が飢餓に瀕する心配はなかったようです。給料は、塩・絹・綿・麻布で支給されました。日勤、夜勤に分けられ、それぞれ1日として勘定されました。善(勤務姿勢の評価)と最(仕事処理能力)の二つの面から成績がつけられ、キャリアの成績は上上から下下まで9段階評価、ノンキャリアの成績は上、中、下の3段階評価でした。審査項目は次の4つ。

功(くう) 勤務成績良好かどうか。賄賂(裏献金)は善行です

過(か) 勤務成績不良かどうか。

行(ぎょう) 行為が道徳的かどうか。

能(のう) 才能があるかどうか。

キャリアは6年間連続、ノンキャリアは8年間連続で、中中の成績であれば、1階級昇級しました。6位以下は昇格基準が厳守されましたが、5位以上は手加減が加えられました。給与以外に刑罰も、身分によって軽重が存在しました。

正1位のこどもが成人すれば自動的に従5位スタートになり、あとは裏工作でなんとでも。こうして、藤原氏は大伴氏、橘氏、紀氏といった政敵を駆除しました。中傷、嫌疑、怨念、呪詛、失脚、拷問、流刑、悶死、暗殺といった暗いキーワードがオンパレードの奈良時代。平安時代になるとめっきり貴族殺人が減りました。官僚制度とは成熟した無血システムではないでしょうか。

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2010年10月 3日 (日)

橋本武先生の講演(灘高同窓会にて)

Img01_2昨日、卒後はじめて灘高同窓会に出席しました。「伝説の」国語教師99歳、橋本武先生が講演されるということで、最後に担任された32回生がたくさん来るだろうと予想していましたが、7人だけの出席でした。「伝説」というと故人になりますが、まだまだお元気な現役教師ですので、「奇跡の」国語教師と呼んでほしいとのことです。NHK番組「ザ・コーチ」で銀の匙の授業で全国的にも有名になられた方です。東京高等師範学校を21歳に卒業されてすぐ旧制灘中学校に国語教師として着任されました。国家を担うエリートを養成する学校が昔は存在しておりまして、第一高等学校(=東大教養学部)、第三高等学校(=京大教養部)、陸軍士官学校、海軍兵学校、東京高等師範学校がそれです。前から4校は授業料がかかりましたが、とくに教師養成は国家の大事業でしたので、高等師範学校は授業料が全額免除されました。ですから、貧乏だけれど頭の優秀な生徒が師範学校に行き、学校の先生になったのです。当時の真田初代校長から、「10年で1人前ですな。」と言われ、赴任一年目の教師の裁量にすべてを託されました。中勘助の「銀の匙」はわかりやすく無駄なく流れるような文体で書かれており、夏目漱石も中勘助を絶賛していたようです。文科省の教科書は一切使わず、そんな文庫本をテキストとして使用されました。

講演内容は、86歳から94歳、あしかけ9年をかけて完成された「源氏物語」にまつわるお話でした。目もよく見えず、耳もよく聞こえないなか、ご自分の講演の様子をとった写真と、会話のメモを、後日ご覧になってやっと、誰が出席していて、誰とどんな会話を交わしたのか理解されるそうです。橋本先生は古文を読まれる際のこだわりをお持ちで、写本ではなく原本を手に取って、古代の人が読んだように読むことを心がけ、源氏物語なら自分が紫式部になった気持ちで現代語訳されるそうです。

この10月1日、灘高から「源氏物語」現代語訳が自費出版されました。瀬戸内寂聴の「源氏物語」は和歌を訳していませんが、橋本先生は作品の命である和歌も現代語訳されておられます。しかも中勘助仕込のメリハリある文体で。和歌のところでふんづまるような訳ではいけないという信念からそうされたそうです。上中下3巻6300円とお求めやすい価格です。なお書店販売はしておらず、灘高ホームページから購入できます。

さてさて、私たちは橋本先生の担任された最後の学年です。ほんとうのところは、どうなのか、同窓会後に居酒屋で32回生が回想した意見をちょっと記してみたいなと思います。今回出版された「源氏物語」を執筆されたほんとうの動機は、奥さんを早くに亡くされた寂しさを紛らわすためというのが正しいでしょう。ある同窓生からは、もっと幼い生徒に向き合ってほしかった、ご自分の世界をひたすら突っ走られた幸せな先生だとかいう意見が出されました。私は知らないのですが、昔、橋本先生が暗記させた漢文の中2定期考査で、のきなみ90点以上をたたき出したなか、20点をとった生徒がいたそうです。橋本先生は国語の授業中、みんなの目の前で、「なんでちゃんと勉強しないんだ。ぼくはそんなのは好きじゃないんだ。」と言われ、その生徒の頭を出席簿でバンバン何往復も殴ったそうです。なんだかなあ?勉強するのもしないのも、生徒本人の自由では?粛々と留年という罰を与えればいいのでは?

Z会国語科漢文の名物添削教師・二畳庵主人が名著「漢文法基礎」のはしがきの中でこう言われています。「私は、受験で有名な灘高の漢文教育に大いなる疑問を感じ、この書を記しました。」と。一方的な押し付けは憎むべき虐待であり、キャッチボールが、とくに幼い中学生に対する教育には必要だという意見が多く出ました。いまの教育はhow toばかり教えていて、whyの教育がない。帝大(=キャリア官僚養成校)入試のための受験勉強がまったく不要だった旧制高等学校こそhow to(=これが正解だと先生が言う答えを単に聞き覚える)は一切教えず、why(=これが正解だと先生が言う答えを疑い、本当に正しいのかをどうすれば自分の頭で考えぬけるか)を教える学校だった。教師という仕事は常に研究し続けなければならないという現職大学教授のすばらしい御意見もありました。橋本先生は殴りながら、ほかの生徒からwhyが出るのを待っていたんじゃないかという意見もありました。

76a私の感想です。勝山正躬(かつやままさみ)校長との校長選挙に敗北し、宝塚歌劇団にのめり込まれ、たしかに32回生への教育熱は薄れてしまっていたんじゃないかなという気がします。フジテレビ・黒岩アナ26回生先輩が言われるような事情とは、私たちのころは違っていました。勝山先生は旧制姫路高等学校卒、京都帝大卒でしたので、学閥の戦いに敗れたんじゃないかなと勘繰りたくもなります。実際、師範学校の怨念は強烈でして、師範学校と高等学校の間で繰り広げられた戦いで、師範学校側がアメリカ占領軍GHQを味方につけて、私立大学とともに学制改革を強行し、男女共学と6・3・3制を看板に、そのかげで(旧制)高等学校をフルボッコ跡形なくつぶしたのは事実なのですから。当時のアメリカは8・4制でした。

橋本先生が始めた「横道にそれる授業」、言い換えれば「how toから反れてwhyを問い続ける授業」の影響か、教え子である私のブログのテーマも、本来の土俵である医療から大きくそれています。

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